90 決して消えない
月の下、血にまみれた軍営には、凛音、クリス、クラウスの三人だけが残されていた。
「クリス様、これからどうなさるおつもりですか?」
「私は……ここに残る。」
「クリス、ここにはもう何も残っていないぞ。」
「クラウス殿下、凛音様、この度のご恩、心より感謝いたします。しかし——」
クリスはゆっくりと膝をつき、深々と頭を下げる。その声には、確固たる決意が滲んでいた。
「ここは、すでに私の故郷となりました。私はこの地に残り、生き残った部下たちと共に復興に尽力し——そして、死者たちの記憶と共にここで生きるのです。」
凛音は慌てて歩み寄り、クリスの腕を取り、そっと囁いた。
「クリス様……逝きし者は春の花のように儚く散る。ですが、その想いは、生きる者の胸に息づき、決して消えはしません。」
クリスはふっと微笑み、ゆっくりと立ち上がると、力強く凛音の手を握る。
その手の温もりには、無言の感謝が込められていた。
「凛音様、一つ、話を聞いていただけますか?」
彼は遠くの夜空を見つめながら、懐かしそうに語り始める。
「昔、一人の少年がいた。正義感の強さゆえに疎まれ、辺境へと左遷された。
本来ならば、祖国のために命を賭すべき年頃。
だが、意気揚々と燃えていた志は打ち砕かれ、ここでの暮らしに鬱々と沈んでいた。
しかし——この地で、彼は愛する女性に出会った。
歩き慣れぬ道も、知らぬ間に心地よい景色へと変わっていった。
菓子屋の老女は、いつも温かく迎え入れ、彼のために菓子を焼いてくれた。
最初は警戒していた味も、いつしか“家”の味になっていた。
地べたを這い回っていた子供たちは、やがて逞しい漁師となった。
この地には、王都の冷たい権謀術数も、権力争いもない。
あるのは、人の温もりと絆。
——そんな場所を、誰が簡単に手放せるだろうか?」
クリスの瞳には涙はなかった。しかし——
クラウスの目からは、気づかぬうちに涙が零れ落ち、
凛音は目を伏せ、頬を伝う涙を拭うこともせず、ただ夜風に任せた。
数日後、紫の薔薇の印が押された金色の招待状が、ひそやかに長明堂へと届けられた。
「蓮様、本当に行かれるのですか?宴は蒼霖国の宮廷にて催されるのですよ……」
「私は洛白として世に立っているが、この世に漏れぬ秘密などない。来たるものは拒まず、ならば、受け入れるまで。」
蓮はすみやかに身支度を整え、ゆるりと紙扇を開く。そして、蒼霖国の皇宮へ向けて歩を進めた。
彼が纏う衣は、蒼霖国のものではない。
己の出自を隠すことなく、堂々と白瀾国の衣を選んだ。
淡い青緑の布地に、流れる雲と飛び交う鶴が、繊細かつ優雅な刺繍で描かれている。
美しい銀細工の簪が、長い黒髪をそっと留めていた。
——どう見ても、蓮殿下だった。
「あら、蓮殿下、今日は隠すつもりがないのですね。」
蓮が宴の内庭へ足を踏み入れるや否や、鮮やかな紅の華やかな衣を纏ったアミーリアが優雅に歩み寄ってきた。
「ああ、アミーリア、お久しぶりです。」
「蓮殿下、蒼霖国を訪れながら、元婚約者の私に知らせもなくとは、ずいぶん冷たいですわね。」
アミーリアは蓮をじっくりと眺めながら、くすくすと笑う。
「ああ、違いましたね。今のあなたをどうお呼びすればよろしいのでしょう?白瀾国の——元皇帝陛下?」
彼女の唇が艶然と微笑を描く。
「ふふ……元皇帝が、元婚約者の国で悠々と医館を開くとは。これほど愉快な話、滅多にありませんわ。」
「……すまない。」
蓮は深く頭を下げ、真摯な声で謝罪した。
「私はただ、凛音を探していただけだ。」
——突然の謝罪に驚いたのか、それとも、彼の真摯な態度に心を動かされたのか。
アミーリアはしばし沈黙し、やがて穏やかに言った。
「……ええ、わかっているわ。私も彼女を探していたのだから。」
「やはり、ここに来ていたのか?」
「いいえ、残念ながら……彼女は私のもとへは来なかったわ。」
アミーリアは静かに視線を落としながら、霖月商会で凛音が自ら贈った首飾りを見かけたこと、そして賤民営へ足を運んだものの、彼女を見つけられなかったことを蓮に語った。
「賤民営は酷いが、あの女神医は間違いなく凛凛だ。彼女なら……大丈夫だ。」
凛凛……また辛抱をかけたな。
この時、クラウスと彼の「口のきけぬ」護衛が、ゆるりと宴の間へと足を踏み入れた。
「蓮、久しぶりだな。噂を聞いて、足を運んだよ。」
クラウスは相変わらず気だるげな笑みを浮かべた。
「噂と言えば——」
蓮は手にした紙扇を軽く閉じ、クラウスへと視線を向ける。
「私も聞いていますよ。クラウス殿下が、突然教養院を設立し始めたとか。」
彼の唇がわずかに弧を描く。
「それは、殿下の流儀にしては随分と意外なことですな?」
「そうかな。こう見えても、俺、結構民を愛してるんだぜ。」
クラウスは軽く肩をすくめ、その飄々とした態度は、誤魔化す気満々だった。
蓮はそれを見て、ふっと小さく笑う。もちろん、彼も全て分かっている。
——そして、その背後で。
クラウスの護衛として佇む凛音の胸中には、張り詰めるような痛みが広がっていた。
あの日、天灯の下で交わした口づけ。
それが別れの前兆だなんて、考えもしなかった。
私の想いが、祝福されるはずもない。
……当然だ。私は亡国の王女、血の宿命に囚われた身。
それなのに、なぜ……あの瞬間、彼だけを目に焼きつけてしまったのか。
この時、蓮もまた、クラウスの背後に立つ凛音を目にした。
短く切り揃えられた髪、深く被ったフード、顔に散るそばかす——それでも、その瞳だけは間違いなく凛凛だった。
蓮は迷うことなく歩み寄り、凛音の手首を引き寄せると、そのまま宴会の外へと歩き出した。
「殿下、一体何をなさっているの?」
アミーリアの声が背後から響く。
しかし、蓮は一度も振り返ることなく、ただ静かに歩を進める。
凛音もまた、彼の手を振りほどこうとはしなかった。
アミーリアが追いかけようとしたその瞬間——
「……もういい。」
クラウスは低く告げると、すっと手を伸ばし、アミーリアの行く手を遮った。その表情には、どこか達観したような、あるいは諦めにも似た静けさがあった。
アミーリアは不満げに唇を噛むが、クラウスの眼差しを見て、結局、追うのをやめた。
一方、蓮は凛音の手を引いたまま、宮殿の廊下を歩き続ける。
彼の手の温もりは、強く、しかしどこか震えていた。
「……蓮。」
凛音が小さく呟く。
蓮はただ、凛音の手を離さずに歩き続けた。




