第3話
率直に言えば、凛は澤凪のことが好きだった。人として好きとかそんなのではなく、異性として好いていた。
きっかけは中3の頃の部活動の集い。追い出し会で今のバイト先である飲食店に足を運んだことだった。注文を受けに来た当時高校3年生の澤凪とそこで初めて出会ったのだ。
透き通った声に大人びた佇まい、何処か達観したような雰囲気や、端正な顔立ち。その全てに一目で撃ち抜かれたのだ。
家から歩いてもほんの数分程度の場所でこんな運命の出会いがあったなんてと、舞い上がるような気分になったのをよく覚えている。
だから高校生になってからは部活動ではなくアルバイトを選んだ。お金の為ではない。少しでも多く好きな人と会いたくて、話していたくて。
ただ、その想いを伝えることは無かった。
一方的に話し掛けてアプローチする内に自分達なりの関係性を築くことが出来た自信はあった。だけどそれ以上に踏み込もうとするあと一歩の勇気がどうしても出せなかったのだ。
そんな「ぬるま湯」の中で1年が過ぎた内に、いつの間にかあの燃え上がるようなひた向きな想いさえ何処かに置き去りにしてしまっていた。
「はぁ……はぁ……」
ベッドの上で凛は身をよじる。
暑い。身体が内側から燃えている。閉じ込められていた恋が飛び出して、出口を求めて身体中で飛び跳ねている。
「澤凪先輩……」
遊園地での抱擁の温もりを思い出し、それが忘れていた筈の気持ちに引火している。熱い想いが今にも全身を焦がそうとしている。
「会いたい……先輩……」
もう一度この手で抱き締めたい。何もかもを曝け出してしまいたい。
もう後は無い。澤凪先輩は今日にも明日にも居なくなってしまうかもしれない。
今私を取り巻く全てが、真夏の太陽に当てられたチョコのように甘くどろどろと私の脳を溶かそうとしている。
こんなにも好きだった。こんなにも焦がれていた。知っていた筈なのに目を逸らし続けていた。こんな状況でやっと思い出すなんて。
この想いが叶わなくたっていいんだ。
いっそのこと、私が澤凪先輩の一部になってしまえば——
* * *
「これは何ですか?」
「イヌホオズキ。全国的に分布する植物なんだ」
凛は澤凪と緑地にある散歩道を歩いている。澤凪は意外にも植物に詳しいようで、道の両脇に咲く色んな植物の名前やその知識を披露してくれる。
遊園地でデートをした翌日も、澤凪は運良く捕まらずにいた。今日は午前中に水族館で遊び、食事をした後に昼からは緑地で散歩をしている。
「ふーん……何かブルーベリーみたいな実がなってますね」
真っ白に花を咲かせたイヌホオズキを凛はしゃがみ込んでじっと見る。その茎からは、飾りのように6つの小さな果実がたわわに実っている。
「食べない方がいいよ。こう見えてそいつ、有毒だから」
澤凪が一緒にしゃがみ込んで、イヌホオズキを見ながら言った。
「うげっ。こんな食べられそうな見た目してる癖に」
「だから"バカナス"って呼ばれてる」
「バカナス? バカって、馬に鹿って書いてのあの馬鹿ですか?」
「そう。馬に鹿で馬鹿、馬鹿ナス」
「えぇっ、それ本当に?」
「本当に。調べたら出て来るよ。ナスに似てるけど食べられなくて役に立たないからって」
「ふーん……うわっ、本当だ」
半信半疑で凛はスマホを取り出し、ネットでイヌホオズキを検索してみた。
「最初に名付けた人酷くないですか? 食べられる食べられないなんて人間都合ですよ」
「僕もそう思うよ。こんなに綺麗なのに馬鹿なんて名前は可哀想だ」
面白い知識が増えたな。
凛はそう思ってみるが、意識してそんな風に考えることで自分の気持ちを誤魔化していることに気が付く。
もう誤魔化せない。こんな状況でこれ以上自分に嘘は吐けない。
凛がその場で立ち上がり、歩き始めると澤凪もそれについて来た。
「澤凪先輩」
「何?」
「私は——」
心臓がドキドキする。頬の紅潮が耳にまで達して呼吸を荒くしてしまう。
澤凪先輩の顔を見ることが出来ない。今更この人はこんなにもイケメンだったのだと凛は気が付く。
「私は……今ものすごく幸せなんです」
その一言を口にするだけで膨大な精神力を要した。だが、一度言ってしまえば後は濁流のように言葉が溢れて来る。
「こうして澤凪先輩と他愛も無い会話をしながら一緒にいるだけで、凄く幸せな気持ちになれてるんです。澤凪先輩と一緒にいるとこの世界の誰よりも幸せだって感じちゃうんです。言ったら何ですけど、昨日も今日も私、絶対澤凪先輩より楽しいんです。……幸せなんです。澤凪先輩よりも」
熱に浮かされたように捲し立てる凛に、澤凪は理解が追い付かない様子である。返事を待つより前に、立ち塞がるみたいにして澤凪の前に立ち止まった。
「私を殺せますか?」
「え——」
凛は試すような視線で、真っ直ぐに澤凪を見つめる。
「自分より幸せな人間が憎いんですよね。じゃあ、私のことも殺してください」
私は酔っている。
世間を騒がす殺人犯と一緒にいるという、罪深いシチュエーションに。
「1人殺したんだから2人殺しても同じですよ」
私は恋をしている。
2年前のあの日から今日に至るまで、同じ人にずっと。
「ここなら森の中ですし死体は埋めれば終わりですよ」
私は人生の絶頂にいる。
「宮村……」
「さあ、私を殺してください。一思いに首を折ってもいいんです」
恋と背徳の渦に飲み込まれて、一生ここから出たくないと思える程の心地良い板挟み。きっとこの先生きてもこれ以上の悦びは無いと分かる。
「私、澤凪先輩になら……殺られちゃってもいいんです」
ならばこれ以上の人生はいらない。
幸せな生は幸せな死で終わらせたい。平凡な生よりも特別な死が欲しい。大好きな人に殺して貰えるという特別で甘美な死が。
「……」
澤凪の纏う空気が変わった。それは猛獣が獲物を見つけた際、殺意と牙を剥き出しにするのと似ている。
嗚呼——
そうか。
この人は本当に殺っちゃったんだ。
写真なんか見せられなくても分かる程の、生物としての本能が震え上がる何かを澤凪は解放したのだ。そしてそれはきっと、真っ当に生きて真っ当に死ぬだけでは絶対に手に入れることなど出来ないものだ。
澤凪の両手が凛の首にゆっくりと伸びる。殺意が全身の毛穴まで犯し尽くすかのように凛を取り込もうとしている。
怖い。怖い。身体の細胞の一片に至るまでが今直ぐ逃げろと悲鳴を上げている。
だけど心は身勝手な悦びに打ち震えている。逃げようとする肉体を心が羽交い絞めにして身動きを奪っている。
私の死が澤凪先輩の罪になろうとしている。そして私は澤凪先輩の罪として永遠に生き続けられる——
「——っ!?」
澤凪は何かの恐怖に取り憑かれたような顔をし、その直後片手で口を覆いその場で崩れ落ちる。
地面の上に胃の奥からせり上がった吐瀉物を吐き散らす。緑溢れる自然の力でも直ぐには浄化出来ない程の悪臭が立ち込め、両手を突いて何度も咳き込み始める。
「……無理だ」
そう口にすると、堰を切ったように澤凪の両目から涙が溢れ出る。激しい後悔を噛み潰すようにして歯を食い縛り、ギリリと音を立てる。
「僕は何てことを……母さん……僕は……僕は……母さん……」
まるで懺悔をするかのように澤凪は嗚咽と共に同じ言葉を繰り返している。
「——顔を上げてください」
凛は自分の足元に散らばった吐瀉物を気にする様子は無い。その場でしゃがみ込み、手の掛かる子供を見るような慈悲の籠った瞳で澤凪を見つめている。
澤凪先輩は期待した通りの血も涙も無い殺人鬼ではなかった。だから私を殺せなかったのだ。
だが凛にとって、そんなものは今更大きな問題ではない。
「ずっと好きでした、澤凪先輩」
どんな澤凪先輩であっても、その想いには変わりなど無いのだから。
凛は何の躊躇いも無く、澤凪の唇にそっとキスをする。吐瀉物の味がほんのりとする初めてのキスだった。




