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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第七章:潜みし龍、今は待つ時
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90 決して消えない

月の下、血にまみれた軍営には、凛音、クリス、クラウスの三人だけが残されていた。


「クリス様、これからどうなさるおつもりですか?」

「私は……ここに残る。」

「クリス、ここにはもう何も残っていないぞ。」


「クラウス殿下、凛音様、この度のご恩、心より感謝いたします。しかし——」

クリスはゆっくりと膝をつき、深々と頭を下げる。その声には、確固たる決意が滲んでいた。

「ここは、すでに私の故郷となりました。私はこの地に残り、生き残った部下たちと共に復興に尽力し——そして、死者たちの記憶と共にここで生きるのです。」


凛音は慌てて歩み寄り、クリスの腕を取り、そっと囁いた。

「クリス様……逝きし者は春の花のように儚く散る。ですが、その想いは、生きる者の胸に息づき、決して消えはしません。」


クリスはふっと微笑み、ゆっくりと立ち上がると、力強く凛音の手を握る。

その手の温もりには、無言の感謝が込められていた。


「凛音様、一つ、話を聞いていただけますか?」


彼は遠くの夜空を見つめながら、懐かしそうに語り始める。


「昔、一人の少年がいた。正義感の強さゆえに疎まれ、辺境へと左遷された。

本来ならば、祖国のために命を賭すべき年頃。

だが、意気揚々と燃えていた志は打ち砕かれ、ここでの暮らしに鬱々と沈んでいた。

しかし——この地で、彼は愛する女性に出会った。

歩き慣れぬ道も、知らぬ間に心地よい景色へと変わっていった。

菓子屋の老女は、いつも温かく迎え入れ、彼のために菓子を焼いてくれた。

最初は警戒していた味も、いつしか“家”の味になっていた。

地べたを這い回っていた子供たちは、やがて逞しい漁師となった。

この地には、王都の冷たい権謀術数も、権力争いもない。

あるのは、人の温もりと絆。


——そんな場所を、誰が簡単に手放せるだろうか?」


クリスの瞳には涙はなかった。しかし——

クラウスの目からは、気づかぬうちに涙が零れ落ち、

凛音は目を伏せ、頬を伝う涙を拭うこともせず、ただ夜風に任せた。


数日後、紫の薔薇の印が押された金色の招待状が、ひそやかに長明堂へと届けられた。


「蓮様、本当に行かれるのですか?宴は蒼霖国の宮廷にて催されるのですよ……」

「私は洛白として世に立っているが、この世に漏れぬ秘密などない。来たるものは拒まず、ならば、受け入れるまで。」


蓮はすみやかに身支度を整え、ゆるりと紙扇を開く。そして、蒼霖国の皇宮へ向けて歩を進めた。


彼が纏う衣は、蒼霖国のものではない。

己の出自を隠すことなく、堂々と白瀾国の衣を選んだ。

淡い青緑の布地に、流れる雲と飛び交う鶴が、繊細かつ優雅な刺繍で描かれている。

美しい銀細工の簪が、長い黒髪をそっと留めていた。


——どう見ても、蓮殿下だった。


「あら、蓮殿下、今日は隠すつもりがないのですね。」

蓮が宴の内庭へ足を踏み入れるや否や、鮮やかな紅の華やかな衣を纏ったアミーリアが優雅に歩み寄ってきた。

「ああ、アミーリア、お久しぶりです。」


「蓮殿下、蒼霖国を訪れながら、元婚約者の私に知らせもなくとは、ずいぶん冷たいですわね。」

アミーリアは蓮をじっくりと眺めながら、くすくすと笑う。

「ああ、違いましたね。今のあなたをどうお呼びすればよろしいのでしょう?白瀾国の——元皇帝陛下?」

彼女の唇が艶然と微笑を描く。

「ふふ……元皇帝が、元婚約者の国で悠々と医館を開くとは。これほど愉快な話、滅多にありませんわ。」


「……すまない。」

蓮は深く頭を下げ、真摯な声で謝罪した。

「私はただ、凛音を探していただけだ。」


——突然の謝罪に驚いたのか、それとも、彼の真摯な態度に心を動かされたのか。

アミーリアはしばし沈黙し、やがて穏やかに言った。

「……ええ、わかっているわ。私も彼女を探していたのだから。」


「やはり、ここに来ていたのか?」

「いいえ、残念ながら……彼女は私のもとへは来なかったわ。」

アミーリアは静かに視線を落としながら、霖月商会で凛音が自ら贈った首飾りを見かけたこと、そして賤民営へ足を運んだものの、彼女を見つけられなかったことを蓮に語った。


「賤民営は酷いが、あの女神医は間違いなく凛凛だ。彼女なら……大丈夫だ。」

凛凛……また辛抱をかけたな。


この時、クラウスと彼の「口のきけぬ」護衛が、ゆるりと宴の間へと足を踏み入れた。


「蓮、久しぶりだな。噂を聞いて、足を運んだよ。」

クラウスは相変わらず気だるげな笑みを浮かべた。


「噂と言えば——」

蓮は手にした紙扇を軽く閉じ、クラウスへと視線を向ける。

「私も聞いていますよ。クラウス殿下が、突然教養院を設立し始めたとか。」


彼の唇がわずかに弧を描く。

「それは、殿下の流儀にしては随分と意外なことですな?」


「そうかな。こう見えても、俺、結構民を愛してるんだぜ。」

クラウスは軽く肩をすくめ、その飄々とした態度は、誤魔化す気満々だった。

蓮はそれを見て、ふっと小さく笑う。もちろん、彼も全て分かっている。


——そして、その背後で。

クラウスの護衛として佇む凛音の胸中には、張り詰めるような痛みが広がっていた。


あの日、天灯の下で交わした口づけ。

それが別れの前兆だなんて、考えもしなかった。

私の想いが、祝福されるはずもない。

……当然だ。私は亡国の王女、血の宿命に囚われた身。

それなのに、なぜ……あの瞬間、彼だけを目に焼きつけてしまったのか。


この時、蓮もまた、クラウスの背後に立つ凛音を目にした。

短く切り揃えられた髪、深く被ったフード、顔に散るそばかす——それでも、その瞳だけは間違いなく凛凛だった。


蓮は迷うことなく歩み寄り、凛音の手首を引き寄せると、そのまま宴会の外へと歩き出した。


「殿下、一体何をなさっているの?」

アミーリアの声が背後から響く。


しかし、蓮は一度も振り返ることなく、ただ静かに歩を進める。

凛音もまた、彼の手を振りほどこうとはしなかった。


アミーリアが追いかけようとしたその瞬間——

「……もういい。」

クラウスは低く告げると、すっと手を伸ばし、アミーリアの行く手を遮った。その表情には、どこか達観したような、あるいは諦めにも似た静けさがあった。

アミーリアは不満げに唇を噛むが、クラウスの眼差しを見て、結局、追うのをやめた。


一方、蓮は凛音の手を引いたまま、宮殿の廊下を歩き続ける。

彼の手の温もりは、強く、しかしどこか震えていた。


「……蓮。」

凛音が小さく呟く。


蓮はただ、凛音の手を離さずに歩き続けた。

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