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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第七章:潜みし龍、今は待つ時
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94 医に背く者

そこはまるで別世界のようだった。


秘園と呼ばれるその場所には、蒼霖国でも最も珍しい薬草が整然と並べられていた。巨大な温室のように作られたその空間は、外界と完全に隔離されており、空気には微かに血の匂いが混じっていた。


奥にある黒紅に染まった蓮池が異様な存在感を放っていた。蓮はその蓮池に近づき、ゆっくりと屈み込んで水面を覗き込む。

「この蓮、普通の雪蓮とは違いますね。」


シアンは隣へと歩み寄り、口元に微笑を浮かべる。「これはね、雪蓮が適応した結果だ。ある《《特別な養分》》を与えることで、より強力な薬効を持つようになる。」


「それは……血では?」蓮の声には冷静さが滲んでいた。


「その通りです。まさしく『血蓮』だ。」シアンはどこか誇らしげに言い放つ。「医者ならわかるはずだよ。薬とは、時に《《犠牲》》の上に成り立つものだ。」


その一瞬、蓮の頭の中で無数の可能性が巡った。だが、そのどれもがあまりにも悲惨で、恐ろしいものばかりだった。


シアンに別れを告げた後、彼はそのまま屋敷を出るふりをし、こっそりと薬園の禁区へと忍び込んだ。

湿った空気の中を進むと、庭の奥にある厳重な扉が目に入る。鉄格子に守られたその場所は、他の薬草とは明らかに異なる管理がされていた。蓮は息を殺し、慎重に周囲を確認しながら扉を開く。


次の瞬間、鼻を突く鉄の匂いが襲いかかった。

扉の向こうには、巨大な貯水槽があった。だが、そこに溜まっていたのは普通の水ではなかった。蓮の目が暗紅色の液体を捉える。


——それは、すべて血だった。

ほのかに残る鉄臭さ。それは間違いなく、人の血だった。


全身を駆け巡る冷たい戦慄を抑えながら、蓮はさらに奥へと進んだ。

薬園の裏手に、もう一つ扉があった。小さな錠前がかかっていたが、施錠は甘い。道具を使えば、簡単に開きそうだった。


「……何を隠している?」

細心の注意を払いながら、蓮は鍵を外し、扉を押し開けた。


——そこに広がっていたのは、まさに地獄だった。


薄暗い地下室には、数え切れぬほどの血袋が並んでいた。容器の中には暗い赤が詰まり、それぞれに「薬用血」と書かれた札がぶら下がっている。壁にはびっしりと記録が刻まれていた。

「賤民営」「戦俘」「辺境」


蓮は息を呑み、目を凝らす。指先が、ある最新の記録に触れる。「辺境」


一瞬、頭が真っ白になった。


凛凛が話していた、あの辺境……?


つまり——


これは、単なる虐殺ではない。

血を集めるための、計画的な屠殺だった。


ただの鎮圧ではない。

ただの粛清ではない。

人の命そのものが、血蓮を育てるための供物だった。


蓮の指先が震えた。


これは、絶対に国家規模の計画だ。

戦争ではない。供物を捧げるための儀式だ。

——もしかして、かつての白瀾国の辺境も?

あるいは、雪華国の滅亡さえも……?


蓮の中で、怒りと震撼が沸き上がる。


今まで目の前で起こっていた悲劇は、単なる侵略の影ではなかった。

それは、もっと深く歪んだ、血で結ばれた交易の一環だった。

そして、王国そのものが絡んだ、途方もなく巨大な闇だった。


夜の帳が降りる頃、蓮は長明堂へと戻ってきた。


扉を開くと、灯火のもとで待っていたのは凛音だった。彼女の真っ黒の髪が微かに揺れ、その青色の瞳が蓮の顔を見つめた。

「……おかえり。」


蓮は、その言葉に答えなかった。


「この貴族を、生かしておくわけにはいかない。」

その声は、氷のように冷たい怒りを孕んでいた。


蓮のこんな表情を見るのは初めてではない。

しかし、今日の彼はいつにも増して感情を押し殺していた。

「……シアンのこと?」


蓮は黙って頷いた。そして、深く息を吐くと、拳を強く握りしめる。

「これがただの悪徳商人の仕業なら、まだ話は違った。だが、奴は戦場を利用し、虐殺を正当化し、血を薬として取引している。そんなもの……見過ごせるわけがない。」


その声には、医師としての信念と、人としての怒りが入り混じっていた。


「私は奴の側に付き続け、さらに証拠を集める。血蓮の流通経路を突き止め、その背後にどんな政治的な陰謀が潜んでいるのか探る。全てが明らかになったとき——そのときこそ、終わりにする。」

蓮の目には冷徹な光が宿っていた。


だが、凛音はただ静かに彼を見つめていた。

「……そう。」


蓮は凛音が何を考えているのか、すぐに察した。

彼女は望月公会の一員であり、亡国の王女。

そして今は——彼にとって、かけがえのない存在だた。


凛凛に、これ以上血に塗れてほしくはない。

いつか、一緒に平和に過ごせる日が来ることを願っている。

だが、目の前で苦しむ民を無視することもできない。

そして、彼女の決意を、私が止めることなどできない。


「凛凛、今回は、私もただ見ているだけじゃない。」


蓮には、血に塗れてほしくない。

蓮はいつも賢くて、優しくて、正しい人だ。

どれほどの努力を重ねて、医者になったの?

そんな蓮に、人を殺してほしくない。


「いいえ、私が殺すわ。シアンの背後にどんな勢力があろうと、奴を生かしておく理由はない。」


「だが、ただの暗殺じゃつまらないでしょう?」

凛音はすっと懐から小さな薬瓶を取り出した。

「毒で決着をつける。」


「シアンも、医者なら毒には詳しいはず。」

「……だからこそ、毒で仕留める。」


蓮は彼女の意図を理解した。


——人を救うはずの者が、人を捨てる。これほど皮肉なことがあるか?

そんな者が、果たして医者と呼べるのか。


「ここからは、ただの暗殺じゃない——勝負よ。」


長明堂の灯火がゆらめく。


やがて、この国の「神医」と呼ばれる男を巡る、命を賭けた毒の勝負が幕を開ける。




雪蓮セツレン」と「血蓮ケツレン」は、日本語では異なるが、中国語では同じ発音となる。シアンが意図的にこの同音を利用し、雪華国の象徴である雪蓮を「血蓮」に変えることで、その誇りを冒涜する行為として描かれている。これは単なる植物の変異ではなく、雪華国に対する最大の侮辱であり、凛音たちにとっては決して許されるものではなかった。


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