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大人になったね

作者: P4rn0s
掲載日:2025/12/13

中学校の体育館で、号令に合わせて体を前に倒したとき、床に手がつくかどうかなんて、考えたこともなかった。

前屈は「できるもの」で、できないやつがいること自体が、少し不思議なくらいだった。


先生が笛を吹いて、はい前屈、と言う。

ただそれだけで、体は言うことを聞いた。

息を吐けば、自然と指先が床に触れて、時には手のひらまでべったりついた。

柔らかいとか、若いとか、そういう自覚はなかった。

できない理由が、想像できなかっただけだ。


今、同じ動きをしてみると、床はずいぶん遠い。

指先は空中で止まり、太ももの裏がじわりと引き攣る。

無理に倒そうとすると、体のどこかが「そこまでだ」と静かに警告してくる。


別に怪我をしているわけでもない。

病気でもない。

ただ、生活をしてきただけだ。


座る時間が増えて、走らなくなって、眠る時間が少しずつ削られて。

体を動かさなくても生きていける方法を、覚えてしまっただけなのに。

気づいたら、床に手が届かなくなっていた。


あの頃、できない人を見て、心のどこかで思っていた。

なんでこんな簡単なことができないんだろう、と。

その理由を、今の自分は痛いほど理解している。


できなくなったのは、ストレッチだけじゃない。

無理を無理と思わない感覚。

多少の痛みを笑って流せた余裕。

明日のことを考えずに、体を使い切る勇気。


前屈で床に届かない指先を見ながら、ふと考える。

大人になるって、何かを手に入れることだと思っていた。

選択肢とか、知識とか、責任とか。


でも実際は、こうして少しずつ、当たり前だったものが離れていくことなのかもしれない。

あまりにも静かで、気づいたときには戻れない距離まで。


床は何も変わっていない。

変わったのは、自分の体だけだ。


それでも、前より少し息を吐いて、もう一度だけ体を倒してみる。

ほんの数センチ、さっきより近づく指先を見て、なぜか少し安心する。


できなくなったことは戻らないかもしれない。

でも、近づこうとすることだけは、まだできる。


それが大人になるということなら。

思っていたより、悪くないのかもしれない。

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