第5話
——ジリリリリ
——ジリリリリ
「う……」
耳に装着したイヤホンからスマホアラームのけたたましい音が聞こえる。強制的に覚醒へと導かれた凛は重たい瞼を開けて視界をぼんやりと取り戻す。
「間も無く—— です」
イヤホン越しに曇って聞こえるアナウンス。それが次の駅を知らせるものであることは分かっている。眠気にやられて二度寝をしてしまう前にイヤホンを外し、両目を擦って思い切り背伸びをする。
やがて新幹線が止まる。凛は席を立って荷物を持ち、機内を出た。ホームから歩いて駅の外へと出る。休日ということもあって人混みで賑わってるが、それでも東京と比較すると大したことは無い。
ざっと景色を見てみる。駅周辺にはビルが立ち並び、その中には自分が幼い頃から知っている建物がある。反対に長らく馴染んでいたのに、自分が東京へ居る間に別の建物へ変わった物件もある。帰って来るなり時の経過を思い知らされたり思い知らされなかったりするのだ。
鼻から故郷の空気をいっぱいに吸って、口から思いきり吐いてみる。身体の中まで故郷に戻ったみたいで良い気持ちだ。10月の冷たい風が頬を撫で、背中まで伸びた長い髪を靡かせる。
東京から地元に戻って来るのは2ヶ月前の盆休みを最後に今年で2度目である。
澤凪が警察へ自首してから8年。凛は東京の大学へ進学しそのまま都内の企業へ就職していた。
* * *
"幸せになって欲しい"
LINEでそんなメッセージが先輩から送られた時、私はあの人がこれから何をするのかが直ぐに分かった。
私はスマホもその場で置き去りにし、靴も履かずに玄関を一心不乱に飛び出した。
「澤凪先輩! 澤凪先輩!」
夜も21時を回りそうなのに近所迷惑も考えず泣きながら叫び走り回る。
偶々近くにいた警察が私を発見してその場で拘束した。
「離して! 離して!」
狂乱しながらの抵抗も虚しく、交番へ連行された。そこで先輩について根掘り葉掘り聞かれることとなった。
……なんて、ドラマティックなことは起きてない。私は一歩も部屋から出ず、翌日先輩が逮捕されたという事実をSNSのニュース速報で確認しただけだった。
ただ、先輩のメッセージを見てあの人が何をするのか直ぐに分かったのは本当だ。
そうだよね。
うん、先輩ならそうするよね。
ベッドに座り、自分を必死で納得させた。込み上げる涙を必死で抑えるようにして、或いは思い出を飲み込むようにして。
私は緑地で回収していたバカナスの実12つをその場で全部口に放り込んだ。調理次第では食べられる可能性もあるらしくて回収していたのだ。だけどそのまま食べた。
バカヤロー。
私は涙を流しながら心でそう叫んだ。誰に向けてた言葉でもない。ただ、やるせない気持ちになると勝手に出る言葉なのだろう。
やっと気付けたのに。やっと想いを伝えられたのに。
私は零れ落ちる涙で膝を濡らしてしゃくり上げながら、何度も何度もバカナスの実を口の中で噛む。失恋みたいな甘酸っぱい味が口内の全域に広がっている。
分かっていた。分かっていた筈なのに。こんな時が絶対に来ることを。
案の定、私は食中毒を起こして高熱を出し、1週間くらい尋常じゃない嘔吐下痢に苦しめられた。病院の先生に理由を話すと心配ってよりはドン引きされたし、親からは二度とこんな馬鹿なことしないでと怒られてしまった。
そう、私は馬鹿なことをこれっきり二度としなくなった。
嫌いな科目の授業では先生にバレないように寝てたのに、どの教科もちゃんと聞いてちゃんとノートを取るようになった。今まで一度もやらなかった日々の予習復習に下校後は時間を充てるようになった。日課だった推しの配信者のライブ配信を段々見なくなって行った。成績も勝手に伸びて行き、いつの間にか私は友達グループの中で教師みたいな立ち位置になっていた。受験の追い上げ期である高3夏頃になってやっと尻に火が着いた友達からよく頼られたものだった。君のレベルならもっと上を目指せるという教師からの推薦で東京の有名私立大学を志望し、無事に合格することが出来た。
周りからは大人びたとか落ち着いたとかよく言われるようになった。
別に意識してそんな風になった訳じゃない。大体、大人になるということが何なのかよく分からないし上手く言語化も出来ない。
だけど、熱が完治して1週間ぶりに外へ出た時、それまで見ていた世界が全く別のものに見えるようになった。
世界はカラフルに彩られているのではなく、ただ雑多に色が混じり合ってそれが果てしなく続いているだけだ。そういう意味では自分が今いる世界は、永遠に続く砂漠や永遠に続く森林とそう大差が無い。手当たり次第に今を楽しむよりも、ほんの少し先を見据えて行動する方が合理的に思えたのだ。
心の中で悟るようにそんな気付きを得た。それだけは確かなことだ。
両脇に緑が広がる緑地の散歩道を、私は1人で歩く。風と風に揺られる葉っぱの音に耳を澄まし、短い時計の針のような速さでゆっくりと進む。
お気に入りのコーデに身を包み、あの頃と何も変わらない思い出の場所を1人で歩く。追い立てられるように過ぎる日々の中で、ここにいる間は時の流れを忘れることが出来た。
「これ何ー? ブルーベリーみたーい。食べちゃおっかなー」
「ダメだってユミちゃん。それバカナスってやつだから。有毒なんだよ」
「うげーほんとー?」
そんな会話が聞こえてふと足を止める。会話の方向に目を見やると、そこには道にしゃがみ込んで右手に広がる草原を見ながら会話する高校生くらいのカップルがいた。
「ケイちゃん詳しいー。さすが物知り」
「へへっ。それ程でも」
そう言って彼女の方が彼氏の方へ腕組みし、立ち上がって道の向こうへと歩いて行った。
私はカップルが去った後の場所へ歩き、しゃがみ込む。真っ白な花が咲いたイヌホオズキが、黒紫色に熟した実をぶら下げている。
「バカだったな。本当に」
そう呟いて私は過去の愚行を思い出し、ふふっ、と笑った。来るべくして来た澤凪先輩の逮捕。その事実を文字通り飲み込みたくてあんなことをした。
今にして考えれば余りにも青臭くて若い。だけどあの脳がとろけるような恋と背徳も、ゲロの味がした初めてのキスも、今では全てが愛おしい煌めきに満ちている。それを思い出させてくれるこの場所が私はやっぱり大好きなのだ。
——♪
LINEの通知音が鳴った。
私はスマホを取り出し、メッセージを確認する。
"来週、予定空いてる?"
"また食事に行かない?"
通知先は山田君だ。同じ会社の人で、別の部署だけど食堂で偶々席が隣になったのがきっかけで知り合うことが出来た。異性ながらも好きなスポーツやアニメ、細やかな趣味に至るまでよく気が合う人で、あっという間に仲良くなって先週初めて2人きりで仕事帰りに夕食を食べたのだ。
"ごめん!"
"来週は用事があって!"
だけど、私は敢えて嘘を吐く。
倫理も道徳もあったものじゃない。自分を燃やし尽くしてしまいそうな程の青春の豪炎へ身を委ねていた、馬鹿で、愚かで、イカれてる、高校2年生の宮村凛という少女が今は可愛くて仕方がない。今だけはあの頃の少女でいたいのだ。
高熱で倒れてる間、私は澤凪先輩へ復讐を誓った。
それは先輩の言った通り幸せになんてなってあげないこと。例え10年でも20年でも澤凪先輩が娑婆に出るのを待って「遅い!」って文句を言ってやること。まあ復讐なんて言っても、結局は単に澤凪先輩のことが好きだっただけだ。
東京の荒波に揉まれて社会人3年目を迎えた今でも、私はそんな青臭い少女を心の何処かで抱えている。宝物として大事に保管してると言ってもいい。
だから毎年10月の第4土曜日と日曜日は、わざわざ月曜日に有休を取ってまで実家へ戻ってここに来る。1年のほんの僅かな間だけそういう身勝手を自分に許す。今でもスマホに残っている写真や消さずに残してるLINEのトーク履歴のように、大切な宝物の美しさを確認して忘れない為に。
だけど……そんな少女ともそろそろお別れをするべきなのかもしれない。
大人になるということ。その意味が今ならほんの少し分かる。きっとそれは、他者との折り合いの中で妥協や矛盾を認め、それでも手を取り合う強さを持つということだ。
山田君とならそういう強さを持てる。そんな気がする。だからこの散歩道を出たら、少女とはお別れしよう。そっと花を添えるようにここへ置いて行こう。
あの頃の私と澤凪先輩のお陰で、今とこれからの私がある。万感の思いを込めて、私はゆっくりと出口へ足を進める。
「——宮村?」
今、誰かとすれ違った。
すれ違った人は、後ろから私に驚き混じりの声を掛けた。
懐かしい声だった。あの頃と何も変わらない純度で、全身をあっという間に駆け巡って抗い難く私を染め上げてしまう。
「懲役……13年じゃなかったんですか」
立ち止まって振り返らず、震える声で私はそう尋ねた。
「去年、仮釈放申請が通ったんだ」
彼は何処か遠慮がちに言った。
仮釈放? それも1年前? それだったら先に言ってよ。私に連絡してよ。
私の中の少女が怒っている。今にも私の中から飛び出して、大声で泣き喚いてポカポカと両手で叩きに行きそうになっている。
違う。飛び出そうとしてるんじゃない。これは私自身の衝動だ。
私は何も変わっていない。少女が心の何処かに居たんじゃない。今でも私は少女そのものなのだ。生涯二度と無いロマンスを懐かしみ、思い焦がれ、求めて止まない永遠の17歳の女子高生だ。
私をこんな風にした恋が憎い。そんな恋を植え付けた貴方はもっと憎い。
でも、別に良い。許してあげる。
だって……
私はくるりと振り返る。振り返れば二度と元には戻れないと直感しても、心が身体を突き動かしていた。
「今回は早めに来てくれたんですね。澤凪先輩」
両目から大粒の涙を流し、雲一つ無い真夏の太陽みたいな笑顔で私はそう言った。
ご愛読ありがとうございました。
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