選択という名の贅沢~公爵令嬢は清貧改革で断罪を回避する~
民衆が集まる広場で、レティシア・フォン・アルデンベルクは跪いている――後ろ手に縛られ、処刑台に首を乗せて。
澄んだ声が、淡々とレティシアの名を読み上げると、群衆が拍手をした。
乾いた音が重なり合い、波のように広がる。
そして、風を切る音がした。ごく短く、鋭く。
「――――ッ!!」
レティシアは、声にならない悲鳴を上げて目を覚ました。
夜明け前の静けさの中、心臓だけが激しく鳴っている。
荒い息を繰り返しながら、首がつながっていることを触って確認する。
レティシアが寝台の上で身を起こすと、冷えた汗が背中を伝い、夜着が肌に張りついた。
薄い布は、汗を含んでもなお柔らかく、指先で触れればなめらかに滑る――上質なシルクだ。
公爵家の令嬢に相応しい、仕立ての良いネグリジェ。
「どうして…?」
震える声が、静かな寝室に溶ける。
重厚な天蓋、磨かれた家具、厚い絨毯。
レティシアは夢の内容を振り返る。
民衆は、誰もが同じ言葉を口にしていた。
「贅沢だったからだ」
レティシアはベッドの上で、自分の体を抱いた。
シルクの夜着が、指の間で小さく軋んだ。
*
現在、王都では清貧が美徳とされている。
王太子アルベルト自らが演説し、貴族の奢侈を断罪する時代だった。
広場に集まった民衆は、演説のたびに熱狂した。
拳が掲げられ、歓声が響いた。
ある貴族は爵位を剥奪された。ある貴族は領地を没収された。
理由は様々だったが、結論は常に同じだった。
「贅沢である」
レティシアは顔を上げた。
「削るわ。削れるものはすべて削り、断罪される理由をなくしてみせる」
それは恐怖から始まった決意だった。
*
レティシアは、朝食の席で両親へ頭を下げた。
「いままでごめんなさい。今日から、私も清貧を徹底します」
アルデンベルク家当主夫妻は非協力的だった娘が「清貧」に目覚めたことに喜び、アルデンベルク家の改革は速やかに進められた。
レティシアは執務室で、帳簿と向き合った。
羽ペンが紙の上を滑る。
項目に線が引かれ、数字が削られていく。
衣装費は半分に。
レティシアは鏡の前で、去年の服を試着した。
少しきついが、着られないわけではない。
新しい宝石の新調は取りやめた。
宝石箱を閉じるとき、金具が小さく音を立てた。
晩餐の品数も減らした。
料理長は困惑した表情を浮かべたが、レティシアは首を横に振った。
「六皿は多すぎます。四皿で十分」
料理長は深々と頭を下げ、厨房へと戻っていった。
使用人の数も「適正化」された。
執事が持ってきた名簿を、レティシアは一人ずつ確認し、印をつけた。
名前の横に、小さな×印が増えていく。
帳簿はすっきりし、支出は目に見えて下がった。
社交界でも、その成果は話題になった。
「素晴らしい判断ですわ、公爵令嬢」
「アルデンベルク家は、時代を先取りしておられる」
そう褒められるたび、レティシアは背筋を伸ばした。
胸に手を当てる。
心臓が、今度は誇らしげに鳴っている。
「ええ、たくさん削って、とてもすっきりした気分ですわ。清貧とは素晴らしいものでしたのね」
そして、レティシアは目を伏せて微笑んだ。
「次は何を減らそうかしら」
*
ある夜、レティシアは喉の渇きを覚えて目を覚ました。
廊下に出ると、月明かりが毛足の長い絨毯を照らしていた。
「…見えないことも、ないかしら」
屋敷は静まり返っている。
遠くで、柱時計が時を刻む音だけが響いていた。
厨房へ向かう途中、レティシアは足を止めた。
使用人棟の一室から、かすかな明かりが漏れていた。
扉に近づく。
床板が、小さく軋んだ。
レティシアがノックをすると、擦り切れた夜着を身にまとった下女が、少し緊張した面持ちで扉を開けた。
狭い部屋の奥、小さな木製の机の上に、読書灯が置かれている。
その近くに、閉じられた古びた本が置いてある。
「あなたは…エリーゼだったかしら」
「…はい、お嬢様」
読書灯の炎が、小さく揺れている。
レティシアはそれを見つめた。
「読書灯を遅くまで使うのは"贅沢"よ」
声は穏やかだったが、言葉ははっきりしていた。
エリーゼははっと読書灯を振り返る。
「…申し訳、ございません」
慌てて読書灯のもとへ向かい、火を消した。
部屋は暗くなり、小さな窓から入る月明かりが、二人の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。
「あなたの協力に、感謝を」
レティシアは頷いて、部屋を出た。
廊下を歩きながら、背後の扉が静かに閉まる音を聞いた。
*
清貧の集いが、王太子主催で開かれた。
王宮の大広間に、貴族たちが集まった。
天井から吊るされたシャンデリアが、無数のクリスタルを輝かせている。その光が、大理石の床に反射して、広間全体を黄金色に染めていた。
テーブルには料理が並んでいた。
量は控えめだったが、一つ一つが最高級の素材で作られている。
白磁の皿の上で、ソースが芸術的な曲線を描いていた。
貴族たちはみな、どれだけ削ったか、どれだけ我慢したかを語り合っている。
レティシアと仲の良い令嬢たちも白鳥の羽根がついた扇を揺らしながら、笑顔で語った。
「使用人を三人減らしましたの」
「衣装代を四割削減いたしました」
「私なんて、朝食はパンと紅茶だけですわ」
会話が弾むたび、グラスが傾けられた。
琥珀色のワインが、参加者の喉を潤す。
やがて、王太子が壇上に上がった。
広間が静まり返る。
「本日は、清貧の模範となる方々を称えたい」
王太子の声が、広間に響いた。
「中でも、特に優れた改革を成し遂げた家を、発表する」
レティシアは、両手を組んだ。
指先が、わずかに震えている。
「アルデンベルク公爵家」
名前が呼ばれた瞬間、レティシアの視界が揺れた。
周囲の視線が、一斉に集まる。
レティシアは立ち上がった。
ベルベットのドレスの裾を持ち、壇上へと向かう。
階段を一段ずつ上がる。靴音が、静寂の中で響いた。
王太子の前に立つ。
レティシアは深々と一礼した。
「改革の成果を、お聞かせ願いたい」
王太子の言葉に、レティシアは顔を上げた。
「支出を三割削減いたしました」
声は落ち着いていた。
「衣装費、食費、人件費。無駄を省き、真に必要なもののみを残しました」
レティシアは懐から、小さな帳簿を取り出した。
それを王太子に差し出す。
王太子は帳簿を開き、数字を確認した。
ページをめくる音が、広間に響く。
やがて、王太子は頷いた。
「見事である」
拍手が起こった。
最初は控えめだったが、次第に大きくなっていく。広間中に、拍手の音が満ちた。
レティシアは胸に手を当て、もう一度頭を下げた。
視線を上げると、王太子が満足そうに微笑んでいた。
「認めていただけて、光栄です…」
レティシアの目に、涙が滲んだ。
*
数日後、同じ大広間に、再び貴族たちが集められた。
大広間は静まり返っており、緊張した空気が立ち込めている。
壇上には、王太子と数名の官吏が立っていた。
彼らの前には、大量の帳簿が積まれている。
王太子が口を開いた。
「諸君の中に、清貧を装い、実態は何も変えていない者がいた」
声は低く、厳しかった。
「帳簿を精査した。そして、虚偽が見つかった」
官吏が一人、前に出た。
手には、開かれた帳簿が握られている。
「バルトロメイ伯爵家」
名前が呼ばれた瞬間、一人の男が顔を青ざめた。
「使用人給与を削減したと報告していたが、実際には別の名目で同額を支払っていた」
帳簿が掲げられる。
数字が、嘘を暴いていた。
「弁明は」
王太子の問いに、伯爵は口を開こうとした。
だが、言葉は出なかった。ただ、首を横に振るだけだった。
「爵位剥奪」
宣告が下された。
伯爵は膝から崩れ落ちた。
次の名前が呼ばれる。
また次の名前が呼ばれる。
帳簿が暴かれるたび、誰かが俯いた。
ある者は弁明し、ある者は沈黙した。
だが、結果は同じだった。
「清貧とは、口先ではない」
王太子の言葉が、広間に響くたび、空気が重くなった。
レティシアは自分の席で、両手を強く握りしめていた。
手のひらに、爪が食い込む。
そして、ついに。
「アルデンベルク公爵家」
名前が呼ばれた。
レティシアはビクリと顔を上げた。
周囲の視線が、また集まる。
数日前とは、その視線の温度が違う。
レティシアは立ち上がった。
ドレスの中の足は、震えている。
だが、一歩ずつ前に進んだ。
壇上の階段を上がり、王太子の前に立つ。
官吏が帳簿を開いた。
ページをめくる音が、やけに大きく聞こえた。
沈黙。
長い、長い沈黙。
レティシアは息を止めた。
祈るように、瞳を閉じる。
王太子が音を立てて帳簿を閉じた。
レティシアの心臓は、周囲に聞こえているかと思うほど大きい。
王太子が顔を上げた。
「問題なし」
その一言が、広間に響いた。
「アルデンベルク家の改革は、模範的である」
ざわめきが起こった。
それは驚きから、すぐに称賛へと変わった。
レティシアの膝から、力が抜ける。
だが、倒れる前に、王太子が手を差し伸べた。
「よくやった」
王太子の声は、穏やかだ。
レティシアは、そっとその手を取り、涙ぐみながら微笑んだ。
広間の拍手が、波のように押し寄せてくる。
シャンデリアの光が、涙に反射して、虹色に輝いた。
*
その夜。
レティシアを乗せた馬車が門をくぐる。
砂利を踏む車輪の音が、静かな夜に響いた。
玄関で執事が出迎え、レティシアは軽く頷いて、屋敷の中へと入る。
レティシアは、ふわふわとした足取りで廊下を歩く。
靴音は絨毯に吸い込まれ、衣擦れの音が響く。
窓の外を見ると、庭の薔薇が月光を浴びて、銀色に輝いていた。
噴水の水音が、かすかに聞こえてくる。
レティシアは立ち止まり、その光景を眺めた。
「断罪を、回避できたわ…」
自然とレティシアの表情は緩む。
廊下の先で人影が動き、レティシアはそちらを見る。
エリーゼだった。
彼女は給仕用の盆を持ち、こちらへ向かって歩いてきた。
二人はすれ違う場所で、足を止めた。
「お疲れ様でした、レティシア様」
エリーゼは盆を脇に抱え、丁寧に一礼した。
レティシアは優しく微笑んだ。
「ありがとう、エリーゼ。あなたも、私の改革を支えてくれたのよ」
エリーゼは顔を上げた。
そして、伏し目がちに微笑んで、もう一度頭を下げた。
レティシアは先を歩き、自室へと向かった。
背後で、エリーゼの足音が遠ざかっていく。
自室に入ると、レティシアは窓辺に立った。
カーテンを開ける。
満月が、王都全体を照らしている。
レティシアは深く息を吸った。
胸いっぱいに、夜の空気を吸い込んだ。
「月が、きれいだわ」
レティシアは重厚な天蓋のベッドへ横たわった。
彼女の名が、王太子妃候補として囁かれるようになるのは、まだ先の話である。
月の光が、明かりのない屋敷をやさしく照らしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
あなたの夜を照らす光が、誰にも奪われないものでありますように。




