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第38話 留守番カメラから名前を呼んだら小竜が部屋中を探すらしい

平日の朝。

啓介はスーツに着替え、マンションの玄関で靴を履きながら、リビングにいるアカネに声をかけた。


「じゃあ、行ってくるぞ」

「あぎゃ」


アカネは、ソファの上に広げられた啓介の古いパーカーの上で、短い前脚を揃えて丸くなっていた。

いつもの朝の光景だ。

啓介はドアを開け、外へ出た。


鍵を閉め、駅へ向かって歩き出しながら、啓介はスマートフォンを取り出した。

そして、ホーム画面にある特定のアプリをタップする。


画面に映し出されたのは、啓介のリビングだった。

アカネを迎えてから必要に応じて室内確認に使っていた、市販の『室内見守りネットワークカメラ』を、最近は留守番確認にも使っていた。

魔法で作ったアイテムではない。数千円で買える、ごく普通の広角・暗所対応のネットワークカメラだ。スマートフォンからリアルタイム映像を確認でき、双方向音声にも対応する。録画は本体のローカルストレージだけに保存し、メーカー側のクラウド録画は無効にしてある。


最近、政府関係者との極秘の会談や、三崎や相馬との検証作業などで、休日や夜に家を空ける時間が増えてきていた。

留守中にアカネがどう過ごしているのか、異常な姿勢で倒れていないか、室温に問題はないか。それらを外出先から最低限確認するためだけに導入したのだ。

(当然だが、カメラ・音声・GPSだけでアカネを遠隔操作して完璧に命令しようなどという、甘い考えは持っていない)。


スマホの画面越し。

アカネは、先ほど啓介が家を出た時と全く同じ位置、ソファのパーカーの上で丸くなっていた。異常なし。


「……別に出勤するだけなのに、何を確認してんだ俺は」

啓介は自分で自分にツッコミを入れ、アプリを閉じて電車に乗った。完全に親バカの行動だった。


会社。

午前中は普通の仕事だった。

システムのエラーチェック、定例会議、クライアントからのメール返信、資料の修正。

魔法もマナも、政府との相談も一切関係ない、三十六歳の中堅SEの平凡な日常が流れていく。


昼休み。

オフィスの自席で、コンビニで買ってきた弁当を広げる。

啓介は箸を割りながら、何となく、ふとスマートフォンの見守りカメラアプリを再び開いた。


画面には、リビングの様子が映っている。

アカネの留守番風景だ。


アカネは。

……何もしていなかった。


ソファの古いパーカーの上。

朝と同じ場所で、完全に丸くなって昼寝をしている。

小さな翼は背中にピタリと畳まれ、短い尻尾も身体の脇に寄せられている。


「……寝てる」

そりゃそうか、と啓介は思った。飼い主がいない間、ペットが家の中で大暴れしたり、魔法の特訓をしたりしているわけがない。ただ寝ているのが一番自然だ。


弁当を食べながら、啓介は数十秒間、その静止画のような映像を眺めた。

たまに、アカネの頭がピクッと少しだけ動く。翼が小さくモゾモゾと動く。寝返りを打つ。

それだけだ。


(……俺がいない時って、こんな感じなんだな)

それだけでも、啓介にとっては妙に新鮮だった。

今まで、啓介の目の前にいるアカネは、常に「啓介がいる状況」でのアカネだったのだから。


その時。

啓介は、アプリの画面の隅にある『マイクのアイコン』に気づいた。

カメラのスピーカー機能だ。

セットアップした時に「あー、テストテスト」と自分の声が通るか試したことはあったが、アカネがいる状態でちゃんと使ったことは一度もなかった。


最初の誘惑だった。

(……今、名前を呼んだら、反応するかな?)


ほんの出来心だった。

学術的な行動実験でも、魔法の検証でもない。完全に、飼い主のただの好奇心だ。


啓介は、周囲の席に同僚がいないことを確認し、スマートフォンを少し顔に近づけた。

会社なので大声は出さない。普通の、少し低めの声で。

マイクのアイコンを押し、短く言った。


「アカネ」


カメラ側。

ネットワークの遅延で、コンマ数秒のタイムラグがある。


一瞬だった。

画面の中の、寝ていたアカネの頭が。

ガバッ!

と、勢いよく上がった。


「お」

啓介は思わず声を漏らした。


明らかに熟睡していたはずのアカネが、即座に覚醒したのだ。

金色の瞳がカッと見開かれている。


アカネが最初に向いた方向。

それは、部屋の壁の隅に取り付けられた『カメラ』の方向だった。

啓介の声が、カメラのスピーカーから物理的に出力されたのだから、当然と言えば当然だ。(だからこの時点で、「俺の声だと完璧に理解した!」と親バカな断定はしない)。


アカネは、パーカーの上で立ち上がった。

短い前脚を突っ張り、小さな翼を少しだけ広げる。

そして、カメラのレンズの方を、ジッと凝視した。


啓介は、スマートフォン越しに小声で呟いた。

「……聞こえた?」

だが、二回目は呼ばない。マイクボタンを押していないので、今の啓介の声はリビングのアカネには届いていない。


アカネが、動いた。

トテトテ、とソファの端を歩き、そのまま床へポンと降りる。

あるいは軽く飛んだのかもしれない。画面の端から、カメラの真下へとやってきた。


アカネの顔が、画面の中で大きくズームアップされる。

金色の目が、カメラのレンズを不思議そうに覗き込んでいた。


啓介は画面を見つめた。

(カメラを見てる? いや、音が出た謎の機械を確認しに来ただけかもしれないな)


アカネは、カメラの真正面で、首をコテンと傾けた。

「あぎゃ?」

マイク越しに、その小さな鳴き声が、啓介のスマホから聞こえてきた。


啓介は、思わず机に突っ伏しそうになった。

(……超可愛い)

危うくもう一回、マイクボタンを押して「アカネ」と呼びかけたくなる衝動に駆られた。

でも、我慢した。


画面の中で、アカネがさらに行動を起こした。

カメラのレンズから視線を外し、トテトテとカメラの横へ回り込む。

そして。

カメラの『後ろ側(裏面)』の壁の隙間を、首を伸ばして覗き込んだのだ。


啓介は目を見張った。

「……え?」


カメラの裏には、当然、ただの壁しかない。誰もいない。

アカネは、もう一度「あぎゃ?」と鳴いた。

そして、カメラから離れた。


ここからだった。

アカネは、リビングの中を歩き始めた。


まず、ローテーブルの下を覗き込む。

次に、ソファの裏側に回り込む。

キッチンのカウンターの方を見る。

犬が獲物を探すように、鼻を床につけて激しく匂いを嗅ぎ回るような動作はしない。

ただ、啓介が普段いるであろう場所へ順番に視線を向け、短い前脚でトテトテと移動していくのだ。


画面の端(画角の外)へ、アカネがフレームアウトして消えた。

「あれ?」啓介が呟く。

数秒後。また画面に戻ってきて、今度は別方向へ向かう。


啓介は、スマートフォンの画面に向かって笑いかけた。

「……何だよお前」

可愛い。たまらなく可愛い。


でも。

啓介の表情が、スッと真顔に戻った。

画面の中で、アカネが最後に『玄関の方向(廊下)』へと向かっていったのを見たからだ。


今朝、啓介が出ていった場所。

アカネの姿は、カメラからは完全に見えなくなった。

マイクから、小さな足音だけがかすかに聞こえてくる。


しばらくして、アカネがリビングに戻ってきた。

アカネは、先ほどよりゆっくりした足取りでリビングへ戻り、ソファの古いパーカーの上に戻ると、小さく身体を丸めた。

玄関の方を一度だけじっと見て、それから目を閉じた。


啓介は、ハッと気づいた。

(……これ、もしかして)


「声は聞こえた」。

でも、「探したけれど、本人がどこにもいない」。

アカネには、ネットワークカメラのスピーカーの原理など分からない。その状況の意味が、理解できていない可能性があるのだ。


ここで、啓介の意識は「ただ可愛い反応を見たい親バカ」から、「責任を持つ飼育者」へと急速に戻った。

最初は、可愛いと思った。

でも、もし今のアカネが、『啓介の声がしたのに、啓介がどこにも見つからない』という状況に、無用な混乱やストレスを感じているのだとしたら。


「……これ、軽い遊びの気分で何度もやるやつじゃないな」


再現性だけを取りたいなら、二回目、三回目と条件を変えて追加観察する方法はいくらでも思いつく。

名前以外の単語を言ってみる。別の他人の声を流してみる。

だが、そのためにアカネをわざと混乱させる理由はない。


でも、やらない。

啓介はマイクボタンから完全に指を離した。

理由。アカネに、意味の分からない状況をわざと繰り返させて、混乱させる必要がどこにもないからだ。


啓介の頭の中で、様々な仮説が並べられた。

・『アカネ』という音の響きに反応しただけ。

・啓介の声質(周波数)に反応した。

・カメラのスピーカーから出る電子音そのものに驚いて反応した。

・啓介の声だと明確に認識した。

・啓介が実際に部屋にいると思って探した。

・単純に、突然の音源を確認した後、気まぐれに部屋を歩き回っただけ。


全部あり得る。

啓介は「俺を探したんだ!」と断定したくなる気持ちを抑え込んだ。

ノートにもそうは書かない。


「……ごめん」

啓介は、スマートフォンに向かって小さく呟いた。

でもマイクはオフになっているから、その謝罪はアカネには届かない。


昼休みが終わり、啓介はアプリを閉じて午後の仕事へと戻った。

一時間後、どうしても少し気になって、一度だけこっそり映像を確認した。(声は出さず、映像を見るだけだ)。

アカネは、パーカーの上で普通にスヤスヤと寝ていた。啓介は胸を撫で下ろした。


啓介は、仕事用のメモ帳の端っこに、私用として一行だけ走り書きをした。

『遠隔スピーカー:緊急時以外、安易に使用しないこと』

それだけだった。


夜。

啓介がマンションに帰宅した。

玄関のドアの前に立ち、鍵を取り出す。


(さて。今回はどうするか)

ガチャ、と鍵を開け、ドアノブを引く。


玄関のドアを開けた時点で。

アカネが、廊下の途中までトテトテと迎えに来ていた。

普段より大げさに飛びついてきたり、泣き叫んだりするようなドラマチックな反応はない。一番自然な、いつもの出迎えだ。


「ただいま」

啓介が声をかけると、アカネはピタッと立ち止まった。

金色の目で啓介を見上げ。

「あぎゃ!」


そして、パタパタと軽く飛んで、啓介のすぐ近くまでやってきた。

啓介は、しゃがみ込んでアカネに言った。

「……今度は、本物だぞ」


アカネは、ヒョイッとジャンプして啓介の肩へ乗った。

前脚をビシッと揃え。翼を背中にピタリと畳む。

定位置で、ちょこん、と座った。


啓介は、スーツのままリビングへ歩きながら、肩のアカネに言った。

「昼は、悪かったな」

「あぎゃ?」

アカネは首を傾げた。もちろん、謝られている理由など分かっていない。


啓介は、リビングのソファに座り、試しにではなく普通に声をかけた。

「アカネ」


アカネは、啓介の肩の上で、声のした方向(啓介の顔)へスッと首を向けた。

今回は。

声の方向を見るだけで、カメラの裏や部屋の中を探し回るような行動は一切しなかった。

当然だ。声の主である啓介本人が、今、目の前にいるのだから。


啓介は、これだけで「だから昼間のカメラの音声も、俺本人だと認識していたんだ!」と完全な証明にするつもりはなかった。

ただ、「昼と夜で、行動が違った」。その事実があるだけだ。


夜遅く。

啓介は、留守番カメラ本体へローカル保存された録画データを少しだけ見直した。

正式な研究や検証のログにするためではない。単に、昼の場面をもう一度見たかっただけだ。


スピーカーからの音。アカネが飛び起きる。

カメラの裏を覗く。ソファの下を見る。廊下へ向かい、玄関の方へ消える。

そして、先ほどよりゆっくりした足取りで戻ってくる。呼びかけからパーカーへ戻るまで、録画上ではおよそ二分十秒だった。


啓介は、そこで数日前までの留守番録画もざっと確認した。室内を歩くことや玄関方向へ行くこと自体は過去にもあったが、『カメラへ接近し、背後を確認してから室内を回る』という同じ流れは、確認した範囲では見つからなかった。

「……今日だけ見ると、やっぱり探してるように見えるな」

そして、すぐに自己修正する。

「『ように見える』、までだな」


啓介はノートを開き、記録を書き込んだ。

《アカネ・留守番時観察》

日時:平日昼。

条件:啓介不在。留守番カメラのスピーカーから、一度だけ「アカネ」と呼称。

【観察事実】

・睡眠中から即座に覚醒。

・音源であるカメラの方向を見る。

・カメラへ接近し、側面および背後を確認するような移動。

・その後、リビング内および玄関方向へ移動。

・呼びかけから約二分十秒後、元の休息場所へ戻る。※この時間の意味は未評価。

・追加の呼びかけは行わず。その後、通常の休息へ復帰。過去数日分の録画では、同一の一連行動は確認できず。ただし室内移動や玄関方向への移動自体は過去にもあり。


【推測】

原因不明。候補:名前の音、啓介の声質、突然のスピーカー音、単なる音源探索、啓介本人の探索など。


啓介は、絶対に『啓介を探した』とは書かなかった。


そして、運用ルールを変更する。

『遠隔スピーカーは、今後、緊急性のない呼びかけには使用しない』

『理由:音声の意味や、声の主がその場にいないという状況を、対象アカネがどう認識・処理しているか不明であり、無用な混乱を招く恐れがあるため』


啓介はペンを置き、ため息をついた。

「……ただ一回、名前呼んだだけで、また運用ルールが一個増えたぞ」

「あぎゃ」

「お前のせいじゃないぞ。軽はずみだった俺のせいだからな」

アカネは、首を傾げた。


夜。

啓介がソファに座り、スマートフォンで昼の録画の静止画スクリーンショットを見ていた。

カメラの裏を覗き込んでいる、アカネのアップの画像だ。


啓介は、無意識に呟いた。

「……可愛い」


その声に反応して、古いパーカーの上で寝ていたアカネが、顔を上げた。

啓介は笑った。

「いや、今のはお前を呼んでない」


「アカネ」という名前は言っていない。「可愛い」と呟いただけだ。

それでも顔を上げた。

ということは、名前という単語そのものに反応したわけではなく、啓介の声(発声)に反応しただけなのかもしれない。

やっぱり、真実は分からない。


寝る前。

啓介がベッドに向かうために席を立つと、アカネがトテトテとついてきた。

これは普段通りの行動だ。


啓介は、足元のアカネを見下ろして言った。

「今日はちゃんとここにいるから、探さなくていいぞ」

「あぎゃ?」


昼間。

留守番カメラのスピーカーから名前を呼んだだけで、小竜はカメラの裏まで覗き込み、部屋の中を歩き回った。


それが本当に啓介を探した行動だったのかは、まだ分からない。

だから啓介は、もう一度試すことはしなかった。


夜。

「アカネ」

「あぎゃ」


今度は声の主が、ちゃんと目の前にいた。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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