79 虚実の狭間
白瀾国に雪が降った。
しかし、目を凝らせば、それが冬の瑞雪でないことは明らかだった。静まり返った空気の中を漂うのは、燃え尽きた灰。白い綿のように宙を舞い、ゆらゆらと沈んでいく。
荒れ果てた廃墟には、まだ焦土の余熱が残り、崩れた梁や折れた柱が無造作に転がっている。かつて精巧な彫刻が施された木の門は、今や黒く焦げた破片と化し、かろうじて模様の名残を留めていた。
散乱する青い煉瓦、崩れ落ちた飛び檐、かつての威厳を誇った梁や柱。すべてが灰と塵に埋もれ、名門の風格すら、静かに燃え尽きていた。
——数時間前。
「アイ殿下、それを返してください! これは凛音様が私のために用意してくださったお菓子です!」アミーリア王女は眉をひそめ、アイ殿下の手から鮮花餅をさっと奪い返した。
「何これ? 私も欲しい!!」逸は羨ましそうに凛音の袖を引っ張りながら、わざと甘えた声で言う。「凛音お姉ちゃん、私にもちょうだいよ〜!」
この鮮花餅は、凛音が自ら育てた薔薇の花から作ったものだった。秋に摘み取った花びらを丁寧に洗い、萼を取り除いて乾燥させる。それを砂糖ともち米の粉を混ぜ合わせ、じっくりと蒸し上げると——一口頬張れば、ほのかな薔薇の香りがふわりと広がり、しっとりとした甘さと香ばしさが口の中に満ちる。
「ところで、今日みんな、どうして林府に集まってるの?」
凛音はふと首をかしげ、周囲を見渡した。
「莲兄上が言ってたじゃない! 今日は作戦会議だって!」
「……作戦会議!?」
凛音は驚きの声を上げた。しかし——肝心の蓮の姿が見えない。
雀宸殿。
今日は百官が集う朝議ではない。殿内にいるのは、ただ蓮と皇帝のみ。
皇帝は玉座に身を預け、蓮を見ようともせず、大殿の窓の向こうに視線を向けていた。
蓮は静かに息を整え、鋭い視線を皇帝へと向ける。
「辺境の動乱——表向きは蒼霖国の侵攻に見えたが、その根は白瀾国内乱にあった。すべてが、誰かの意図によるもの。」
皇帝はゆっくりと立ち上がると、手を背に組み、無言のまま歩を進めた。その表情には微塵の揺らぎもない。
「父上は、すでにご存知でしょうね?」
「では、蓮は朕にどうしろと言うのだ?自らの母后を殺せとでも?」
蓮はまっすぐ皇帝を見据え、目を逸らすことなく、力強く告げる。
「——あなたは白瀾国の皇帝!」
「あなたの手にある玉璽は、たとえ偽物であろうと、本物となる。逆に、敵の手にある玉璽は、たとえ本物であろうと、偽物に過ぎません。」
蓮の声は落ち着いていた。だが、その眼差しには迷いがなく、確かな覚悟が宿っていた。
「真が偽となり、偽が真となる。それこそが——王者の道!」
一瞬の静寂。
「蓮——成長したな。」
「だが、お前はまだ分かっていない。王者は理だけでは動かぬ。」
そう言い放つと、皇帝は手にしていた奏折の束を床へと叩きつけた。
それはすべて、林将軍と林凛音を糾弾する奏折だった。
——君が臣に死を命じれば、臣は従うしかない。
しかし、帝王といえども、群臣が一斉に求めれば、忠臣ですら守りきれぬ時がある。
蓮の表情が険しくなる。「これは——!」
皇帝はまっすぐ彼を見据え、声音こそ淡々としていたが、その言葉には帝王としての威厳が滲んでいた。
「お前は王者の道を説いた。——ならば、どう裁く?」
その頃・朱寧宮
沈んだ太鼓の音、鋭く響く銅鑼の音。舞台上では、まさに朝堂の風雲を描いた劇が演じられていた。
劇中、朝服をまとった臣下が殿中にひざまずき、毅然とした表情で叫ぶ。
「臣、陛下に忠誠を誓います!決して二心はございません!」
しかし、玉座に座す帝王は微かに眉をひそめ、静かに手を上げる。
その傍ら、権臣が恭しく進み出て、冷ややかに囁いた。
「忠か奸か、陛下におかれましても容易には判別できぬことでしょう。しかし——これは江山社稷に関わること、一抹の疑念すら許されませぬ。」
その言葉とともに、殿の外から甲冑をまとった近衛兵が踏み込み、揺らめく灯火に鋭い刃が反射する。
太后は繍榻にもたれ、手にした茶盞を傾けながら、ただ舞台を見つめていた。
舞台では、群臣が騒ぎ立ち、朝堂全体が震えている。
「臣は……無実でございます——!」
悲痛な声が響くも、それをかき消すように太鼓の音が重く鳴り響く。
太后は何の感情も浮かべぬまま、茶を一口含む。やがて、ふっと口元に微笑を浮かべる。
「この場面、わらわの記憶よりも……ずいぶん見応えがあるものだな。」
茶蓋を静かに閉じたその瞳は、なおも舞台に向けられていた。だが、その視線は、幾重もの幕を超え、遥か遠くの何かを見つめているようだった——
その頃・林府
「だから、私は太后をお誘いして時間を稼ぐ。逸殿下は朱寧宮の中を調べて……」アミーリアがそう言い終えるか否かの瞬間——
ドン! ドン!
乱暴に大扉が叩かれる。
「お嬢様!」慌てた様子の家僕が、息を切らしながら駆け込んできた。
「門外に、大量の御林軍が押し寄せています! 皇命だと言い、林府を徹底的に捜索するつもりです!」
「何?」凛音は即座に立ち上がり、すぐさま林夫人の所在を尋ねる。
「お母様はどこにいらっしゃいましたか?」
「夫人はまだ風寒が癒えず、お休みになっておられます。……ですので、私が先にお嬢様にお伝えしに参りました!」
部屋の空気が凍りつく。誰もが一瞬、何かを悟ったかのように沈黙した。
——つまり、彼らの手が先に回ったのだ。
しかし、考える暇すら与えられなかった。
——バンッ!
「林府の者ども、全員動くな! 皇命により捜索を行う!」
外門が轟音とともに押し開かれ、鎧のぶつかる音が雷鳴のごとく鳴り響く。数十名の御林軍が庭へと雪崩れ込み、鋭い刃が朝日に反射して鈍い光を放つ。その威圧感は、屋敷全体を包み込むようだった。
その頃・朱寧宮
舞台では、芝居が「忠臣の娘、敢然と立つ」の場面へと進んでいた。
幕の中、素衣を纏った若き娘がゆっくりと歩み出る。その瞳には悲憤が滲む。
「我が父は忠臣。日月が証しである。なぜ無実の者に汚名を着せるのですか!」
舞台下、官兵役の役者が嘲笑を浮かべ、高みから明黄色の勅書を広げる。
「聖命である。まだ言い逃れをするつもりか?」
言い終わるや否や——
「ドンッ——!」
分厚い木扉が乱暴に蹴破られ、兵たちが一斉になだれ込む。鋭い刀剣が舞台の灯火に照らされ、冷たい輝きを放つ。
繍榻の上、太后はふっと微笑み、茶盞の縁を指先で軽く叩いた。その眼差しには微かな愉悦が滲む。
「忠臣の娘、理を掲げるか。——なるほど、少しばかりの胆はあるようだな。」
その声色は何処までも軽やかで、どこまでも嘲るようでありながら、どこまでも面白がる響きを孕んでいた。まるで、この舞台で繰り広げられる悲劇こそが、最上の戯れであるかのように——
その頃・林府
凛音は僅かに顔を傾け、家僕に低く囁く。
「早く、軍営へ使いを。お父様とお兄様に知らせて。」
そう告げると、一歩前へ進み、御林軍の統領を冷然と見据えた。
「何の罪状もなく、このような真似を?」
統領は何も答えず、ただ聖旨を取り出し、高らかに読み上げる。
「林府、謀反の嫌疑あり。よって徹底的に捜索を行う。違令者——斬!」
「馬鹿な!」逸は普段の軽薄な笑みを消し、眉を寄せる。「林家は代々忠義を尽くしてきた。何をもって謀反とする?」
「——その聖旨、拝見しても?」凛音は静かに歩を進め、手を差し出す。声色は淡々としていたが、その響きは鋭く、まるで一振りの剣のようだった。
しかし、統領は鼻で笑い、一切の説明もせず、ただ片手を振る。
「捜せ!」
——バンッ!
扉が蹴破られ、部屋の屏風が激しく倒れ、陶器が床に落ちて砕け散る。
「無礼者——!」凛音の怒声が響き渡る。「誰が、これ以上の無礼を許すと言った?」
その場の御林軍たちが、わずかに動きを止めた。どれほど皇命を背負おうとも、この林家の娘の纏う気迫には、得体の知れない威圧があった。
しかし、沈黙を打ち破るように——
——轟!突如として、火柱が天へと昇る。
「火事だ! 火が出たぞ!!」
「何だと!?」逸が慌てて振り返る。
「後院から出火した!」誰かが叫ぶ。
凛音の瞳が大きく見開かれた。
「お母様——!」
その瞬間、彼女の足は迷いなく動いていた。炎が紅く空を染める中、凛音は奥へと駆け出す——
その頃・朱寧宮
夜風がそっと吹き抜け、舞台の燭火が揺らめく。明滅する灯りの中、芝居は忠臣の家が業火に呑まれる場面へと差し掛かっていた。
舞台上、「忠臣の娘」が悲痛な叫びを上げ、燃え盛る炎の中へと駆け込む。
響き渡る唄は切なく、張り詰めた哀調が観る者の胸を抉る。
彼女は地に伏し、涙に濡れた顔を上げて、慟哭する。
「お父様——! お母様——!」
——その瞬間、遥か遠くの夜空の下、突如として城内に紅蓮の光が奔った。
天を焦がす炎が燃え広がり、暗き都の一角を赤く染め上げる。
太后は静かに茶盞を持ち上げ、微かに笑みを浮かべた。
「今宵の芝居は、なかなか見応えがあったな……城まで燃え広がるとはね。」
気づけば、明日はもう第二部の最終話ですね。
今日の話の表現方法がとても気に入っていますが、皆さんはどう感じましたか?
ぜひ、気軽にコメントやレビューをいただけると嬉しいです!皆さんの感想やご意見を心から楽しみにしております。
そして、二部にわたる凛音のイメージ変遷がこちらで見られます。より楽しんでいただければ幸いです。
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こんな無名の私の小説を読んでくださる方がいるなんて、本当に幸せです。
皆さんの一言一言が、私にとってとても大切です。
本当にいつも、ありがとうございます!




