93 血に染まる蓮
望月公会から渡された暗殺名簿には、たった一つの名しか記されていなかった——シアン。筆跡は力強く、まるで書き手の殺意がまだ宿っているかのようだった。
「この男は表向きは目立たないが、莫大な財を持ち、薬材の商いを生業としている。特に、宮廷に献上される御薬の供給を一手に担っているそうだ。この数日間の調査によると、彼は単なる名もなき貴族ではない。むしろ、蒼霖国が誇る『神医』と称えられている。」清樹は机の上に広げられた巻物をめくりながら、低い声で語った。
長明堂の中、揺らめく灯火が木の机に落ちた紙を照らし、その影が静かに揺れていた。蓮は指先で名簿をなぞり、わずかに息を吐いた。
「この世に本物の神医など存在しない。すべてを治せる医者?それこそが何より怪しい。」
「そうだな、私もそう思っていた。」清樹は軽く頷き、指先で机をコツコツと叩く。「だから、彼が治したとされる者たちの行く末を調べてみた。ほとんどが、一年、いや半年もしないうちに安らかに息を引き取っている。もともと重病だったせいで、誰も不審に思わなかったようだが……偶然にしては出来すぎている。」
「……それで、雪華国との関係は?」凛音が視線を上げ、問いかける。
清樹は一瞬考え込んだが、やがて首を横に振った。「ない。少なくとも、俺が調べた限りでは。爵位もなければ、朝廷との強い繋がりもない。過去に蒼霖国を出た記録すら見つからなかった。」
「クラウスが言っていた……望月公会は無辜の者を斬ったことはない。ならば、潜入して調べてみるべきかもしれない。彼が一体何を隠しているのか。」
すると、蓮が軽く笑った。低く、けれど確固たる響きを持った笑いだった。「凛凛、あなたは玄武の調査に専念してほしい。この神医とやらは、私が直接会いに行く。」
灯火の揺らぎとともに、蓮の唇がわずかに吊り上がった。その瞳の奥には、一抹の狡猾さが滲んでいる。かつての彼は、常に何かに怯え、慎重に身を潜めることしかできなかった。だが、今の彼は違う。
凛音と心を通わせた瞬間から、その内に潜んでいたものが目覚めた。もはや怯えはない。慎重さを残しつつも、恐れずに前を見据え、闇の中でさえ微笑みを浮かべる。獲物を狙う狩人のように、彼の眼差しには研ぎ澄まされた鋭い光が宿っていた。
翌日、蓮は医師としての身分を名乗り、シアンの屋敷を訪れた。
「長明堂の医師、洛白と申します。先生のご高名は、かねてより伺っております。お慈悲深く、卓越した医術をお持ちだと。ぜひお目にかかりたく存じます。」
屋敷の門前で護衛が蓮を値踏みするように見つめた。だが、何者かが小声で指示を出すと、護衛はすぐに道を開け、恭しく手を差し出した。蓮の目がわずかに細まる。どうやら、シアンはすでに私の存在を知っており、訪問を予期していたようだ。
屋敷の内部は派手さこそないが、品のある造りだった。曲がりくねった廊下を進み、蓮は奥の間へと案内される。シアンの姿はまだ見えない。侍者が茶を運び、医道にまつわる他愛のない話を振ってきた。まるで蓮の目的を探るかのようだったが、蓮は終始穏やかな態度を崩さず、無駄なことは何ひとつ口にしなかった。
やがて、屏風の向こうから落ち着いた声が響く。
「長明堂の洛先生が、直々にお越しくださるとは。少々驚きました。」
屏風がゆっくりと開かれ、一人の男が姿を現した。広い袖の深衣をまとい、年のころは五十ほど。黒髪は半ばまで結われているが、鬢には白いものが混じっている。顔には常に穏やかな微笑を浮かべ、一見すると温厚に見えるが、その奥に、どこか作り物めいたものが漂っていた。
蓮は静かに立ち上がり、手を軽く合わせて礼を取る。
「ご高名はかねてより伺っております。私は長年医を学び、最近ようやく蒼霖に根を下ろしました。この地で活躍されている先生と、一度お話をさせていただきたく存じます。本日はわずかながら、珍しい薬材を持参いたしました。もしよろしければ、ぜひともご教示を賜りたく。」
シアンは穏やかに微笑みつつも、蓮の手元の薬箱に視線を向ける。
「長明堂の処方箋は、最近評判を耳にしております。一体、どのようなお薬をお持ちになったのか、楽しみですね。」
蓮は表情を崩さぬまま、薬箱を開く。数枚の処方箋を静かに卓上へと差し出した。
「どれも養生のための処方です。気血を整え、瘀血を取り除くものが主です。先生ほどの医師であれば、一目見ただけでその妙を理解されるでしょう。」
シアンは軽く頷き、処方箋に目を落とした。さらりと数枚をめくる。しかし、その指先がある一枚の上でぴたりと止まった。彼の表情はわずかに変わり、指先でその処方箋を軽く叩く。
「洛白様が、雪蓮花を手にしているとは……?」
——やはり、雪蓮花に対して特別な関心を持っている。
蓮の予想は的中していた。シアンが医師でありながら雪華国の滅亡に関与していると知ったとき、真っ先に浮かんだのは雪蓮花だった。ただ、今はまだ真相が見えぬ以上、凛音を無駄に悲しませるわけにはいかない。
蓮は微笑を浮かべ、変わらぬ落ち着いた口調で答えた。
「ええ。かつて雪華国を訪れた際、偶然にも雪洞に落ちましてね。そこで、たまたま雪蓮花を発見しました。」
それは半ば本当であり、半ば嘘でもあった。雪蓮花の本質をシアンがどこまで知っているのか——その答え次第で、この男が潔白かどうかが決まる。
シアンは茶碗を持ち上げ、ゆっくりと口元へ運ぶ。そして、さりげない口調で問いかけた。
「では、先生は、この花が血を糧に育つことをご存知でしょうか?」
その瞬間、蓮の指先がほんのわずか、微細な動きを見せた。
——凛音のことを知っているのか? それとも……?
だが、表情には一切の動揺を見せず、蓮は微笑みを保ったまま静かに答える。
「医術の世界は奥深いもので、世には様々な薬草が存在します。血を養うものも珍しくはありません。ただ、この件については軽々しく申し上げるべきではないかと存じます。」
「隠さずに、お聞かせ願えませんか?」シアンは唇の端をわずかに吊り上げ、楽しげに蓮を見つめた。
「雪蓮花は、雪華国の象徴とも言われる花。伝説によれば、王族の血でなければ育たないとされていますが……?」
「その話、確かに一理あります。ただ……」
シアンは意味ありげに笑いながら、蓮をじっと見つめた。そして、ゆっくりと茶碗を置き、ゆるやかに口を開く。
「洛先生、ご興味があれば、裏庭へご案内いたしましょう。ちょうど私の薬園には、珍しい薬草がいくつかありますのでね。」
ここからが本番か。
蓮は瞳の奥に僅かな冷たさを宿しつつも、それを見せることなく、ごく自然な微笑を浮かべた。
「それは楽しみです。では、ぜひ案内をお願いしましょう。」
——裏庭へ足を踏み入れた瞬間、黒紅に染まった蓮池が目に飛び込んできた。池の中では鮮やかな深紅の蓮が咲き誇り、妖艶な色合いを放っている。その周囲には、かすかに血の匂いが漂っていた。




