第1話
「もしもし」
宮村凛のスマホに電話が掛かって来たのは夜も22時を回ってアルバイトが終わった頃であった。個室で丁度賄い飯を食べていた最中だったので、少し慌てて飲み込んだカレーがまだ口の中に残っている。
「え、何? ……ああ、昨日の」
電話越しにでも分かる程の震える声で、母は娘を心配している。
「……うん、うん。はーい、了解」
凛はそう言って通話を切り、テーブルの上にスマホを置いた。
「はー、過保護も困るなぁ」
「どうしたの? 宮村」
わざとらしく頬杖を突いた凛に、テーブルの向かい側に座る澤凪が反応した。
「んー? 昨日殺人事件があったじゃないですか。2丁目の。まだ犯人が逃走中で心配だから車で迎え行くって」
「……良い親御さんだね」
澤凪は目を合わせず呟くようにしてそう返す。バイトが始まる前でも終わった後でも変わらない、何処か悟ったような淡々とした調子である。
「けどウチってここから自転車で3分ですよ? 道も大通りだし。ちょっと心配し過ぎです。勿論そんなイカレやろーに会う確率は0じゃないですけど……無いでしょ。絶対」
そう言ってスプーンでカレーライスを掬って口に運んだ。
「……そのイカレ野郎が目の前にいたら?」
「はい?」
凛は思わず、食べながら聞き返す。
普段の澤凪であれば「そっか」とか「へぇ」とか言いながら喋り続ける凛に相槌を打つだけである。子供の話を聞いてくれる学校の先生のように穏やかな微笑みを時折湛えながら。
凛が話す内容は他愛も無い世間話や身の上話ばかりだったが、澤凪が聞き流しているようでちゃんと耳を傾ける性分であることを凛は知っている。
「えっと……」
凛は視線を逸らした。気まずい雰囲気に耐えられなくて、反射的に人差し指で頬を掻いていた。
返事に窮したままだが、澤凪は表情を変えないままじっと凛の顔を見ている。
「笑わなきゃいけない奴ですかね? これ」
困惑しつつ凛は質問を返す。
これ……何? シリアスな笑いって言うの?
はっきり言って全く面白くないし笑えない。少なくともあの澤凪先輩がこんなつまらないジョークを返して来るのは予想外だった。
すると、澤凪は何も言わずにそっと目の前に画面を表にしたスマホを凛の前へ差し出した。
「ひっ——!」
画面いっぱいに表示された画像を見て、凛は一気に血の気が引いた。反射的に個室の壁が背中に当たるまで後ずさり、冷たい壁の感触が背筋を凍らせる。
スマホに写っていた画像は—— 血溜まりの上でうつ伏せに倒れている金髪の男。片側だけ見える瞳に生気は無く、画面越しにでも分かる程の生々しい人間の死がそこにはあった。
「う……そ……。うぷっ!? んっ……ぐっ……」
胃の奥から吐瀉物がせり上がる。凛はそれを喉の途中で必死に留め、唾を飲み込むのと一緒に無理やり押し戻した。食べたばかりで消化を待つだけのカレーの悪臭が喉から鼻を抜けたが、それに思考を巡らせている場合ではない。
澤凪はいつもみたいに貼り付けたような無表情を崩さないでいる。普段から必要最低限のことしか喋らず、自分のことも聞かれない限りは話そうとしない。端正な顔立ちも相俟って物憂げな魅力を常に醸していたが……今はそれら全てが得体の知れない恐怖の構成要素となって、1人の殺人犯を凛の目の前で形作っている。
「何……する……つもり……ですか……?」
上手く声が出せない。足が震え、この場で直ぐに逃げることも出来ない。まるで走馬灯のように恐ろしい想像が無数に脳裏を掠める。人間は本当に恐怖すると涙さえ出ないようだ。
お父さん、お母さん、ごめんね。心の中で大切な人達に懺悔しながら、凛は澤凪の次の言葉或いは行動を待つしかなかった。
「通報して欲しい」
「……は?」
「宮村には何もしないよ。だから……この場で通報して欲しいんだ」
一転、澤凪は申し訳なさそうに目を伏せる。普段から見てるので分かる。彼なりの誠意を込めて申し訳ないと思ってる時の顔と雰囲気である。
「……何、それ」
「え」
先程まで凛の全身を支配していた氷のように凍て付く恐怖は一瞬にして溶けて流れた。代わりにぐつぐつと煮えたぎるような怒りが胃の奥から湧き上がる。
今直ぐ掴み掛かりたいと思える程の衝動が筋肉を動かしそうになるが、理性で抑え込む。
何もしない? ご飯食べてる最中に無修正のグロ画像を見せ付けておいて何もしないは無いでしょ。もうとっくに「やった」じゃん。
凛は怒りの籠った双眸でぎらりと澤凪を睨み付ける。
「捕まりたいなら自分で警察行ってよ。私を巻き込まないで」
周りに気付かれるように大声で叫んでもよかったけど、敢えて抑えて澤凪にだけ聞こえるように言い放つ。だが、凛の気はそれだけでは収まらない。
「この……イカれ野郎」
何をされるのか分からない。だが、言ってやらないと気が済まなかった。
7割の怒りと、再び頭をもたげた3割の恐怖で心臓が跳ねるように脈打った。獣のような荒い呼吸が肩を上下させている。窮鼠猫を噛む、とまでは行かないかもしれないが、目の前のふざけた殺人者に対するせめてもの抵抗とも言えた。
「——そうだよな」
澤凪は静かにそう言うと、まだ1/3程残った賄いをおぼんに乗せる。
「ごめん」
澤凪はバッグを肩に掛け、おぼんを持ってゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ」
「待って!」
凛はその場で立ち上がり、澤凪を静止した。
凛は知っている。澤凪は普段、食事を米粒1つとして残さないということを。苦手な物でも多少無理して食べるということを。
よってこれは異常事態である。つまり、彼がこのまま本当に警察へ出頭しようとしているということだ。
「あの……」
自分でもよく分からない。何故こんなことをしているのか。今しがた怒りを込めて警察に行けと言ったのは凛自身である。さっきまでの怒りも恐怖もとうに消え失せ、普段の先輩と後輩という関係性で育んで来た親しい思いが戻っているのだ。
このまま澤凪先輩が自分の前からいなくなると思うと……急に胸がざわついたのだ。感情の乱高下を制御するのは高校2年生の凛にはまだ難しかった。
唾をごくりと飲み込み、凛は澤凪に向けた言葉を繋げる。
「明日休みですよね?」
「そう、だけど」
澤凪はやや困惑したように返事を返す。
「一緒に……デートしませんか?」
凛の胸の奥が、不安と高揚の狭間で静かに脈を打っている。まるで侵入禁止エリアへ大人の目を盗んで足を踏み入れる子供のような、背徳的な期待感が確かに凛の胸を満たしていた。




