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第6話 三十八万円の山を見に行くらしい

 月曜日、会社の昼休み。

 自席で仕出し弁当をつついていた啓介は、スマートフォンの画面に目を落とした。

 土曜日の夜、小竜を召喚した興奮も冷めやらぬままに問い合わせフォームから送った不動産会社からの返信メールが届いていた。


『お問い合わせの青梅市の山林物件について、まだ購入希望者はおりません。現地見学は可能です』


 担当者名には「高梨真紀」とある。

 文面は事務的だが、こちらが知りたかった情報が過不足なく網羅されていた。


 ・境界杭は一応四隅近辺で確認できるが、確定測量済みではない。

 ・公道へは接しており、小型車なら敷地近くまで進入可能。

 ・電気の引き込みは電柱が近くにあるため可能性あり。

 ・水道の引き込みは本管から距離があるため要見積もり(高額になる可能性あり)。

 ・物置の設置については、規模や基礎の有無によって行政への確認が必要。


 そして、メールの最後にはこう添えられていた。


『当該物件は手入れのされていない山林ですので、当日は長袖、長ズボン、滑りにくい靴でお越しください。また、虫よけスプレーと軍手もご持参いただくことを強く推奨いたします。山を買うことの現実をご確認いただきます』


「……なかなか手厳しいな」


 夢見がちなキャンパーや、ネットの情報だけで安易に山林を買おうとする素人を牽制するような、現実的で地に足のついた案内。

 悪徳業者のような「すぐ売れちゃいますよ!」というような煽り文句がない分、かえって啓介には好印象だった。


 啓介は、今度の土曜日の午前十時半で見学を予約する旨を返信した。

 待ち合わせ場所は駅前ではなく、物件近くの県道沿いにあるコンビニの駐車場。そこから担当者の車について山道へ入る流れだという。


 送信ボタンを押し、カレンダーアプリに予定を登録する。


『土曜日 10:30 青梅市・山林見学』


 その文字を見つめながら、啓介は少しだけ呆れたように息を吐いた。


「本当に、三十六歳独身が一人で山を買う予定が入っちまったな……」


 週末の見学に向けた一週間は、これまでの平坦な日常とは明確に違う色を帯びていた。

 最大の要因は、啓介が毎日『2マナ』を自由に使えるようになったことだ。


 月曜日。

 仕事から疲れ果てて帰宅した啓介は、まず《五彩の魔石》からマナを引き出し、《日々の修繕》を使用した。

 瞬時に肩こり、目の奥の熱、腰の鈍痛が霧散し、全回復の爽快感が全身を包む。

 そして——啓介のバインダーには、まだ《借宿》から引き出せるもう1マナが残されていた。


「疲労を完全に治した後に、もう一回奇跡が使えるのか……」


 啓介は、カレーの染みと格闘した先週の木曜日を思い出し、《衣服の身だしなみ》のカードを呼び出した。

 残りの1マナを使用すると、今日一日着ていたワイシャツの首元の汗ジミや、肘のシワ、嫌な臭いが一瞬にして完全に消滅し、クリーニングから下ろしたてのような状態に戻った。


 1マナ時代との圧倒的な違いを、啓介は全身で実感していた。

 以前は「自分の身体を治すか」「生活の不便を解消するか」の、どちらか一つしか選べない究極の二択だった。

 だが今は、その両方を選べる。


 ただし、啓介は「マナが余っているからといって、無駄に使い切る必要はない」と自制した。

 火曜日以降は、疲労が軽い日は修繕を見送ったり、特に必要がない日はあえてマナを温存して消滅させたりした。

 マナは日次更新でリセットされてしまうため、使わなければ損をするという感覚に陥りやすい。だが、その強迫観念に支配されると、無意味な魔法を乱発する悪癖がつく。

 カードゲーム時代にも、「使えるマナを全部使い切ること」と「盤面にとって最も正しい手を選ぶこと」は全く別物だと、嫌というほど学んでいた。


 そしてもう一つ、この一週間の大きな変化。

 啓介は、小竜との奇妙な共同生活にすっかり慣れ始めていた。


 小竜は食事も水分も、排泄すら不要な魔法の存在だ。そのため、平日の昼間に啓介が会社に行って留守番をさせても、生存上の問題は一切発生しない。

 だが、宅配業者の不在票投函や、建物の管理会社の巡回、火災報知器の点検などで、他人が不意に部屋へ立ち入る、あるいは窓から中を覗き込む可能性はゼロではない。


 啓介は急遽、ネット通販で安価なペット用見守りカメラを購入し、リビングに設置した。

 そして、小竜に対して厳密な「留守番のルール」を仕込んだ。


「いいか。昼間は絶対に窓のカーテンに近づくな。影が映るからな」

「玄関のドアが開く音がしたら、すぐさま寝室のベッドの下に隠れろ」

「万が一、知らない人間が部屋の中に入ってきても、絶対に飛びかかったり、火を吹こうとしたりするな(そもそも吹けないが)」

「俺が『ただいま』って声をかけるまで、何があっても出てくるな」


 小竜は、コテンと首を傾げた後、胸を張って答えた。

「あぎゃ!」


 本当に理解しているのか不安になった啓介は、休日に模擬訓練を実施した。

 実際に啓介が玄関から外へ出て、鍵を開け直してガチャリと音を立てる。

 ドアを開けると、リビングにいたはずの小竜の姿はない。


「よしよし、ちゃんと隠れたな」

 と寝室を覗き込むと、ベッドの下には入らず、枕の陰に頭だけを突っ込み、赤銅色の丸い胴体と細い尻尾、小さな翼が丸見えの状態でブルブルと震えていた。


「……お前、それで隠れてるつもりか? 駝鳥だちょうかお前は」

「あぎゃー?」

 枕の下から不満そうな声が漏れる。


 その後、数回のスパルタ練習を経て、小竜はようやく「玄関の音がしたらベッドの奥深くへ潜り込む」という挙動をマスターした。


 平日の昼休み。啓介は職場のデスクの下でこっそりとスマートフォンを開き、見守りカメラのアプリを立ち上げる。

 画面の中では、小竜がソファの背もたれで丸くなって休んでいたり、啓介が置きっぱなしにしたボトルキャップを前脚で転がして一人遊びをしていたりする。

 時折、カメラのレンズの存在に気づき、至近距離まで顔を近づけてくるため、金色の縦長の瞳孔だけが画面いっぱいに映し出されるホラー画像になることもあった。


「ふっ……」

 職場で思わず笑いを吹き出しそうになり、啓介は慌てて口元を覆い、スマートフォンを伏せた。


『召喚したドラゴンが家で留守番をしている』という非日常が、三十六歳の男の日常に完全に溶け込んでいた。


 金曜日の夜。

 啓介は、不動産会社から事前にPDFで送られてきた物件資料をコンビニのプリンターで印刷し、ローテーブルの上に広げた。


 物件概要。登記事項の要約。公図。現地案内図。境界の参考図。周辺のハザードマップ。

 並べられた書類を、啓介は赤ペンを片手に読み込んでいく。


 価格三十八万円。

 登記簿上の面積は、約四十坪。

 地目は「山林」。

 所有者は一名で、抵当権などの複雑な権利関係はついていない。

 親から相続したものの、自分では全く使う予定がなく、毎年の固定資産税や管理の手間を減らすために手放したい、というよくあるケースらしい。

 公道に接しており、現況のまま(立木や草が生え放題のまま)での引渡し。


 啓介は、公図と航空写真を見比べた。

 四十坪といえば、およそ百三十平方メートル。

 一般的な戸建て住宅が一軒建つ程度の広さであり、「山を所有する」という壮大な響きから想像するような、見渡す限りの広大な森ではない。


「山を買うって言っても、実際のところは『木が鬱蒼と生い茂ったちょっと広い庭』を買うようなスケール感だな」


 だが、最初の土地カード化の実験用としては、むしろそのスケール感が扱いやすかった。

 本格的な開拓拠点を夢見て、いきなり数百坪、数千坪の山林を購入し、もし《創世札典》の土地カード化の条件が想定と違っていたら目も当てられない。


 まずはこの小さな土地で、「所有地としてのシステム認識」「土地カードの生成」「マナの生成量の確認」「開拓や設備設置による能力の変化」を一通りテストする。

 ノウハウを蓄積した上で、手狭になればより条件の良い本格的な土地へステップアップすればいい。


 啓介は、明日のためのリュックサックに荷物を詰め始めた。

 高梨の忠告に従い、底の厚いトレッキングシューズ、長袖のワークシャツと丈夫なカーゴパンツ。軍手、虫よけスプレー、汗拭き用のタオル、飲料水、モバイルバッテリー。

 現地での確認用に、メジャーと方位磁針アプリを入れたスマートフォン、印刷した物件資料、そしてクリップボード付きの筆記用具。


 準備をしていると、小竜がトテトテと歩いてきて、床に落ちていた軍手の片方をカプッと咥え、ソファの後ろへ持ち去ろうとした。


「こら。それは遊び道具じゃない。明日使うんだから返せ」

「あぎゃ……」

 啓介に叱られ、小竜は少し不満そうに軍手をペッと吐き出した。


 啓介はしゃがみ込み、小竜の小さな角の間を指で撫でた。

「明日は、俺の新しい土地になるかもしれない場所を見に行くんだ。でも、お前はお留守番だ」


 小竜が不思議そうに首を傾げる。

「あぎゃー?」


「まだ俺の土地になってない場所で、不動産屋の目の前でドラゴンを飛ばすわけにはいかないからな。見つかったら面倒なことになる」


 小竜は意味がわかったのかわからないのか、喉をクルルと鳴らした。

「……無事に山が買えたら、一番にお前を連れて行って、思いっきり飛ばしてやるよ」

 そう約束すると、小竜は嬉しそうに小さな翼をバタつかせた。


 土曜日の朝。

 啓介は駅前のカーシェアリングで予約していたコンパクトカーに乗り込む前、周囲に人がいないことを確認して《創世札典》を呼び出した。


 今日の目的は、不動産会社の案内に従い、青梅市の山林を現地見学して無事に帰ってくること。

 だが、相手は見ず知らずの不動産会社。案内されるのは人通りの少ない山道だ。

 虫や蛇などの危険生物に遭遇する可能性もあるし、急斜面で滑落して骨折するリスクもある。あるいは、土地そのものに致命的なトラブルが隠されているかもしれない。


 啓介は、《五彩の魔石》から知識マナを1点引き出し、カードに手を置いた。


 行動の定義を研ぎ澄ます。

「今日、不動産会社の担当者の案内に従い、問い合わせた青梅市の山林を現地見学して、安全に自宅へ戻る」


「《危険判定》、使用!」


 知識マナが弾け、システムが二十四時間以内の未来を走査する。

 脳裏に響いた回答は、極めてシンプルな一言だった。


『否定』


 つまり、この行動が二十四時間以内に啓介の生命や財産に「重大な損害」を招く可能性は極めて低い、ということだ。


 ただし、システムが否定したのはあくまで「重大な損害」のみ。

 現地で蚊に刺されることや、斜面で尻餅をついて服が汚れること、物件を気に入らずに時間を無駄にすること、あるいは数年後に後悔するようなことまで保証してくれたわけではない。


「今日の見学で死んだり大怪我したり、全財産を騙し取られたりするようなことはない。それ以上の保証はなし、と」


 啓介はそのドライな結果を正しく解釈し、満足してバインダーを閉じた。

 《借宿》の1マナはあえて残しておく。現地で万が一、予測不能な事態が起きた時のための予備カウンターだ。


 都内の自宅を出発し、高速道路を使って約一時間。

 窓の外の景色から徐々に住宅街が減り、緑の稜線と澄んだ川の気配が近くなってくる。

 片側二車線だった道路は一車線になり、やがてセンターラインのない細い道へと変わっていった。


 指定された県道沿いのコンビニエンスストアの駐車場に車を停めると、すでに一台の白い軽自動車が停まっていた。

 車の横に立っていたのは、不動産会社の担当者・高梨真紀だった。啓介より少し年上の、四十代前半ほどに見える。

 高梨は、不動産の営業マンらしいスーツ姿ではなく、動きやすいカーキ色のトレッキングパンツに長袖のシャツ、足元はしっかりとした登山靴という、完全に「山歩き」の装備だった。


「初めまして。高梨です」

「門倉です。今日はよろしくお願いします」


 名刺を交換し、簡単な挨拶を交わす。

 高梨は愛想がないわけではないが、営業特有の過剰な作り笑いもない、実務的な雰囲気の女性だった。


 高梨は啓介の乗ってきたカーシェアの車を一瞥し、真剣な顔で言った。

「門倉さん、ここから先、物件へ向かう道はかなり細くなります。私の車が先導しますので、ついてきてください。もし対向車が来たら、どちらかが広い待避所まで数十メートルバックすることになります。運転は大丈夫ですか?」


「……はい、慎重に行きます」

 啓介は少し緊張しながら頷いた。


 高梨の軽自動車を追いかけ、集落を抜けてさらに山間部の細い道へと入っていく。

 鬱蒼と茂る木々が陽光を遮り、昼間でも薄暗い。ガードレールすらない箇所もあり、啓介は手に汗を握りながらハンドルを操作した。


 十分ほど走ると、舗装された細い公道の脇に、車を一台だけギリギリ寄せられる不自然なスペースがあった。高梨の車がそこに停まり、啓介もその後ろに車をねじ込む。


 車から降りると、むせ返るような緑の匂いと、土の匂いが鼻を突いた。

 物件はここから数十メートルほど歩いた先だという。

 車を敷地内へ完全に乗り入れることはできないが、荷物を手運びするには問題ない距離だ。


 山林の入り口に向かって歩き出しながら、高梨が最初に口を開いた。


「門倉さん。現地を見る前に申し上げておきますが、三十八万円で、電気も水道も通っていて、すぐに小屋が建てられるような平坦な土地が手に入るわけではありません。山林は、買う時の値段よりも、買った後に維持し、整備するお金の方がずっとかかります」


 啓介は、その現実的すぎる釘刺しに思わず苦笑した。

「……ええ、分かってます。そこまで都合のいい土地なら、私がネットで見つける前にとっくに誰かが買ってますよね」


 高梨は少しだけ目を丸くし、それから微かに口角を上げた。

「話が早くて助かります。夢だけ持って山に来る方、結構多いので」


 高梨の案内で、獣道のような細い踏み跡を木々をかき分けながら進む。

 やがて、「ここからが物件です」と示された場所は、木々に囲まれた細長い傾斜地だった。


 完全な急斜面ではない。道路側の入り口から奥の山に向かって、緩やかに上っている。

 敷地の入り口付近、道路寄りには、三十平方メートルほどの比較的平らな場所があった。

 テントを張ったり、ホームセンターで売っているような小型の物置を置いたり、折り畳みの机を出してコーヒーを飲んだりする程度なら、少し整地すれば全く問題なさそうだ。


 しかし、基礎を打ってプレハブ小屋やログハウスを建てるとなると話は別だ。

 奥側は傾斜が強く、木も密集している。樹齢何百年というような巨大な神木があるわけではないが、長年放置されて伸び放題になった細い雑木が、陽の光を奪い合うように生い茂っていた。


 啓介は、周囲を見回しながら率直な感想を漏らした。

「……写真で見るよりは広く感じますが、実際に歩いてみると、やっぱり『山』というよりは『土地』ですね」


 四十坪。数字でわかっていたことだが、木が生えているとさらに狭く感じる。

 高梨が頷く。

「はい。ですが、境界は比較的わかりやすいですよ。こちらへ」


 高梨の案内に従い、土地の四隅を確認する。

 三箇所には、赤い頭のついた古いプラスチックの境界杭がしっかりと打ち込まれていた。残る一箇所は土と落ち葉に半分埋もれていたが、持参した図面と照らし合わせると位置はおおむね一致している。


「ただ、これはあくまで目安です」と高梨が念を押す。

「正式な測量士による確定測量を行ったわけではありませんし、売主様が境界を保証する『公簿売買』となります。もし門倉さんが改めて正確な測量を行いたい場合、隣接する土地の所有者全員に立ち会ってもらう必要があり、測量費だけで土地代の三十八万円を軽く超える可能性があります」


 啓介は頷いた。

 三十八万円の土地に、百万円単位の測量費をかけるのは現実的ではない。

 ただし、隣地所有者との間で現在進行形の大きな境界トラブルがないことだけは、不動産会社側でしっかりと確認を進めてもらうことで合意した。


 接道義務(公道に面しているか)はクリアしている。

 電柱は、車を停めた公道沿いの数十メートル先に立っていた。東京電力に工事を依頼して自腹でポールを立てれば、電気は引き込める可能性がある。

 しかし、水道に関しては絶望的だった。

「水道の本管は、かなり下の集落までしか来ていません。ここまで管を延長するとなると、数百万円単位の工事費がかかります」


「土地が三十八万円で、水道工事がその十倍ですか」

「はい。格安の山林物件ではよくあることです」


 当面は、自宅からポリタンクで飲料水を持ち込むか、雨水タンクを設置して生活用水を賄うしかない。必要なら、後から数十万かけて井戸掘りを検討する形になる。


 接道についても、公道に面していること自体は確認できた。

 敷地そのものが「土砂災害特別警戒区域レッドゾーン」に完全に入っているわけではない。しかし、周囲は山間部だ。大雨や台風の後には、倒木や斜面の崩落のリスクが常につきまとう。


 啓介は、提示された欠点を一つ一つ頭の中で整理した。

 安い理由はある。だが、悪意を持って隠された致命的な問題があるというよりは、「狭い」「インフラがない」「木が生えっぱなし」という、価格相応のスペックの土地だった。


 そしてそれは、啓介の『最初の実験場』としての用途には、完璧に合致していた。


 高梨が、物件資料の細かい確認をするため、電波の入る道路側へ少し戻ると言った。

 啓介はチャンスだと思い、声をかけた。

「すみません、少しだけ、一人で中を見て回ってもいいですか?」


「ええ、構いませんよ。ただ、奥の斜面は滑りやすいので気をつけてくださいね」


 高梨が視界から消えたことを確認し、啓介は敷地の中央付近——平坦な場所と斜面の境目あたり——に立った。

 四隅の境界杭。道路との接点。平坦地の広さ。木の状態。日当たり。周囲に人家の気配がないこと。


 啓介自身の足と目で、この土地の物理的な全体像は十分に確かめた。

 次は、魔法的な評価だ。


「バインダー」


 小声で呼び出し、膝の上に《創世札典》を展開する。

 啓介はしゃがみ込み、落ち葉を払って剥き出しになった黒い土の地面に、直接右手を触れた。


「システム。この土地を俺が購入し、完全に俺の所有地としてカード化した場合の、現時点での仮評価を表示してくれ」


 システムが即座に反応し、視界に文字が流れる。


『対象土地における正当な立入り許可、および申請者本人による現地観測を確認しました』

『対象土地の所有権は未取得です。土地カードの生成は実行できません』

『所有権取得後の予測評価を仮表示します』

『実際のカード情報は、所有権の移転状況、境界の確定度合い、および管理状態により変化する場合があります』


 バインダーの空白の枠に、半透明のホログラムのようなカードがふわりと浮かび上がった。


【仮評価カード】

 《名もなき雑木地/Nameless Coppice》

 土地・山林・未整備・小区画


【日次起動】

 生命または物資マナを1点得る。


【未整備】

 この土地は、追加の設備および土地能力を持たない。

 管理、開拓、設備の設置により、能力が変化する可能性がある。


【小区画】

 大型設備および大型生物の長期配置には適さない。


【所有地】

 所有権または正当な管理権限を失った場合、このカードは消滅する。


 世界を変える土地も、

 最初から広大だったわけではない。


 啓介は、浮かび上がったテキストを食い入るように見つめた。

 土地価格、三十八万円。

 購入手続きが完了すれば、この土地から「生命」か「物資」のマナを、毎日選んで1点生み出せる。

 先週完成した《五彩の魔石》と《借宿》を合わせれば、一日3マナという安定した基盤が手に入る。


 さらに、「管理、開拓、設備の設置により、能力が変化する可能性がある」と明示されている。


「……十分だな」


 そう呟いた直後、啓介は仮評価という機能の価値に気づいた。

 正当な立入り許可を得て現地を観測すれば、所有する前でも土地カードの性能を比較できる。


「これなら、八王子と檜原村の候補も見てから決められるのか」

 普段の啓介なら、無料で性能表を確認できると分かった直後に、一件目だけで即決するような真似はしない。

 だが、今回の目的を分解すると、最良の山林を一度で引き当てることが最優先ではなかった。


 今必要なのは、所有地の認識、土地カードの生成、開拓による再評価という仕組みを、できるだけ早く検証するための最初の一枚だ。


 八王子と檜原村は別の不動産会社が扱っており、二件とも見学日程の調整から始めれば、さらに二、三週間は延びる。


 その間にも、一日1マナを得られない日が積み重なっていく。

 しかも三十八万円なら、将来もっと広く条件の良い土地を買った後も、小規模な実験場として残しておける。


 買付申込みは売買契約ではない。権利調査で問題が見つかれば、正式契約の前に止める余地もある。


「比較を省くんじゃない。最初の検証を先に始めるってことだな」

 本格的な魔法拠点としては狭く、大型のドラゴンを常駐させる場所にもならない。


 それでも、小竜を飛ばし、遺物を置き、小規模な魔法実験を行う最初の土地としては十分だった。


 三十八万円で土地カードの仕様を一通り検証できるなら、失敗した場合の損失も限定できる。

 啓介は、地面に手をついたままシステムに質問を重ねた。

「この土地に物置や柵を設置し、継続的に使えば、カードの能力は変わるのか?」


『肯定。土地の用途、設備、管理実績に応じて再評価されます。ただし、設備を置くだけで特定のマナが自動的に追加されるとは限りません』


 車を停めた道路側へ戻ると、高梨が書類ファイルを抱えて待っていた。


「どうでしたか。思っていたよりも狭くて、何もない場所だったでしょう」

 少し申し訳なさそうに、だが事実として高梨が尋ねる。


 啓介は、ズボンについた土を払いながら正直に答えた。

「はい。本格的な山林拠点を作るには、明らかに小さいですね」


 高梨が小さく息を吐き、「やはりそうですか」と書類を閉じようとした。

 だが、啓介は一拍置いてから、言葉を続けた。


「でも、私が最初にいろいろ試すための土地としては、むしろこれくらいのスケール感がちょうどいいです」


 高梨には、魔法の実験場だの土地カード化だのといった事情は口が裂けても言えない。

 表向きの目的は、事前に頭の中で練っていた通りに説明した。


「個人用の小さなキャンプ地兼、週末の作業場所を探していました。将来的にはDIYで小さな物置なんかを置いて、生え放題の雑木を少しずつ整理しながら、自分なりに手を入れていきたいんです」


 それは、嘘ではなかった。

 高梨は少し驚いた顔をした後、改めて注意喚起を行った。


「……分かりました。ですが、再度確認させてください。水道の工事費は未確定で高額になるリスクがあります。電気も正式に引き込めるかは電力会社への確認が必要です。建物を置く場合は、規模によって行政への確認が必須です。木を勝手に伐採する場合も、森林法などの指定によって事前の届出が必要になることがあります。境界は未確定で、現況のままの引渡しです。夏場の草刈りや木の管理も、すべて門倉さんご自身で行っていただくことになります。よろしいですか?」


 啓介は、その一つ一つに対して、力強く頷いた。

 購入価格の三十八万円だけではない。登記費用、仲介手数料、印紙代などの諸経費。さらに、最初の整地や設備投資にも金がかかる。

 それでも、現在の啓介の貯蓄なら全く問題なく支払える額だ。


 何より、あの《名もなき雑木地》の仮評価カードが見せた「毎日1マナ」という確かなリターン。

 現実的な資産としての意味でも、魔法的な基盤としての意味でも、啓介にとってこの土地は十分に三十八万円以上の価値がある。


 啓介は、高梨の目をまっすぐに見て言った。


「はい。最初の検証用地として、この土地の購入手続きを進めたいです」


 コンビニの駐車場に戻り、高梨の車の中で啓介は『買付申込書』の用紙にペンを走らせた。

 購入希望価格の欄には、あえて値切ることなく、提示価格どおりの「三十八万円」と記入する。

 こんな安い土地で数万円をケチって交渉を長引かせ、その間に他の購入希望者に横取りされては元も子もない。


 ただし、申込みには啓介なりの条件をしっかりと追記した。

 ・売主が登記上の所有者本人であることの確実な証明。

 ・抵当権や差押えなどの権利関係の瑕疵がないこと。

 ・公道への接道が法的に確認できること。

 ・隣地との間で、重大な境界紛争が現在進行形で起きていないこと。


 高梨が書類を受け取り、今後の流れを説明する。

「今日はあくまで、門倉さんの購入の意思を売主様へ伝えるための申込みです。まだ正式な売買契約ではありません」


 今後の予定としては、不動産会社側で登記や境界、接道などの細かい追加確認を行う。

 売主がこの申込み条件を承諾すれば、重要事項説明書と売買契約書の作成に入る。

 問題がなければ、翌週か翌々週には正式に売買契約を結ぶ。

 契約後、法務局での手続きなどを経て、一、二週間ほどで残金決済と所有権の移転が完了する。


 今日見学をしてから、正式に啓介の所有地となるまでには、おおむね三週間前後の時間が必要になる計算だ。


 啓介は少し拍子抜けして苦笑した。

「土地って、コンビニの買い物みたいに、代金を払えばその日のうちに自分のものになるわけじゃないんですね」


 高梨も笑って返した。

「むしろ、こういう安い土地ほど、権利関係や境界のトラブルが隠れていることが多いんです。時間をかけてでも、きちんと確認した方がいいですよ」


 それは、金曜日に啓介がたどり着いたものと、よく似た結論だった。

 安い土地であっても、システムの更新であっても、プロによる徹底的なレビューは不可欠なのだ。


 啓介は深く納得し、申込書の控えを受け取って高梨と別れた。


 夕方。

 都内の自宅マンションに帰り着き、玄関のドアを開けた。

 リビングは静まり返っており、小竜の姿はない。


 留守番訓練の教え通り、物音を聞いてどこかへ隠れているのだ。

 啓介は靴を脱ぎながら、優しく声をかけた。


「ただいま。俺だ、もう出てきていいぞ」


 数秒の沈黙の後、寝室のベッドの下から、赤銅色の小さな頭がひょっこりと覗いた。

「……あぎゃ?」

「おお、いい子にしてたな」


 啓介の顔を確認した瞬間、小竜は勢いよくベッドの下から這い出し、バサバサと不器用に羽ばたいて啓介の胸元へダイブしてきた。

「あぎゃ! あぎゃあ!」

 短い前脚で啓介のシャツを掴み、顔に頭を擦りつけてくる。


 留守番は無事に成功したようだ。

 だが、啓介がリビングの奥へ進むと、ソファの後ろの死角に、ペットボトルのキャップ、消しゴム、丸めたティッシュ、そして片方だけの軍手などが、円を描くように几帳面に集められているのを発見した。


「……お前、留守番中にここに自分の巣を作ってたのか?」

「あぎゃー?」

 小竜は全く悪びれる様子もなく、首を傾げた。


 啓介は怒る気にもなれず、スマートフォンを取り出して、今日撮影してきた青梅市の山林の写真を開き、小竜に見せた。

 木々に囲まれた、木漏れ日の差し込む小さな平坦地の写真。


「今日、ここを見てきた。まだ確定じゃないけど、たぶん買うことになる」


 小竜はスマートフォンの画面に顔を近づけ、金色の瞳を輝かせた。

 そして、画面の中の森に向かって、短い前脚を伸ばそうとする。

「こら、画面の中には入れないぞ」

「あぎゃ」


 啓介は画面を消し、小竜の額を撫でた。

「手続きが終わって、あそこが完全に俺の土地になったら、最初にお前を連れて行ってやるよ。そこでなら、好きなだけ飛べるからな」


 小竜は嬉しそうに、狭いリビングの中で力強く翼を広げた。


 その夜。

 夕食を済ませた啓介は、見学中の予備として残した《借宿》の1マナを、結局使わなかったことを確認した。


 午前零時には消えるが、それでいい。事故に備えて確保し、必要がなかったなら、その日の運用は成功だ。

 山林の正式な取得まで、早くても三週間。その間を、ただ待つつもりはなかった。

 啓介はデスクに向かい、カレンダーアプリとノートを開いて、三本の並行する進行表を書き出した。


【1:山林購入ルート】

 権利関係の調査待ち → 重要事項説明 → 売買契約 → 残金決済 → 土地カード化。


【2:マナ基盤構築ルート】

 生命属性の唯一遺物を作成する → 一日の使用可能マナを「3マナ」へ引き上げる。


【3:医療・検証ルート】

 能力の医学的な検証。《健全なる肉体》を使用する前に、自分の身体が《日々の修繕》によって本当に治っているのか、現代医学の検査で確認する。


「山が手に入るまで、三週間か」


 以前の啓介なら、途方もなく長く感じただろう。

 だが今は、やるべきことが山積している。その三週間を使って、新しいマナ源を作り、自分の身体の安全性を徹底的に検査すればいい。


 土地の手配。遺物の作成。能力の検証。

 別々のタスクを並行して進め、最終的に一つの大きな目標へと結実させる。

 それはまさに、啓介が得意とするシステム開発のプロジェクトマネジメントそのものだった。


 翌日、日曜日。

 啓介は小竜を肩に乗せたまま、リビングのソファでオンラインの園芸店サイトを閲覧していた。

 小竜を連れて実店舗へ行くわけにはいかないため、まずはネットで候補を絞ることにした。


 次に作る遺物の核に求める条件は明確だった。

 丈夫で長寿であること。鉢植えで管理でき、将来は購入した山林へ移植できる可能性があり、素人でも枯らしにくいこと。


 啓介は、小さな鉢植えのオリーブの木を選び、翌日配送の商品を注文した。

 幹はまだ細いが、銀緑色の葉をつけた若木だった。

 当面は室内で管理し、土地の取得後に環境を確認してから移植を検討すればいい。


 《創世札典》へ、商品説明上のオリーブが核の候補として適しているか確認する。


『生命属性の魔力源を定着させる核として使用可能です』

『ただし、作成開始には現実に存在する特定の個体を所有し、核として指定する必要があります』


 先日システムが提示したものは簡易な試作例だったため、啓介は実作成に向けて核を「植物」から長寿の「樹木」へ絞り、【唯一】と具体的な管理条件を加えた。


 《生命樹の苗床/Cradle of Vitality》

 遺物・魔力源・生命

 必要マナ:生命3


 生きた樹木を核として作成する。


【日次起動】

 生命マナ1点を得る。


【唯一】

 《生命樹の苗床》は一つしか存在できない。


【生育】

 核となる樹木が枯死した場合、このカードは破壊される。

 日照、水分、土壌その他の適切な管理を必要とする。


 命を生む器は、

 それ自体もまた、命でなければならない。


 一日2マナしか出せない現状では一括作成できないため、オリーブが届く月曜日に生命2を、火曜日に残りの生命1を注ぐ計画を立てた。

 念のため、まだ現物のない状態で進捗を開始できるかも確認する。

「注文と支払いは済んでる。届く前にマナを注入することはできるか?」


『否定。現実物品との関連づけが完了していないため、マナを固定できません』


 今日の2マナは作成には使えない。

 だが、核の到着前に無理な例外運用を始めるより、明日まで待つ方が安全だった。

 《生命樹の苗床》の作成開始は、現物が届く明日の夜だ。


 そう予定へ書き込んだ啓介は、次のタスクへ移るため、スマートフォンの連絡先を開いた。


 学生時代、啓介が熱中していたTCG部。

 部員たちと何年も会っていないわけではないが、お互いに仕事が忙しく、最後に全員で直接会ったのは一年以上前だった。

 それでも、グループチャットでは時折、生存報告のような近況を送り合っている。


 啓介は連絡先をスクロールし、特定の名前の前で指を止めた。


『三崎修司』


 発信ボタンの上で、指が止まる。

 普通の人間ドックを受けるだけなら、生活習慣を変えたと説明して今の身体を検査してもらえばよく、能力の存在まで話す必要はない。


 だが、それだけでは《日々の修繕》の使用前後を比べられず、本当に何が起きているのかは確かめられない。

 協力を求めれば、この力を知る人間が一人増える。一度口にした秘密は取り消せない。

 三崎が信じるか、口外しないか、医師として放置できないと判断しないかも分からない。


 それでも、医学知識のない自分一人で人体実験を続ける方が、はるかに危険だった。


「まずは普通に検査を頼む。どこまで話すかは、会ってから決める」


 啓介はそう線を引き、発信ボタンを押した。

 数回の無機質な呼び出し音の後、通話が繋がった。


「……もしもし。珍しいな、啓介から休日に電話なんて」

 低く、落ち着いた三崎の声だった。


 彼は現在、都内の総合病院で総合内科医として働き、健診センターの業務にも定期的に入っている。


 啓介は、能力には触れず、最初の用件だけを切り出した。


「修司。人間ドックを受けたい。できれば、お前に結果を見てもらえないか?」


 電話の向こうで、三崎が怪訝そうに息を吐いた。

「急だな。何か気になる自覚症状でもあるのか?」

「いや、逆だ」


「……逆?」


「最近、生活習慣を少し変えたら、体調が良すぎるんだ。異常なくらいにな」

 通話口に、数秒の沈黙が落ちた。


「……お前、夜中まで障害対応して、とうとう頭がおかしくなったのか?」

「反応としては正しい。でも、今回は本気だ」


 啓介は、できるだけ嘘を増やさない範囲で続けた。

「過去の健康診断と比べて、今の身体を細かく調べたい。筋肉の炎症や、内臓の状態まで可能な範囲で見てほしい」


 三崎の声が、友人のものから医者のものへ切り替わった。


「一回、人間ドックを受けただけじゃ、変化の原因までは分からないぞ」

「やっぱりそうか」


「何かを始めてから変わったと言うなら、まず普段の状態で基準値を取る。次に同じ条件で、その何かを行う前後を測る。短時間で変わる項目は前後比較、慢性的な項目は過去データと後日の再検査だ」


 啓介は内心で息を呑んだ。まさに、自分一人では組めなかったテスト設計だった。


「まずは通常の検査を頼む。その後の比較方法は、会って相談したい」


「何か、怪しい薬や海外製の健康食品でも使ったのか?」

「それも含めて、電話ではまだ話せない」


 三崎は大きなため息をついた。

「学生時代、お前がそうやって勿体ぶる時は、だいたいテキストの長い面倒なカードを持ち込んできた時だったな」

「よく覚えてるな」

「嫌でも覚えてるよ。お前のデッキ、毎回ルールの隙を突く挙動ばかりだったからな」


 呆れながらも、三崎は健診センターの空き日程を確認してくれた。

「緊急性はないんだな?」


「ない。むしろ二十代の頃より元気だ」

「なら来週の土曜、朝一番。過去の健診結果も全部持ってこい。検査までは、普段やっていることを勝手に増やしたり減らしたりするな」

 通話が切れた後、啓介はスマートフォンを置き、まだ秘密を明かしていないことに小さく息を吐いた。

 最初は通常状態の検査。その結果と三崎の反応を見てから、能力を段階的に開示するか判断する。

 《日々の修繕》が何を治し、何を残すのか。《健全なる肉体》や他人への治療へ進む前に、現代医学で使用前後を比較する。


 確かめるべき最初のテスト患者テスターは、他でもない啓介自身だった。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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流石にきちんと保有している土地でないと貯まらないか。
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