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第8話 三マナで健康体になるらしい

 前回の人間ドックから二日後の月曜日。

 会社の昼休み、自席で仕出し弁当をつついていた啓介のスマートフォンが小さく震えた。画面を見ると、不動産会社の高梨真紀からメールが届いている。

 先週末に見学した青梅市の山林物件に関する、追加調査の途中報告だった。


『青梅市の山林について、現時点での調査結果をご報告いたします。

 ・登記上の所有者と売主本人の一致を確認しました。

 ・抵当権、差押えなどの権利的な瑕疵はありません。

 ・公道への接道は法的に確認できました。

 ・現時点で隣地との重大な境界紛争はなく、隣地所有者のお一人とも連絡が取れており友好的な状態です。

 ・地目は「山林」であり、農地法の面倒な手続きは不要です。

 ・地域森林計画の対象森林に指定されているため、購入後九十日以内に市役所へ「森林所有者届出」が必要です。将来的に木を伐採する場合は別途届出が必要になる可能性があります』


 事実を淡々と羅列した無駄のない文面の最後に、啓介が最も待っていた一文が添えられていた。


『売主様も、門倉様からの三十八万円での買付申込みを承諾されました。

 つきましては、重要事項説明と売買契約の締結を、翌週の日曜日に弊社事務所にて行いたいと考えておりますが、ご都合いかがでしょうか』


 啓介は、ほっと小さく息を吐き出した。

 調査の結果、隠れたトラブルは見つからなかった。値切り交渉をせずに即決したことも功を奏し、売主はすんなりと売却に応じてくれたらしい。

 啓介はすぐに「問題ありません。指定の日時で伺います」と返信を打ち込んだ。


 カレンダーアプリを開き、来週の日曜日の枠に予定を登録する。

『青梅山林・重要事項説明/売買契約』


 売買契約までは、あと二週間ほど。正式な所有権の取得は、そこからさらに一、二週間ほど先になる。

 一方、三崎と約束した『医療検証』の第一弾は、今週の土曜日に迫っている。


 啓介はデスクの隅に置いた私用のノートを開き、手書きの進行表を更新した。


【山林購入】

 権利調査——クリア。

 次工程——来週日曜:重要事項説明・契約。


【医療検証】

 《日々の修繕》——今週土曜:正式試験。

 《健全なる肉体》——未使用。


「……完全に、二つのプロジェクトが並行稼働してるな」

 仕事のシステム開発の工程表を管理している時と全く同じ感覚になりつつある自分に、啓介は思わず苦笑した。


 同じ日の夜。

 帰宅した啓介の端末に、三崎から暗号化されたPDFファイルが送られてきた。

 ファイルを開き、タイトルを見て啓介は噴き出した。


『《日々の修繕》第一回再現性確認・実施手順書』


「あいつ……マジで臨床試験みたいな手順書作ってきたぞ」


 内容は、異常なまでに細かかった。

 検査前四十八時間は、魔法を含む一切の治療・回復行為を禁ずること。

 睡眠時間、食事内容、飲酒の有無を正確に記録すること。

 激しい運動を避けること。市販の鎮痛薬や湿布、栄養ドリンクの使用も禁止。

 ただし、自身の生理機能に直接干渉しない魔法(情報収集など)については使用を許可するが、使用記録は残すこと。


 当日の確認項目はさらに多岐にわたっていた。

 安静時の血圧、心拍、体温、酸素飽和度、握力、各関節の可動域、筋肉の圧痛。

 血液検査、尿検査。そして、運動負荷を与えた直後の状態記録。

 魔法使用直後、三十分後、数時間後、翌日の状態記録。


 三崎からチャットメッセージが届く。

『念のため言っておくが、魔法で治るか試したいからって、自分でわざと怪我を作るような真似は絶対にするなよ。採血の針痕と、通常の運動負荷で発生する筋肉の疲労だけで、検証には十分だ』


 啓介は呆れながら返信を打つ。

『分かってる。そこまでイカれた実験狂いじゃない』


 すぐに既読がつき、返事が返ってきた。

『記憶を自在に消せるようなカードを設計できる人間の自己評価なんて、俺はこれっぽっちも信用しない』


 啓介の指が、スマートフォンの上で完全に固まった。

 心臓が嫌な音を立てる。


(……待て。俺、あいつに記憶消去の魔法のことなんて、一言も話してないぞ……?)


 数秒の沈黙の後、次のメッセージがポップアップした。

『というのは冗談だ。お前、あの時絶対まだヤバいカードを隠してる顔をしてただろ』


 啓介は、全身から一気に力が抜けるのを感じた。

「……カマかけられた。勘のいい医者は本当に嫌だな」

 これ以上隠し事を抱えたまま医者と対峙するのは、心臓に悪すぎる。だが、今ここで記憶消去のカードまで打ち明ければ、医療検証どころではなくなる。三崎との信頼関係が固まり、自分自身があのカードを本当に封印できると確信するまでは、伏せておくと啓介は決めた。


 検査前の平日。

 《生命樹の苗床》の核となったオリーブは、窓際で順調に銀緑色の葉を広げていた。

 毎日、確実に生命マナを1点生み出してくれる立派な魔力源だが、現実世界においては、ただの植物であることに変わりはない。

 水をやり、土の乾き具合を確認し、日照を確保するために鉢の向きを変える。啓介は園芸管理アプリまでインストールし、几帳面に育成記録をつけ始めていた。


 小竜もこのオリーブを「新しい同居人」として認識したらしく、鉢の隣で丸くなって休むことが増えた。

 ただし、時折イタズラっぽく葉っぱに口を近づけようとする。


「こら。食べるなよ」

「あぎゃー」

「今、明らかに食おうとしてただろ」

「あぎゃ?」

 小竜は明後日の方向を向き、全く知らない顔をした。


 検査前で《日々の修繕》を使うことを禁じられ、本来の疲労を引きずって帰宅した木曜日の夜。

 ソファに座り込んだ啓介の右肩に、小竜がパタパタと飛んできて乗った。

 体重は大したことはない。しかし、慢性的な肩こりでバキバキに張った右肩には、そのわずかな重みすらも少し響いた。


「悪い、今日は右肩が限界なんだ。反対側に乗ってくれ」

 啓介が左肩を指差すと、小竜はピョンッと軽く跳ねて、指示通り左肩へ移動した。


「……お前、意外と言葉通じてるよな」

「あぎゃ!」

 褒められたと理解したのか、小竜は得意げに胸を張った。


 土曜日の朝。

 啓介は、三崎の勤務する健診センターへと足を運んだ。

 今回は通常の人間ドックではなく、前回の結果に対する「追加の経過確認」という名目だ。公式に必要な検査は正規の自費診療として処理し、魔法に起因する特殊な観察記録は啓介のオフライン端末で管理する。


 診察室に入ると、三崎は挨拶もそこそこに厳しい表情で確認を始めた。

「この四十八時間、身体に作用する魔法は一回でも使ったか?」

「一度も使ってない」

「薬は?」

「なし」

「睡眠時間は?」

「木曜が六時間、金曜が五時間半だ」


 三崎が呆れたようにため息をつく。

「相変わらず、会社員としては全く褒められない数字だな」

「より現実的な、疲労した検体を用意してやったんだよ」

「格好つけて言うな。ただの労働基準法ギリギリの生活だろ」


 啓介は、木曜と金曜の食事、就寝、起床、歩数、勤務時間を記録した一覧表を渡した。

 三崎はそれに素早く目を通し、「こういうところだけは本当に几帳面だな」と呆れ半分、感心半分で呟いた。


 まずは、安静状態での測定が始まった。

 血圧、心拍、体温。握力。肩と首の可動域。腰を前後に曲げた際の痛み。筋肉の状態。自覚的疲労度。

 そして、血液と尿の採取。


 二日間、魔法による修復を断った啓介の身体には、慢性的な肩こり、腰の重さ、眼精疲労、睡眠不足による頭の重さが、見事に蓄積していた。

 三崎が啓介の右肩の筋肉を、親指で強く押し込む。


「いっ、痛い痛い!」

「圧痛あり、と」

 三崎は無表情でメモを書き込む。

「もう少し、優しくできないのか?」

「勘違いするな。今日のお前は患者じゃない。未確認症例だ」


 測定が終わると、次は運動負荷テストだ。

 別室にある医療用のエアロバイクを漕ぐ。二十分間、一定の回転数を維持し、心拍数が所定の範囲に達する負荷をかけ続ける。


 普段、通勤の往復くらいしか運動していない啓介にとって、この負荷は想像以上にきつかった。

 十分を過ぎたあたりで全身から汗が噴き出し、十五分で太腿の筋肉が鉛のように重くなる。

 最後の五分は、心拍計の数字だけを睨みつけながら、必死の形相でペダルを回し続けた。


 横でタブレットを見ながら数値を記録している三崎は、涼しい顔で言った。

「学生時代より、明らかに体力が落ちたな」

「ぜぇっ……はぁっ……医者なら、励ませよ……!」

「事実を伝えてるだけだ」


 二十分の負荷テストが終了した直後、啓介はエアロバイクから崩れ落ちた。

 すぐに、三崎の手によって各項目の再測定が行われる。


 心拍と呼吸数の急激な上昇。握力の低下。太腿の強い張り。強い疲労感。全身からの発汗。筋肉の圧痛の増加。

 そして、運動直後の状態での二回目の採血。


「ここまでは、見事なくらい普通の『疲れたおっさん』のデータだな」

「……その表現、記録に残すなよ」


 三崎は、啓介のスマートフォンを使い、汗をかいた顔、強張った首の筋肉、そして、先ほど針を刺したばかりの新しい採血痕を記録した。

 前回、《創世札典》本体とカードがカメラにも映ることは確認済みだ。ただし、取り出したマナの光まで記録できるかは、まだ確認していない。

 今回は、マナの光も記録できるか確認するため、三崎はそのまま動画撮影を開始した。


 三崎は室内の機器と監視カメラの位置を再確認し、声を潜めた。

「この部屋の記録設備は切ってある。だが、廊下へ出る前にバインダーは必ず消せ」

「分かってる」

「魔法より、お前の危機管理の方が信用できないからな」


 啓介は姿勢を正し、呼び出したバインダーの《生命樹の苗床》から生命マナを1点取り出した。

 淡い緑色の光球は動画にもはっきり映った。一方、必要マナやカード状態を示すシステム表示は啓介にしか見えず、映像には残らなかった。

 残る二つの任意マナは、万が一の不測の事態のために保持したままだ。


「《日々の修繕》、使用!」


 緑の光が弾け、全身へと吸い込まれていく。

 変化は、前回と同様に劇的だった。

 太腿を満たしていた鉛のような重さがフッと薄れ、荒かった呼吸が落ち着きを取り戻す。

 肩と首の張り、腰の鈍痛が静かに引いていく。

 そして、採血の針痕が細胞レベルで繋がり合い、周囲の内出血も急速に薄くなっていった。


 だが、今回は前回気づかなかった明確な事実があった。

 エアロバイクを漕いだことで吹き出した汗は、肌にべったりと残ったままだ。

 急激に上昇した体温もすぐには下がらず、空腹感も、喉の強烈な渇きもそのまま残っている。

 心拍数も、一瞬で安静時の数値に張り付くような異常な下がり方はしなかった。


 三崎が、鋭く質問を投げた。

「喉は渇いてるか?」

「ああ、普通に渇いてる」

「空腹は?」

「腹も減ってる」

「汗は?」

「見れば分かるだろ。ベタベタだ」


 三崎は、小さく息を吐いた。

「つまり、筋肉の微細な損傷の修復は行っているが、失われた水分やエネルギーを虚無から生成して補充しているわけじゃない。発汗や体温調節といった、人体に必要な生理反応を消し去ってもいない」


 カードが治しているのは、あくまで『損耗』だ。

 不足している物質を満たしたり、人体の正常な反応を捻じ曲げたりするような力ではない。


「万能の全回復魔法じゃない。カードの名前どおり、『日々の修繕』ってことか」

 三崎は、どこか納得したように呟いた。


 使用直後の再測定。

 低下していた握力は運動前に近い水準まで瞬時に回復し、首と肩の可動域は改善。筋肉の硬さが減少し、圧痛は完全に消失した。自覚的疲労度も大幅に低下している。

 採血痕の閉鎖と内出血の改善も、カメラの記録が証明していた。


 一方で、心拍は時間をかけて徐々に低下し、発汗もすぐには止まらない。失った水分が戻ることも、運動能力そのものが強化されることもなかった。


 啓介は、身体が軽くなった勢いで、再びエアロバイクのサドルに跨ろうとした。

「よし、疲労が抜けた。検証としては比較しやすいと思うから、もう一回同じ負荷で……」


 三崎が、無言で啓介の腕を掴んで止めた。

「今日は二回目をやらない」

「え?」

「一回の使用で中長期的に安全だと確認できてない段階で、連続で人体に負荷をかけるな」

 医者の絶対的な正論に、啓介は大人しく引き下がり、水を飲んだ。


 三十分後、さらに昼食を挟んで数時間後にも確認を行った。

 身体の軽さは維持されており、遅れて痛みがぶり返してくるようなこともない。発熱や吐き気、動悸などの急性的な副作用も一切見られなかった。


 だが、三崎は決して断定しなかった。

「外見上は効果を再現した。だが、それ以上は血液検査の詳細な結果待ちだ」


 啓介は自分の腕を見た。

 《日々の修繕》によって消えた採血痕のすぐ隣に、使用直後、三十分後、数時間後と、経過確認のために新たに開けられた新しい針の跡が並んでいる。


「……検証のたびに、新しい傷が増えていくな」

「次回、また消してもらえばいいだろ」

「医者がそれを言っていいのか?」

「採血の痕が勝手に消える現象に限って言えば、これほど便利なものはないと思ってる」


 火曜日の夜。

 三崎から暗号化されたメッセージが届いた。血液検査の要約だった。


『運動負荷後に出た血中マーカーの軽い変化が、通常よりも異常に速い速度で使用前の数値に近づいている。

 筋損傷の悪化を示す所見なし。肝臓、腎臓への急性負担なし。炎症反応の異常な上昇なし。血糖値が不自然に増減した形跡なし。脱水は魔法で補われていない。異常な免疫反応なし。

 現段階において、明白な副作用の所見は認められない』


 読み終えた直後、三崎から電話がかかってきた。

「少なくとも、痛みだけを消して無理やり動かしているわけじゃなさそうだ」

「じゃあ、細胞レベルで治ってるってことか?」

「『治っている可能性が極めて高い』、だ。一回のデータで断定させるな」

「医者って、本当に言い切らない生き物だな」

「魔法使いが軽々しく現象を言い切りすぎなんだよ」


 三崎の《日々の修繕》に対する暫定評価は、カードのテキストと完全に一致していた。

 自然治癒可能な日常的損耗を修復するが、水分や栄養の必要性は代替しない。身体能力を強化しない。慢性疾患や加齢性変化には作用しない。


 それから一週間。

 《健全なる肉体》の実験をすぐには行わず、待機期間とした。

 啓介は毎日、体温、睡眠時間、食欲、体重、皮膚の変化などを簡単な経過記録としてつけ続けた。


『小さなしこりや、急な体重変化、原因不明の発熱があればすぐ連絡しろ』

 という三崎の指示を守り、慎重に身体を観察したが、一週間が経過しても異常は全く現れなかった。

 《日々の修繕》も数回使用したが、過剰回復や依存症状、効果の低下は見られなかった。


 この経過観察の期間中、高梨から正式な連絡が入った。

 追加調査で新たな問題は見つからず、売主も契約書案を確認済みとのこと。

 翌週の日曜日、不動産会社の事務所で、重要事項説明、売買契約書への署名、手付金の支払いを行うことが確定した。


 啓介は、次の土曜日に《健全なる肉体》の検証を行い、その翌日の日曜日に山林の契約に臨むというスケジュールを組んだ。


「健康体になった翌日に山を買うのか」

 金曜日の夜、ソファで丸まっている小竜にそう呟いた後、啓介は表情を改めて《創世札典》を開いた。

「あぎゃー?」

「その前に、明日の実験が無事に終わるかだ」


 当日に《危険判定》を使えば、《健全なる肉体》へ生命3を揃えられない。そこで啓介は、金曜日分の《五彩の魔石》から知識マナ1点を引き出した。

「明日、三崎の監督下で《健全なる肉体》を自分に使用し、必要な検査を受けて無事に帰宅する。《危険判定》、使用」


『否定』

 少なくとも二十四時間以内に、実験が重大な損害へつながる可能性は低い。ただし、それは安全を保証する回答ではない。

 午前零時の日次更新を迎えれば、土曜日分の3マナは改めて使用可能になる。だが、《健全なる肉体》を撃った瞬間から、その日は完全に丸腰だ。

 その事実を承知したうえで、翌朝、啓介は再び健診センターの三崎の診察室へ向かった。


 啓介は、バインダーの上に正式な設計として定着させたカードを表示した。


 《健全なる肉体/Sound Body》

 術式・生命

 必要マナ:生命3


 使用者自身を対象とする。

 現在の年齢において、医学的に健康と評価される身体状態へ修復する。


【自己限定】

 このカードは使用者本人にしか使用できない。


【年齢不変】

 加齢そのもの、身体年齢、生来の特徴を変更しない。


【欠損外】

 完全に失われた器官、四肢、歯その他の欠損を再生しない。


【非強化】

 健康な基準を超えた身体能力、耐久力、感覚機能を付与しない。


 病ではない身体へ戻す。

 若い身体へ戻すわけではない。


 啓介は、自分自身で【自己限定】【年齢不変】【欠損外】【非強化】を加え、健康体と「超人化」をシステムレベルで明確に分けていた。


 三崎が、カードの必要マナを見ながら眉を寄せた。

「制約をこれだけ足したのに、最初にシステムが出した試作と合計三点のままなのか?」

「俺も気になって、システムには確認した」


『対象および効果範囲の限定により、総処理負荷は軽減されています。一方、知識属性が担っていた状態判定処理を生命属性へ統合したため、生命属性の必要量が増加しています』

 最初の試作は生命2・知識1。今回の正式版は生命3。制約による軽減と、二色の処理を生命一色へまとめたことによる割増が、ちょうど相殺されたらしい。

「同じ三点でも、多色で役割を分担した方が効率がいい場合がある。単色化は支払いを揃えやすい代わりに、少し重くなるわけだ」

 そのうえで、安全性が分からない段階では自分にしか使えない版に限定し、問題がないと確認できてから他者治療用を別に設計する。誤操作、衝動的な使用、善意による暴走を避けるためだった。


「人体に使えるカードを持ってると、目の前に苦しんでる人がいた時、検証不足でも使いたくなるかもしれないからな」

 三崎が深く頷いた。

「その判断は正しい。お前が最初から他人へ使える状態にしてたら、今ここで叩き割って破棄させてた」


 使用の前に、前回の人間ドックの結果と当日の検査を照合し、今回の「答え合わせ」の対象を明確にした。


【病的・治療対象候補】

 軽度の脂肪肝、LDLコレステロールの高値、胃粘膜の慢性的な炎症、慢性的な肩こりと腰痛、軽度歯肉炎、睡眠不足による不調、健康を害する内臓脂肪の過剰部分。


【病気ではない、または対象外と予想されるもの】

 年齢相応の腰椎の変化、近視、過去の歯科治療痕、完全に削られた歯質、古い小さな傷痕、生来の体質、年齢、髪の生え際、筋力不足、運動不足。


 三崎が、最後の項目を見て顔をしかめた。

「……髪の生え際まで確認項目に入れたのは誰だ」

「若返りじゃないことを確認するためだ」

「気にしてるだけだろ」

「確認項目は多い方がいい」


 準備は整った。

 本日の三つのマナ源。

 《借宿》から生命1。《五彩の魔石》から生命1。《生命樹の苗床》から生命1。

 三つの緑色の光球が空中に並ぶ。


 三崎がスマートフォン越しに確認する。三つの光も画面に映っている。

「異常を感じたら、途中で止められるのか?」

 啓介がシステムへ質問する。

「使用宣言後、効果の途中停止は可能か?」

『不可』

『使用成立後、カード効果は完了まで実行されます』


 三崎が顔をしかめた。

「本当に一発勝負だな。使用後に異常が起きたら、別の魔法で対処できるのか?」

「無理だ。今日の3マナは全部これに使う。撃った瞬間から午前零時までは、完全に丸腰になる」

 三崎は救急カート、酸素、バイタル監視機器の位置をもう一度確認した。

「魔法の保険が使えないなら、現代医療で拾う。使用しろ。こっちは記録する」


 啓介は《健全なる肉体》のカードに手を置いた。


「《健全なる肉体》、使用!」


 三つの生命マナが一つに重なり、強い緑色の光となって啓介の胸へ吸い込まれた。


 《日々の修繕》とは全く感覚が違った。

 表面の疲れがフッと取れるようなものではない。

 身体の内側を、頭のてっぺんから足の先まで、何らかのシステムが隅々まで確認しているような感覚。

 不快ではない。だが、自分の中の細胞を検査され、問題のある部分に順番に手を入れられているような、圧倒的な干渉感。


 胃の奥が、一瞬だけカッと温かくなる。

 右脇腹の内側に、今まで意識したことのない軽い熱。

 腰。歯茎。血管。それぞれがわずかに脈打ち、そして静まっていく。


 激痛も、劇的な快感もない。数十秒後、光が完全に消えた。


 啓介はゆっくりと息を吐いた。

 三崎が緊張した声で尋ねる。

「何が変わった?」


 啓介は身体を確認した。

「……『軽い』とは、ちょっと違うな」

 肩を回す。腰を曲げる。腹部へ手を当てる。

「今まで悪いとも思ってなかった場所のノイズまで、全部静かになった感じがする」

「主観的な感想は曖昧すぎる。すぐに検査するぞ」


 即時検査が始まった。

 血圧、心拍。大きな変化はなし。元から正常だった機能は、必要以上に下がったり上がったりしていない。

「健康な項目を、さらに強化する効果はなさそうだ」


 握力、筋力。わずかな差はあるが、測定誤差の範囲。筋肉量が増えたわけではない。

「健康体になっても、筋トレしたことにはならないらしいな」

「そこまで便利じゃないか」


 視力。近視はそのまま。眼鏡の度数も変わらない。近視を病気ではなく、現在の身体構造または生来に近い特徴として扱った可能性が高い。


 歯。詰め物、削った歯、過去の治療痕はすべて残っている。ただし、軽かった歯肉の炎症と出血傾向は完全に改善していた。

【欠損外】と「健康状態への修復」が両立している。


 そして、最大の確認項目。

 三崎が腹部超音波エコーを行った。


 前回の画像と比較する。

 モニターに映し出される肝臓の画像を見て、三崎が無言になった。

 機器の設定を確認し、プローブを当て直し、角度を変える。それでも結果は同じだった。


「……どうだ?」

「黙ってろ。今、俺も現実と相談してる」


 肝臓の形状自体は変わっていない。だが、脂肪沈着を示す所見が、明らかに正常範囲に近づいていた。短時間では絶対にあり得ない変化。

 三崎が前回画像と現在画像を並べた。

「少なくとも見た目では、脂肪肝が消えてる」

「カード名どおりだな」

「その台詞を言うな。腹が立つ」


 腰椎と慢性痛。

 腰の鈍い痛みは完全に消え、可動域も改善した。だが画像上では、年齢相応の軽い腰椎変化(骨の形)はそのまま残っていた。

 三崎は整理した。

「骨を二十歳の状態へ戻したわけじゃない。今の年齢で問題なく動ける状態へ調整した、と考えるべきか」


 体重と体脂肪。

 体重を再測定すると、使用前よりわずかに減少していた。体脂肪率も少し下がっているが、腹筋が割れるほどではない。健康を害していた内臓脂肪の一部だけが処理された可能性が高い。

「消えた脂肪がどこへ行った? 物質が消滅したのか、エネルギーへ変換されたのか、別の部位へ移動したのか。それすら分からない」

 啓介は腹部を触りながら、すぐにシステムへ質問した。「健康化の過程で除去された余剰脂肪は、どこへ行った?」

『対象の健康化に伴い不要となった余剰物質は、カード効果によって分解および消去されました』『対象の体内に有害な代謝産物として残留していません』。「“消去”って何だ。質量保存則はどこへ行った」と三崎は顔を引きつらせながら、一週間後も体重と体組成を追うと記録した。


 そして、使用直後の血液検査。

 再び採血が行われた。

 止血バンドを外した啓介は、自分の腕の新しい針痕を見て言った。

「今使った後の傷は、勝手には消えないんだな」

「当たり前だ。過去へ戻ったわけじゃない」


 《健全なる肉体》は、あくまで「使用した時点」の身体を健康化したに過ぎない。その後に生じた損傷は普通に残る。

 使用後に怪我をすれば怪我はする。恒久的な再生能力を得るわけではない。不摂生を続ければ、再び脂肪肝になる。

「健康になっただけだ。無敵になったわけじゃない」

「分かってる」

「お前は一度言っただけじゃ分からないからな」


 当日中に確認できる血液検査の速報値が出た。

 肝機能関連の値が劇的に改善。炎症反応が正常範囲。血糖は正常。明らかな肝障害、腎障害なし。電解質の異常なし。急激な細胞破壊を示す所見なし。


 三崎はようやく椅子へ深く座り込んだ。

「……今のお前は、検査で見る限り健康だ」


 啓介は少し笑った。

「三マナで、健康体か」

「食事と運動を続ければ、本来は無料で近づける状態だけどな」

「数年かかるだろ」

「だからって魔法だけに頼るな。生活習慣を戻せば、また同じ病気になる可能性はある」


 三崎は、ホワイトボードに結果を整理した。


【改善した可能性が高い】

 軽度脂肪肝、肝機能、脂質異常、慢性胃炎、軽度歯肉炎、慢性的な筋肉痛、軽い炎症、健康を害する内臓脂肪。


【変わらなかった】

 年齢、近視、年齢相応の腰椎変化、歯の欠損・詰め物、古い傷痕、筋肉量、運動能力、生来の特徴、髪の生え際。


 三崎の結論。

「このカードは“理想の身体”を作るんじゃない。“病気ではない今のお前”を作る」

 啓介がカードを見る。

「健康と若返りは、完全に別の効果ってことだな」


 《一年若く》に必要なのは5マナ。現在の基盤ではまだ届かず、青梅の土地がカードになって4マナへ増えても、さらにもう一つ恒久的なマナ源が必要になる。健康と若返りが別系統であることが、ここで明確になった。


 三崎は決して成功宣言を認めなかった。

「今日、健康になった。それだけだ」

 今後、二十四時間後、一週間後、一ヶ月後、三ヶ月後に検査を行う。症状の再発や原因不明の腫瘤、異常な免疫反応がないか、効果の後戻りがないかを長期的に観察する。啓介もそれに完全に同意した。


 すべての検査を終えた後。

 三崎は白衣のポケットに両手を入れたまま、少し考え込むように黙っていた。

 やがて、彼は自分の右膝を、ポンと軽く叩いた。


「門倉。他人にも使える治療カードは作れるんだな?」

「作れると思う。ただし、自己限定のロックを外した分だけコストは上がるはずだ」


「なら、最初の対象は俺にしろ」


 啓介は驚いて眉を上げた。

 三崎の右膝には、学生時代にフットサルで負った古傷がある。手術するほどではなかったが、長時間立った後や冷える日に鈍い痛みが出るというのを、昔聞いたことがあった。

 過去の画像、診療記録、現在の検査結果。三崎ならすべて揃えられる。


「……まずは自分の経過観察が先だぞ」

「分かってる。今すぐやれとは言ってない」

 三崎は極めて真剣な顔で続けた。

「お前の能力を知っている。危険性も理解している。自分で同意できる。使用前後の検査も自分で組める」

「だから自分が最初の被験者になるって言うのか?」

「どこぞの患者に先に試させるよりは、よっぽどマシだ」


 啓介は呆れ果てた。

「医者が率先して人体実験へ参加するなよ」

「医者だからだ。他人にやらせる前に、自分で受ける」


 啓介はため息をつきながら、《創世札典》を呼び出し、他者用治療カードの仮設計をシステムに入力した。


【仮カード】

 《古傷の修復/Mend the Old Injury》

 術式・生命・知識

 必要マナ:生命2・知識1


 接触している一人を対象とする。

 医学的に位置と状態が特定された、過去の一件の負傷によって残った慢性的な損傷を修復する。


【単一損傷】

 対象とできるのは、指定した一件の負傷に由来する損傷のみ。


【診断指定】

 対象部位および損傷内容を、使用前に明確に指定する必要がある。


【非若返り】

 対象部位を、現在年齢における健康な状態へ修復する。若年時の状態には戻さない。


 時間は傷を閉じる。

 だが、正しく閉じるとは限らない。


 システムから、仮承認のサインが出た。まだカードは確定しない。


 啓介は、仮カードの必要マナと、自分が一日に生み出せるマナを見比べた。

「……生命2・知識1。今の俺でも、ちょうど払えるな」

「だからこそ、一か月待つんだ。お前の経過観察、俺の膝の現在画像と過去記録、危険判定、同意書、検証手順。その全部を揃えてからだ」


 カードを確定させれば、明日にでも三崎の痛みを治せる。必要なマナも、すでに手の中にある。

 それでも、遅発性の異常がないと確認するまでは使わない。使える奇跡を使わずに待つことが、二人が初めて共同で下した判断だった。

 啓介は三崎の右膝を見ながら、深く息を吐いた。「……次は、医者の古傷か」

 三崎が冷たく訂正する。

「まだ患者じゃない。被験者だ」

「その言い方の方が、よっぽど危なく聞こえるぞ」

 三崎は笑わなかった。

「未知の治療なんだから、危ないに決まってるだろうが」


 《創世札典》のページの中で、《古傷の修復》の仮カードが淡く明滅している。


 自分を治した。次は、他人を治す。

 魔法という奇跡が、啓介一人の生活を便利にする段階から、他人の人生や肉体に直接触れる段階へと、確実な一歩を踏み出そうとしていた。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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