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第30話 小竜の寝床を洗ったら気に入らなくなったらしい

 

 土曜日の朝。

 啓介はマンションのリビングで、青梅の山林へ行くための荷造りをしていた。

 工具箱や予備のバッテリーの横に、綺麗に畳まれた一枚の布製の寝床カバーが置かれている。


 先週、雨の日にアカネを山に連れて行った際、アカネは《アカネの守り巣》の中でおとなしく雨宿りをしていた。

 だが、山から撤収する直前に内部を点検したところ、寝床のカバーがわずかに湿り気を帯びていることに気づいたのだ。

 そのまま一週間放置すれば、カビや嫌な臭いの原因になる。啓介は、その場でカバーを取り外し、マンションへ持ち帰っていた。


 平日のうちに、洗濯機で念入りに洗い、ベランダで完全に天日乾燥させてある。

 啓介は畳まれたカバーを手に取り、状態を確認した。

 カビ臭なし。湿り気なし。目立つ汚れなし。縫い目のほつれや、アカネの爪による表面の破損もなし。

 洗濯時も、余計な香りを残すような柔軟剤は一切使っていない。無香料寄りのシンプルな洗剤で洗い、十分にすすぎを行っている。


「よし。これで元通りだな」

 啓介にとっては、単に「汚れたものを綺麗にして、問題なく再利用できる状態に戻した」という、当たり前で実務的な確認だった。

 この時点では、これが後で面倒な問題を引き起こすなどとは微塵も思っていなかった。


 すぐ近くで、アカネが自分のハーネスを前脚で弄って遊んでいた。

 啓介が、洗い立ての寝床カバーをヒラヒラと見せびらかす。

「ほら、お前の布団、綺麗に洗ったからな」

「あぎゃ?」

 アカネはチラリとカバーを見ただけで、特に反応しなかった。

 寄ってきて大喜びでダイブするわけでもなく、嫌がって逃げるわけでもない。「なんだその布」程度の薄い反応だ。

「まあ、何言ってるか分かってないか」

 啓介も気にせず、カバーをバッグの隙間に押し込み、アカネをキャリーケースへ入れてマンションを出発した。


 青梅の山林へ到着。

 今日は、大がかりな設備工事も道路工事もしない。

 先週作った《第一管理通路》と《第一作業拠点》を軽く目視で点検するだけだ。大きな異常がなければそれで終わり。

 今回の主目的は、通常の山林の点検と、持ち帰っていた《アカネの守り巣》の寝床カバーを元の位置に戻すことだった。


 いつもの手順で、アカネをフェンスで囲われた保護区画内へ運び込む。

 周囲の安全を確認し、キャリーケースの扉を開けた。

「よし、行っていいぞ」

「あぎゃ!」


 アカネは元気よく飛び出し、いつものように自分の家である《守り巣》の屋根へと一直線に向かった。

 そこまでは、いつも通りの光景だった。


 啓介は《守り巣》に近づき、点検用に開く屋根のロックを外した。

 そして、持参した洗い立ての寝床カバーを、寝室スペースの床トレーの上に敷き直した。


 ここで啓介は、システムエンジニアらしい几帳面さを発揮した。

「配置が変わったから嫌がった」という、検証における余計なノイズ(別要因)を極力排除するためだ。

 スマートフォンに残してあった以前の内部写真をわざわざ開き、カバーの向き、端の折り込み方、位置を、可能な限り「洗濯前と全く同じ状態」に復元した。


「よし」

 見た目は完全に、以前の寝床そのものだ。

 人間から見れば、泥や湿気が消えて清潔でフカフカになった分、以前よりも百パーセント良くなっているはずだった。


 屋根を閉め、ロックを戻す。

「アカネ。家の中、入っていいぞ」


 屋根の上で翼の手入れをしていたアカネが、啓介の言葉を聞いてトテトテと動き出した。

 鼻先で器用に内扉を押し開け、前室から奥の寝室へと入っていく。


 そして。

 寝床カバーのすぐ手前で。

 ピタッ。

 アカネの動きが、完全に停止した。


「ん?」

 啓介は、入り口の隙間からその様子を覗き込んだ。


 アカネは、綺麗に敷かれた寝床カバーを、ジッと見つめている。

 鼻先を数ミリだけ布に近づけ、クンクンと微かな音を立てて匂いを嗅ぐ。

 そして、じーっと無言でカバーを見下ろしたまま、動かない。


 やがて。

 アカネは、右の前脚をそっと持ち上げ、寝床カバーの端っこに「チョン」と触れた。


 数秒静止。

 そして、触れていた前脚を、スッと引っ込めた。


 入らない。


「……何で?」

 啓介は思わず声を漏らした。

 アカネは寝床カバーには乗らず、そのままクルリと背を向けると、再び内扉を押し開けて外の屋根の上へと戻ってきてしまった。


「……まあ、今は寝る気分じゃなくて、外で遊びたいだけか」

 啓介は、深く気には留めなかった。起きたばかりなのだから、すぐにベッドに戻らないのは普通だ。


 だが、一時間ほど経過した頃。

 アカネが、森の中をひとしきり飛び回り、少し疲れた様子で《守り巣》へ帰ってきた。

 これは、いつもなら確実に寝床へ行って休息をとるタイミングの状況だ。


 アカネは内扉を開け、寝室へ入った。

 啓介は、少し離れた作業拠点の椅子から、その様子を観察していた。


 アカネは、またしても寝床カバーの前で立ち止まった。

 カバーを見る。鼻先を近づける。

 そして、入らない。


 アカネは、フカフカの寝床カバーを完全に避けるようにして。

 そのすぐ横の、カバーが敷かれていない「硬い樹脂製の床トレー」の上に座り込んだ。

 前脚を揃え、翼を畳んで。

 ちょこん、と。


 啓介は、思わず立ち上がった。

「……いや、待て待て」

 寝床は完全に空いているのだ。なのに、そのすぐ横の、明らかに硬くて居心地の悪い床の上にわざわざ座っている。


 啓介は《守り巣》に近づき、入り口から顔を覗かせた。

「お前……なんでわざわざ、そんな硬い床の上に座ってんの?」

「あぎゃ」

 アカネは、不満そうな顔もせず、ただそこで休んでいるだけだという態度だった。


 ここから、啓介の『原因調査モード』が作動した。

 ただし今回は、マナを使ったり大掛かりな検証実験のセッティングを組んだりはしない。

 ごく現実的な、物理要因の切り分けだ。


 まず、寝床の状況を普通に目視確認する。

 配置。以前と同じ。先ほど写真で確認した通りだ。

 湿気。完全に乾燥している。啓介が手で触っても、サラサラで乾ききっている。

 カビ。目視でも、匂いを嗅いでも全くない。

 汚れや破損。当然ない。

 温度。極端に冷たくなっているわけでもない。

 異物。虫やトゲのようなものが混入している様子もない。


「……綺麗になったこと以外、何が違う?」

 啓介は、そこでハッと動きを止めた。

「『綺麗になったこと』自体が、違い(原因)なんじゃないか?」


 啓介は、敷いてある寝床カバーを少し持ち上げ、自分自身の鼻を近づけて匂いを嗅いでみた。

 ほとんど何も匂わない。無香料寄りの洗剤を使い、十分にすすいで天日干ししたのだから当然だ。よく乾いた布の匂いがする程度だった。


 でも。

「……俺の鈍い鼻で分からないだけで、お前には分かるのか?」

 啓介は、横の硬い床に座っているアカネを見た。

「あぎゃ?」

 アカネは、首を傾げて啓介を見返した。


 啓介は作業拠点へ戻り、ノートを開いた。

 考えられる仮説を列挙していく。


 仮説A:洗濯したことによって、以前までこの布に付いていた『何らかの匂い』が完全に消えてしまった。

 仮説B:無香料とはいえ、洗剤に由来する、人間の鼻には分からない程度の『微細な化学物質の匂い』が残っている。

 仮説C:洗濯と乾燥によって、布の繊維の『手触り(感触)』が変わってしまった。

 仮説D:乾燥による静電気など、見えない『環境因子』が違う。

 仮説E:今日は単純に、硬い床で寝たい気分だっただけ。

 仮説F:その他、現時点では把握できていない要因。


「……候補、多すぎだな」

 たった一回、あるいは数回の行動を観察しただけでは、どれが真の原因かは絶対に分からない。


 ここで重要なのは。

 啓介は、「無理に解決しようとしない」という判断を下したことだ。


 アカネを無理やり抱き上げて、フカフカの洗った寝床の上に強制的に置くような真似はしなかった。

 おやつを使って、寝床の上に誘導することも考えたが、やめた。

「家へ戻れ」の合図を出せば、家の中へ入るかもしれない。でも、それを寝床へ誘導するためには使わない。


 ここは、アカネ自身の家であり、アカネ自身の寝床なのだ。

 硬い床の上に座りたいなら、今日はそのままそこに座らせておけばいい。

「まあ、お前が嫌なら、無理に使わなくてもいいけどさ」


 でも、原因だけはどうしても知りたかった。

 啓介は、しばらく作業拠点の椅子に座り、そのままアカネの行動を観察し続けた。


 昼前。

 アカネは、何度か外へ飛び出し、また戻ってきて休む、という行動を繰り返した。

 水を飲み。宝物棚のプルタブをツンツンと小突き。

 そして、休む時は必ず、寝床を避けて硬い床の上に座った。


 たまたま一回だけではない。

 少なくとも今日の午前中を通して、明確に『あの洗った寝床カバーを利用する頻度』がゼロに落ちている。


「……やっぱり、洗ったことが原因っぽいな」

 啓介は確信を深めたが、まだ断定はしなかった。


 啓介は、腕を組んで考えた。

 人間(啓介)にとって。

『洗濯済み』『清潔』『無臭』『完全乾燥済み』というのは、啓介にとってはどれも明らかな改善のつもりだった。

 でも、アカネにとっては。

 昨日までそこにあった、安心できる『何か(匂いか、手触りか)』が、洗濯という暴力的なリセット行為によって完全に消え去ってしまったのかもしれない。


「人間から見れば、新品みたいに綺麗になった方が絶対にいいと思うんだけどな……」

 啓介は呟いた。

「お前からしたら、ある日突然、自分のベッドを『匂いも感触も全く違う、見知らぬ他人のベッド』に勝手に交換された、みたいな感覚なのか?」

 アカネは当然答えない。ただ、硬い床の上で小さな欠伸をしただけだった。


「よし。今日は、これ以上は触らない」

 啓介は決めた。

 その場で都合よく「じゃあ俺の着ている服を丸めて突っ込んでおけば即解決だろ」といった、思いつきの雑な実験は行わない。

 原因を特定する前に環境をかき回せば、余計に分からなくなるからだ。


 夕方。撤収の時間。

 結局、アカネはその日一日、洗った寝床カバーの上で休むことは一度もなかった。

 体調に異常はない。普通に遊び、普通に飛び、着地や歩き方にも身体を庇う様子はなく、普通に水を飲んでいる。ただ、寝床だけを避けた。


 啓介は、健康観察ログのノートに短く記録した。

『寝床カバー洗濯後、対象の利用率が低下ゼロ。原因不明』

『ただし、その他の体調異常やストレス反応は見られず』


 マンションへ帰宅。

 啓介の生活圏であるリビングに戻ると、アカネはいつも通りだった。

 ソファの上や、啓介の足元など、普段よくいる場所でくつろぎ、不安そうな様子や警戒する素振りは一切見せない。


「……少なくとも、どこかが痛くて寝床に入れないようには見えないな」

 啓介は、少しホッとした。


 その夜。

 啓介が、山で着ていた泥はねのついた作業着や、汗をかいたインナーを脱いで、洗濯カゴへ分けようとしていた時のことだ。


 啓介は、脱いだばかりの綿のインナーシャツを、一時的にリビングの床の端にポンと置いた。


 その瞬間。

 トテトテトテッ。

 ソファでくつろいでいたはずのアカネが、小走りでそのインナーシャツの近くへとやってきた。


 シャツに鼻先を寄せる。

 フンフンと、微かに匂いを嗅ぐ。


 そして。

 何の警戒も、迷いもなく。

 その脱ぎたてのシャツの布の上に、ちょこんと座り込んだのだ。


 啓介は、固まった。

「……おい」

「あぎゃ?」

「それ、今から洗濯機に突っ込むやつなんだけど」


 アカネは退かない。むしろ、短い前脚でシャツの布地を押さえながら、身体を置きやすい位置を探し始めている。


 ここで、啓介の頭の中に、先ほどの仮説の一つが強烈に浮上してきた。

『匂いの仮説』だ。

「……お前、もしかして、俺の匂いがついてる布が好きなのか?」

 親バカのような仮説が、頭をよぎる。


 でも。

 啓介はすぐに首を横に振った。

「いや、待て待て。早計すぎる」


 今アカネが座っているこのインナーシャツと、山にある寝床カバーでは、条件が違いすぎる。

 材質。布の柔らかさ。使用歴の長さ。洗濯直後かどうか。置かれている場所(マンションか山か)。室温。

 すべてが違う。それに朝、マンションで洗ったカバーを布単体として見せた時には、アカネは特に嫌がっていなかった。布そのものではなく、『自分の寝床として置かれた状態』に何か違和感があった可能性もある。

 だから、この行動一つをとって「アカネは啓介の体臭が大好きだ」と結論づけるのは、科学的ではない。


「……これだけじゃ、結局何も分からんな」

 啓介は、アカネがどいてくれるまで、洗濯機を回すのを少し待つことにした。


 ここで、啓介は昔の寝床設計を思い出した。

 そもそも、《アカネの守り巣》に設置したあの寝床カバーは、完全な新品のペット用品だけで作ったものではなかった。

 啓介が長年着古して、捨てるつもりだった「古い部屋着」の布地を切り取って、カバーの一部として縫い込んで作ったものだ。

 当時は、「生地が柔らかいし、洗えるし、家に余っていたからちょうどいい」という、極めて実用的で合理的な理由だけでそれを選んだ。つまり、今アカネが避けている洗濯済みのカバーにも、同じ古い部屋着由来の布は最初から入っている。


 でも。

 もしかすると、アカネにとって重要なのは「古い部屋着という素材」そのものではなく、洗濯前から残っていた匂いや感触、生活環境由来の馴染みのようなものなのかもしれない。もちろん、まだ断定はできない。


 翌日の日曜日。

 啓介は、再び青梅の山林へと向かった。

 大がかりな検証実験をするつもりはない。


 今日、新たに持参した布は一つだけだった。

 《守り巣》には、昨日アカネが避けた『洗った寝床カバー』をそのまま残してある。

 持ってきたのは、啓介のタンスの奥から引っ張り出してきた、『古い部屋着から切り出した、小さな布の端切れ』だけだ。


 この布の端切れについては、前日の夜にわざと洗濯し直したりはしていない。

 ただし、汗でびしょびしょの不衛生な状態のものを持ち込むわけでもない。普段、休日の室内着として数回着ていた、目立つ汚れのない状態の布だ。

 匂いの差を大きくするために、わざと汗を染み込ませるようなこともしなかった。それでは衛生管理のために寝床を洗った意味がなくなる。自然な状態の布だ。


 山林に到着。

 再び、《アカネの守り巣》。

 昨日と同じように、洗った寝床カバーが敷かれている。

 アカネは、昨日と同じように、カバーを避けて硬い床の上にいる。

「やっぱり、昨日たまたま機嫌が悪かっただけ、ってわけじゃないな」


 啓介は、持参した『古い部屋着の小さな布』を取り出した。

 ただし、いきなり寝床カバーのド真ん中にそれを置くような、押し付けがましい真似はしない。


 寝床カバーのすぐ横。アカネが今座っている硬い床との中間地点。

 アカネ自身が、興味を持てば「自分で選べる」位置に、その布をそっと置いた。


「ほら」

 啓介は短く声をかけ、作業拠点の椅子へと下がった。


 アカネが、置かれた布を見た。

 トテトテと近づく。

 鼻先を寄せる。クンクン。


 そして。

 アカネは、小さな口を開け、その古い布の端っこをガブッとくわえた。


 そのまま。

 ズルズルッ。

 ズルズルッ。

 短い前脚も一生懸命に使いながら、後ろ歩きで布を引っ張り始めた。

 向かっている先は。

 啓介が昨日から敷いている、あの『洗った寝床カバー』の方向だった。


 啓介は、目を見開いた。

「……え?」


 アカネは、自力で布を引っ張り、ついに洗った寝床カバーの上へと布を引きずり込んだ。

 そして、前脚を使って、布の位置をカバーの中央あたりに器用に整える。


 準備が完了すると。

 トテトテと歩き。

 昨日から一度も、絶対に足を踏み入れようとしなかった『洗った寝床カバー』の上へと、躊躇なく乗り込んだ。


 自分が引きずり込んできた古い布の上に。

 前脚を揃え。

 翼を畳み。

 ちょこん、と座り込んだ。


 数分後。

 アカネは身体を小さく丸め、短い尻尾を身体の脇にぴったりと寄せた。

 そして、目を閉じて、静かにスヤスヤと眠り始めた。


 啓介は、作業椅子の背もたれに深く寄りかかり、しばらく無言でその光景を見つめていた。

「……そんなに?」

 アカネは、もう完全に熟睡している。


 啓介の胸の奥から、じんわりと嬉しさがこみ上げてきた。

 一瞬。

「これ、やっぱり俺の匂いが染み付いてるから、安心するってことか?」

 という、激しい親バカのような思考が頭を支配しかけた。


 でも。

 啓介は、必死に理性を総動員して、その思考を自分でストップさせた。


 考えられる理由は、まだ複数あるのだ。

 ・啓介の体臭が好き。

 ・マンションの部屋の『生活臭』がついているから安心する。

 ・匂いではなく、元々の寝床と同じ『素材感(手触り)』が必要だった。

 ・洗剤の匂いがしない、無臭の布が緩衝材として必要だった。

 ・洗濯する前の『クタッとした布の感触』が好き。

 ・単に、この布の切れ端そのものがお気に入りのおもちゃになっただけ。

 ・すべては偶然。


「……まあ、俺の匂いが好きだからってことにしておきたいのが人情だけど。証拠はどこにもないな」同じ素材の洗濯済み布と未洗濯布を並べれば、もう少し条件を切り分けることはできる。

 そこまで考えたところで、啓介は首を振った。「……いや。寝床で何度も選択試験をさせる必要はないか」原因究明が目的ではない。アカネが安心して休めるなら、今日はそれで十分だ。


 でも、原因を一つに特定しなくても、運用上必要な解決策は明確に分かった。


 アカネの寝床を、ダニやカビから守るために清潔に保つ。これは絶対に必要だ。

 しかし。

「毎回、全部の布を完璧に洗濯して、完全に新品同然の無臭状態にリセットする」

 それだけが、必ずしも正解とは限らないのだ。


 アカネにとっての、「ここは自分のいつもの安心できる場所だ」と分かるための『手掛かり(トリガー)』を、多少は残してやらなければならない可能性がある。


 啓介はノートを開き、新しいルールを書き込んだ。


 《アカネ寝床・洗濯運用ルール》

 ① 泥汚れ・濡れ・カビなど、明確な衛生上の問題が発生した場合は、本人の好みに関わらず迷わず洗浄・交換する(衛生第一)。

 ② 洗剤は、強い香りを残す柔軟剤などを極力避ける。

 ③ 洗濯後は、生乾きを避けて完全乾燥させる。

 ④ 【重要】可能であれば、すべての布類を同時に新品状態へと入れ替えない。安全な範囲で、以前から使っている布(馴染みのある布)を一つだけ残す。

 ⑤ 洗った寝床を戻す際は、アカネ自身が選んで使うまで、人間が無理やり押し込まない。

 ⑥ 洗濯後の利用状況を、引き続き観察する。


 そして啓介は、魔法ではなく、極めて現実的な対策を講じることにした。

「普通に、同仕様の洗える予備カバーをもう一枚作っておくか」

 予備があれば、片方を洗濯して乾燥させている間でも、もう一枚のカバーと『馴染みの布』を組み合わせて、寝床を維持できる。

「匂い保存専用の熟成布」みたいな、不衛生で妙な設備にするつもりは毛頭ない。あくまで、清潔さを保つための単純な洗い替えのローテーションだ。


「洗ったら嫌がったから、じゃあ二度と洗わない」

 そんなことをすれば、単に衛生管理を放棄しただけだ。寝床は今後も必要に応じて洗い、清潔な状態を維持する。

 今回分かったのは、「洗濯をやめるべき」なのではなく、「洗濯後の再導入方法を、ほんの少しだけ工夫した方がよさそう」という、運用プロセスの改善点だけだ。


 午後。

 アカネが目を覚ました。

 寝床から出て、外へパタパタと飛び出していく。

 森の中を普通に飛び回り、小石をつついたりして遊んでいる。


 そして、また《守り巣》へ戻ってくる。

 今度は。

 入り口で立ち止まることも、硬い床に座ることもなく。

 迷うことなく、一直線に『古い布を敷いた洗った寝床』の上へと直行し、そこで再びくつろぎ始めた。


「……一回だけのまぐれじゃないか」

 これで、少なくとも「古い布を置いた後は、寝床の利用が完全に元に戻った」という事実だけは、確固たるものとして確認できた。


 ふと見ると。

 最初、啓介が置いた時は寝床の端っこに近かった古い布が。

 いつの間にか、アカネが前脚や口で微調整したらしく、アカネが一番よく身体を丸める『ド真ん中』の位置へと綺麗に寄せられていた。


 啓介は呆れた。

「……お前、それ自分で寝心地がいいように位置調整してるだろ」

「あぎゃ」

 アカネは、悪びれもせずに小さな欠伸をした。


 夕方、帰る前。

 啓介は寝床の衛生状態を最後に確認した。

 古い布は、特に汚れたり湿ったりはしていない。

 啓介は、そのままその布を一枚だけ、洗ったカバーの上に残していくことにした。

 アカネにとって、これで再び『普通の、安心できる自分の寝床』に戻ったらしい。


 啓介はノートに本日の結論をまとめた。


『洗濯直後の寝床カバーを回避する傾向を確認』

『旧使用布を追加後、自発的な利用再開を確認』

『原因候補:匂い、素材感、洗剤残香、生活環境由来の馴染み等』

『現時点では原因特定せず』

『衛生管理を優先しつつ、洗濯後の再導入方法を調整する』


 そして、最後の一行にこう書き添えた。

『清潔=本人にとって快適、とは限らない』


 帰宅途中。

 助手席のキャリーケースの中で静かにしているアカネを見ながら、啓介は小さく呟いた。

「人間から見りゃ、綺麗でフカフカな方が絶対にいいと思ってたんだけどな」


 人間が、綺麗、新品、無臭を「良いもの」と考えていても。

 アカネにはアカネなりの、独自の安心の基準がある。

「まあ、お前の家なんだから、そりゃお前が一番落ち着く環境の方がいいに決まってるか」


 これもまた、《守り巣》という施設が、「啓介が管理する設備」でありながら、「実際にそこで暮らすのはアカネである」という、一つの独立した生活空間になりつつある証明だった。


 夜。マンションのリビング。

 アカネは、ソファの上に置かれていた啓介の古いパーカーの上で、身体を小さく丸めて寝ていた。


 啓介は、またしても自分の古着を選んで眠っているアカネを見下ろしながら、誰にも聞こえないような小声で呟いた。

「……でもさ」

「もし本当に、俺の匂いがあるから安心して使ってるんだとしたら……ちょっと嬉しいんだけどな」


 アカネは、スヤスヤと寝ている。

 全く反応はない。

「……聞いてないか」


 啓介が苦笑して立ち上がろうとした、その時。

 アカネが、小さく寝返りを打った。

 そして、短い前脚で古いパーカーの端っこを、自分の身体の下へさらにギュッと引き込んだ。


 啓介は、その光景を見て少しだけ固まった。

「……おい」


 啓介はノートを開き、最終追記を行った。

『洗濯後:馴染みのある布を一枚残して、段階的に戻す』

 一度書いた文字を見る。

 ちょっと考えて、その下に小さく書き足した。


『ただし、原因は未確定。親バカによる「俺の匂いが好きだから説」は、引き続き保留とする』


 背後から、「あぎゃ」と鳴き声がした。

 啓介が振り向くと、アカネが薄く目を開けて啓介を見ていた。


「……お前、文字読めないよな?」

「あぎゃ」

「絶対、読めないよな?」


 アカネは、分からないというように首をコテンと傾けた。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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