94 医に背く者
そこはまるで別世界のようだった。
秘園と呼ばれるその場所には、蒼霖国でも最も珍しい薬草が整然と並べられていた。巨大な温室のように作られたその空間は、外界と完全に隔離されており、空気には微かに血の匂いが混じっていた。
奥にある黒紅に染まった蓮池が異様な存在感を放っていた。蓮はその蓮池に近づき、ゆっくりと屈み込んで水面を覗き込む。
「この蓮、普通の雪蓮とは違いますね。」
シアンは隣へと歩み寄り、口元に微笑を浮かべる。「これはね、雪蓮が適応した結果だ。ある《《特別な養分》》を与えることで、より強力な薬効を持つようになる。」
「それは……血では?」蓮の声には冷静さが滲んでいた。
「その通りです。まさしく『血蓮』だ。」シアンはどこか誇らしげに言い放つ。「医者ならわかるはずだよ。薬とは、時に《《犠牲》》の上に成り立つものだ。」
その一瞬、蓮の頭の中で無数の可能性が巡った。だが、そのどれもがあまりにも悲惨で、恐ろしいものばかりだった。
シアンに別れを告げた後、彼はそのまま屋敷を出るふりをし、こっそりと薬園の禁区へと忍び込んだ。
湿った空気の中を進むと、庭の奥にある厳重な扉が目に入る。鉄格子に守られたその場所は、他の薬草とは明らかに異なる管理がされていた。蓮は息を殺し、慎重に周囲を確認しながら扉を開く。
次の瞬間、鼻を突く鉄の匂いが襲いかかった。
扉の向こうには、巨大な貯水槽があった。だが、そこに溜まっていたのは普通の水ではなかった。蓮の目が暗紅色の液体を捉える。
——それは、すべて血だった。
ほのかに残る鉄臭さ。それは間違いなく、人の血だった。
全身を駆け巡る冷たい戦慄を抑えながら、蓮はさらに奥へと進んだ。
薬園の裏手に、もう一つ扉があった。小さな錠前がかかっていたが、施錠は甘い。道具を使えば、簡単に開きそうだった。
「……何を隠している?」
細心の注意を払いながら、蓮は鍵を外し、扉を押し開けた。
——そこに広がっていたのは、まさに地獄だった。
薄暗い地下室には、数え切れぬほどの血袋が並んでいた。容器の中には暗い赤が詰まり、それぞれに「薬用血」と書かれた札がぶら下がっている。壁にはびっしりと記録が刻まれていた。
「賤民営」「戦俘」「辺境」
蓮は息を呑み、目を凝らす。指先が、ある最新の記録に触れる。「辺境」
一瞬、頭が真っ白になった。
凛凛が話していた、あの辺境……?
つまり——
これは、単なる虐殺ではない。
血を集めるための、計画的な屠殺だった。
ただの鎮圧ではない。
ただの粛清ではない。
人の命そのものが、血蓮を育てるための供物だった。
蓮の指先が震えた。
これは、絶対に国家規模の計画だ。
戦争ではない。供物を捧げるための儀式だ。
——もしかして、かつての白瀾国の辺境も?
あるいは、雪華国の滅亡さえも……?
蓮の中で、怒りと震撼が沸き上がる。
今まで目の前で起こっていた悲劇は、単なる侵略の影ではなかった。
それは、もっと深く歪んだ、血で結ばれた交易の一環だった。
そして、王国そのものが絡んだ、途方もなく巨大な闇だった。
夜の帳が降りる頃、蓮は長明堂へと戻ってきた。
扉を開くと、灯火のもとで待っていたのは凛音だった。彼女の真っ黒の髪が微かに揺れ、その青色の瞳が蓮の顔を見つめた。
「……おかえり。」
蓮は、その言葉に答えなかった。
「この貴族を、生かしておくわけにはいかない。」
その声は、氷のように冷たい怒りを孕んでいた。
蓮のこんな表情を見るのは初めてではない。
しかし、今日の彼はいつにも増して感情を押し殺していた。
「……シアンのこと?」
蓮は黙って頷いた。そして、深く息を吐くと、拳を強く握りしめる。
「これがただの悪徳商人の仕業なら、まだ話は違った。だが、奴は戦場を利用し、虐殺を正当化し、血を薬として取引している。そんなもの……見過ごせるわけがない。」
その声には、医師としての信念と、人としての怒りが入り混じっていた。
「私は奴の側に付き続け、さらに証拠を集める。血蓮の流通経路を突き止め、その背後にどんな政治的な陰謀が潜んでいるのか探る。全てが明らかになったとき——そのときこそ、終わりにする。」
蓮の目には冷徹な光が宿っていた。
だが、凛音はただ静かに彼を見つめていた。
「……そう。」
蓮は凛音が何を考えているのか、すぐに察した。
彼女は望月公会の一員であり、亡国の王女。
そして今は——彼にとって、かけがえのない存在だた。
凛凛に、これ以上血に塗れてほしくはない。
いつか、一緒に平和に過ごせる日が来ることを願っている。
だが、目の前で苦しむ民を無視することもできない。
そして、彼女の決意を、私が止めることなどできない。
「凛凛、今回は、私もただ見ているだけじゃない。」
蓮には、血に塗れてほしくない。
蓮はいつも賢くて、優しくて、正しい人だ。
どれほどの努力を重ねて、医者になったの?
そんな蓮に、人を殺してほしくない。
「いいえ、私が殺すわ。シアンの背後にどんな勢力があろうと、奴を生かしておく理由はない。」
「だが、ただの暗殺じゃつまらないでしょう?」
凛音はすっと懐から小さな薬瓶を取り出した。
「毒で決着をつける。」
「シアンも、医者なら毒には詳しいはず。」
「……だからこそ、毒で仕留める。」
蓮は彼女の意図を理解した。
——人を救うはずの者が、人を捨てる。これほど皮肉なことがあるか?
そんな者が、果たして医者と呼べるのか。
「ここからは、ただの暗殺じゃない——勝負よ。」
長明堂の灯火がゆらめく。
やがて、この国の「神医」と呼ばれる男を巡る、命を賭けた毒の勝負が幕を開ける。
「雪蓮」と「血蓮」は、日本語では異なるが、中国語では同じ発音となる。シアンが意図的にこの同音を利用し、雪華国の象徴である雪蓮を「血蓮」に変えることで、その誇りを冒涜する行為として描かれている。これは単なる植物の変異ではなく、雪華国に対する最大の侮辱であり、凛音たちにとっては決して許されるものではなかった。




