89 断罪の刃
「私が……もっと強く抗えていたら……!」
クリスは仰天し、涙が次々と溢れ、地面に滴り落ちる。
「もういい。」
それまで黙っていたクラウスが、ゆっくりと口を開いた。
いつもの飄々とした態度は消え、拳を固く握りしめると、低く静かな声で言い放つ。
「私は、このままでは済ませない。」
凛音は誰にも気づかれぬよう、そっと涙を拭い去ると、まっすぐクリスとクラウスを見据え、力強く言い放った。
「——この件、私に任せてください。」
「……なぜだ?」
クラウスが訝しげに眉をひそめる。
「望月公会が私に課した入会の条件は——辺境に潜む『排除すべき者』を葬ることだから。」
翌日。
クラウスは、王子視察の名の下に、辺境の全軍を招集した。同時に、役者の住民たち もまた、この場へと集められていた。
朝の光はまだ薄暗く、広場は静まり返っていた。将校は直立不動で冷然と佇み、兵士たちは整然と列をなし、役者たちは何が始まるのかと警戒しながら様子を窺っている。
クラウスは高台に立ち、ゆったりと視線を巡らせる。口元には含みのある微笑を浮かべながら。
「私の耳にも届いているぞ。辺境の将校は数多の戦場を駆け抜け、武勇に秀でた名将だと。」
彼は気だるげな口調で言い、軽く肩をすくめた。
「折よく、最近、新たに一人の護衛を得た。口はきけぬが、多少の腕は立つ。どうだ、将校?その腕前、試させてもらおうか。」
言葉が広場に響いた瞬間、一陣の風が吹き抜ける。それと同時に、人々の間から一つの影が静かに前へと進み出た。
フードを目深に被り、短く整えられた髪の下から冷ややかな視線を覗かせる剣士——凛音。
彼女はただ頭を垂れ、無駄な動作なく長剣を構える。その立ち姿はまるで、風に揺るがぬ孤高の鋼。
将校は嘲笑を浮かべ、目に嘲弄の色を滲ませると、無造作に腰の佩刀を抜いた。
刃が陽光を反射し、鋭く煌めく。
そして、刹那——
「——ッ!」
金属音が広場に響き渡る。
次の瞬間——将校の佩刀は宙を舞い、地面に落ちた。
凛音はほんの軽く剣を振っただけだった。それだけで、彼の武器は奪われた。
人々の視線が、一斉に地面に転がる佩刀へと集まる。将校の顔が、微かに歪んだ。
クラウスは笑みとも嘲りともつかぬ表情で将校を見つめ、ふと片手を上げた。
それに応じるように、傍らの侍従がすぐさま歩み寄り、古の銘が刻まれた一振りの剣 を捧げ持った。
クラウスはそれを受け取ると、まるで取るに足らぬ物のように軽く投げる。
剣は空中を弧を描いて舞い、将校の足元の地面に深々と突き刺さった。
「この剣は、わざわざ神殿より取り寄せたものだ。」
クラウスは気怠げな調子で言いながら、将校に向けて顎をしゃくる。
「さあ、引き抜いてみろ。」
将校は眉をひそめ、一瞬、クラウスと剣を見比べた。
しばし逡巡した後、腰を屈め、剣の柄をしっかりと握ると、一気に引き抜こうと力を込める——
剣は、微動だにしなかった。
「……ふむ。」クラウスは目を細め、わずかに唇をつり上げる。「おかしいな。聞いた話ではな——この剣は、真に蒼霖国を守る者だけが容易く引き抜けるそうだ。」
その声音には、どこか愉悦を含んだ皮肉が滲む。
「将校、お前は辺境を守る忠臣だったな? 我が国を支える勇将だろう?ならば……そんな造作もないこと、できて当然だよな?」
将校の額に、じわりと冷や汗が滲む。彼は歯を食いしばり、再び柄を握り直すと、全身の力を込めて引き抜こうとする。
だが——剣はなおもびくともしない。
広場に集う兵士や民衆が、顔を見合わせながらひそひそと囁き始める。
奇妙な沈黙とざわめきが交錯し、場の空気はひときわ張り詰めたものへと変わる。
そんな中、クラウスは悠然と歩みを進め、ゆっくりと将校の隣に立った。
両手を後ろに組み、わずかに首を傾げながら、彼を見下ろす。
「お前の手は、蒼霖国の民の血で汚れている!だからこそ——お前には、この剣は決して抜けないのだ!」
その言葉が落ちた瞬間、広場のざわめきが消えた。
将校の瞳が、大きく見開かれた。
次の瞬間——
「ガキン!」
凛音は何のためらいもなく、一振りの普通の佩剣を放り投げた。
剣は地面を転がり、何度か回転した後、将校の目の前で止まった。
クラウスは微かに唇の端を吊り上げたが、その目にはもはや笑みの影はなかった。
そこにあるのは、ただ底冷えするほどの冷酷な光。
「畜生め、せいぜい逃げてみせろよ。」
将校は反射的に顔を上げ、その瞳に一瞬の凶光を宿らせた。
佩剣を強く握りしめると、咆哮と共に凛音へと斬りかかる——!
しかし、ほんの数手で——
「キィン——!」
凛音の剣が将校を退け、その手首を打ち据える。剣は手を離れ、無力に地面へと落ちた。
次の瞬間、彼女は一切の容赦なく将校を地面に押し倒し、膝で背を押さえつけた。
将校は歯を食いしばり、顔を真っ赤にして必死に身をよじるが、凛音の力はまるで鋼鉄の枷。微動だにできない。
クラウスは歩み寄り、足元に這いつくばる将校を見下ろす。その声には、一片の温情もなかった。
「お前は、一つの街を丸ごと殺した。命令を下した時、奴らに覚悟を決める時間を与えたか?」
彼はゆっくりと手を上げ、一振りする。
凛音の刃が無慈悲に振り下ろされる。
「ギャァァァァァ!!」
将校の右腕が地面に転がる。鮮血が冷たい石畳を赤黒く染めていく。
彼は痛みに身を震わせ、悲鳴を上げながらのたうち回るが、すでに反撃する力すら残されていなかった。
「命乞いする民を目の前にして、お前は見逃してやったか?」
クラウスは冷然と問いながら一歩踏み出す。
再び、凛音の剣が振り下ろされる。
刃は正確に、将校の脚の腱を断ち切った。
将校は激痛に震えながら、声にならぬ呻きを漏らす。もはや、彼の顔からは傲慢さも憤怒も消え失せ、ただ圧倒的な恐怖だけがその瞳の奥で揺れていた。
クラウスは静かに目を伏せ、氷のように冷たい声で囁く。
「お前は剣を振りかざし、私の国の民を殺した。五歳の子供すら容赦なく。その時、お前は今日という日を想像したことがあったか?」
そう言い残し、クラウスは背を向ける。
将校の体は恐怖に震え、声すら出ない。
次の瞬間——
ズブリ——ッ
凛音の剣が、将校の胸に深く突き刺さる。
温かい鮮血が刃を伝い、静かに流れ落ちる。
将校の口が何かを言おうと震えるが、言葉は紡がれることなく、
その瞳から、ゆっくりと光が消えていく。
そして、すべてが終わった。




