76 玉は闇に溶けゆく
「大変だ、大変だ!玉璽が無くなった!」
毎日、玉璽の手入れを任されている宦官が、血相を変えて宮殿内を駆け回っていた。
「騒ぎ立てるな。命が惜しくないのか?」
皇帝の側に仕える老宦官がゆるりと歩み寄り、眉をひそめた。
皇帝は手を振り、下がるよう命じようとした。しかし、その時、また一人の内侍が慌ただしく駆け寄り、耳元で囁く。
「蓮殿下が……」
皇帝は軽く眉を上げ、手にしていた巻物を卓上に放り投げた。
——天牢。
「出せ!何勝手に凛凛の婚姻を決めるの!?」
蓮が天牢の鉄格子を力任せに拳で打ち鳴らす。金属が軋む音が牢獄内に響き渡り、重々しい余韻を残した。 看守たちは息を潜め、誰一人として口を開こうとしない。
——宮廷。
皇帝は茶盞を手に取り、湯気を軽く吹き払い、微かに口元を歪める。
「朕の宮廷、近頃は実に賑やかだな。」
また、白瀾国の大通り。依然として七彩に彩られた衣装が舞い、喧騒と賑わいが絶えない。しかし、今日の行列には一つだけ違う点があった——虎の背に乗るのは、アイだけでなく、盛装を纏った凛音の姿もあったのだ。
「凛音ちゃん、本当に僕のお嫁さんになってくれるの?」
アイは横目で凛音を見つめ、期待に満ちた眼差しを向けた。
「アイ君、助けていただき感謝します。」
凛音は姿勢正しく虎の背に座り、穏やかな口調で答えた。
「凛音ちゃん……」
アイは何か言いたげだったが、凛音は軽く手を上げ、それを遮った。
「アイ君、天鏡国はどのような国なのですか?」
「それはな……」アイは得意げに口角を上げ、自分が乗る虎の背をぽんぽんと叩いた。「虎の国だ!僕の騎虎だけじゃない、天鏡国の民は皆、虎に乗って移動するんだ。誇張抜きで言うと、虎の地位は人間より上なんだぞ!」
そう言うと、彼はさらに声を潜め、どこか神秘的な響きを込めて言葉を続けた。
「見た目は穏やかでも、僕の白虎は特別なんだ。祖父が言うには、こいつはただの虎じゃない。虎王——いや、虎の神だ。戦場では無敵だったらしい。」
「へぇ……それは面白いですね。」凛音はそう言いながら、指先で虎の毛並みを優しく撫でた。
すると、アイは突然、何かに駆り立てられたように、虎の背から片膝をつき、大声で叫んだ。「君は私の運命の人だ!」その瞬間、周囲の群衆はざわめき、低い声での囁きがそこかしこから聞こえてくる。
そして、皆が固唾を呑んで見守る中——アイは突然立ち上がると、虎の背の上で天鏡国の伝統舞を舞い始めた。
華麗な動き、
力強い足運び……
のはずだった。
だが、舞の最中、彼の足が僅かに滑り、次の瞬間——
アイは虎の背から見事に転げ落ちた。
辺りは一瞬の静寂。
「ハハハハハッ!」
群衆は一斉に爆笑し、楽しげな笑い声が広場中に響き渡った。今日の白瀾国の大通りは、いつも以上に賑やかだった。
この時の蓮はまだ牢の中に囚われたまま、外で何が起こっているのか知る由もなかった。李禹は何度も天牢の外で面会を求めたが、一度として許されることはなかった。
何せ、これは太后の命で捕らえられた者。皇帝自らが訪れたにもかかわらず釈放されなかったのだ。宮中では噂が飛び交い、「蓮殿下は、もはや太子の座から完全に外されたのでは?」という声が上がっていた。
「兄上様、私が助けに来ました!」
逸は笑顔を浮かべながら、ずかずかと天牢に踏み込んだ。
「逸……凛凛はどうなった?」
「凛音姉ちゃんね、今ごろアイ殿下の腕の中かも?」
蓮の顔色がさっと変わった。
「はい、はい、ごめんなさい!」
逸はすぐに両手を合わせ、ひらひらと謝りながら言った。
「兄上様、さあ、早く外へ。この通り、聖旨ですよ!」
「聖旨?父上が私の釈放を認めたのか?」
「まさか!」
逸はそう言いながら、袖の中から玉璽を取り出してみせた。
「ちょっと父上から借りてきただけ。」
「逸……大丈夫なのか?」
蓮が心配そうに眉を寄せると、逸はかえって得意げに玉璽を指でくるくると弄びながら笑った。 「大丈夫ですよ!これは偽物ですから。父上はたくさん持ってるんです。本物の玉璽がどこにあるのか、今や父上自身も知らないみたいですよ。」
「兄上様、さあ、早く外へ。ほらほら!」
蓮は急ぎ宮を出て林府へ向かおうとしたが、その頃、凛音はすでに宮へと足を踏み入れていた。
朱寧宮。
夜の闇は墨のように深く、宮殿の壁が長い影を落としていた。凛音は身軽に殿の屋根へと跳び上がり、棟の隙間に身を伏せた。黒の中に溶け込むように、静かに気配を殺す。指先を屋根瓦の隙間に滑らせながら、心の中で数える。
——一、二、三。
指先がそっと触れ、三つ目の瓦を慎重にずらした。その小さな隙間から、寝宮の中を見下ろすことができた。
「やはり……」 彼女は小声で呟き、息を潜める。そして、耳を澄ませた。
「太后様、ご安心を。この度、あの娘が天鏡国へ嫁ぐことになれば、途中で『消える』よう、私が必ず手を打ちます。」宰相の低く抑えた声が響いた。
太后は冷たく鼻を鳴らし、不快そうに言った。
「ふん、それほど単純な話ではあるまい。あの娘は運が強い。陰で誰かが守っているのは間違いない。根絶やしにせねば、いずれ災いとなるだろう。」
宰相は少し身を傾け、殿内の影へと視線を向けた。その声色が微かに探るような調子に変わる。
「……閣下は、どうお考えでしょう?」
——まさか、もう一人いる……?!
短い沈黙が広がる。まるで、宮殿の中の燭火までもがその張り詰めた空気に飲み込まれたかのようだった。
「……その程度の策では、私の安心には足らぬな。」
影の中の人物が指先で卓を軽く叩くようにしながら、しばし思案している様子だった。そして、ゆっくりと続ける。
「だが、まだ最終手に出るべき時ではない。軽率に駒を失うよりも……しばらく様子を見よう。自ら罠に嵌まるかどうか……。」
凛音の胸が強く締めつけられた。まるで、背筋を冷たい刃がなぞるような悪寒が走った。
その時、まさかの「にゃん〜」。
御前猫が突然、屋根の上に姿を現した。幼い頃、蓮の宮でいつも一緒にこのコメちゃんに餌をやっていた。まさかこんなところに……もう六歳くらいだろうか。
そう思った瞬間、コメちゃんは「にゃんにゃん」と鳴きながら勢いよく飛びかかってきた。跪いたままだった凛音は、不意を突かれ、バランスを崩して尻もちをついてしまう。
「しまった……!」瓦が「カタン」と澄んだ音を立てた。
――終わった。中の者たちに気づかれたに違いない。ならば、先手を打つしかない。
凛音は即座に決断し、素早く懐から竹筒を取り出す。そして、隙間越しに太后と宰相を狙い、吹き矢の催眠針を放った。
……しかし、もう一人は、すでにそこにはいなかった。
「とりあえず、中に入ろう。」
凛音は独りごちると、素早く朱寧宮の中へと身を滑り込ませた。
殿内を手探りで探るが、やはり目立った箱や隠し戸のようなものは見当たらない。どうしたものかと悩んでいたその時——
コメちゃんがピョンピョンと跳ね回り、卓の上の花瓶にぶつかってしまった。
「コメちゃん、ダメ!」
凛音は咄嗟に手を伸ばした。もし花瓶が割れたら、大きな音で侍衛に気づかれてしまう。だが、コメちゃんはすでに太后の寝台へと飛び乗り、無邪気に転がり始めていた。
凛音はため息をつきながら近づき、コメちゃんをそっと抱き上げると、その頬を軽くすり寄せた。
「本当に、お前はいたずら好きなんだから。」
その時、ふと目に入ったのは太后の翡翠の枕だった。貴族が使う翡翠の枕は、本来もっと澄んだ輝きを持っているはず。しかし、これはどこか濁った翠緑を帯びており、不自然に感じられる。
凛音は慎重に枕を持ち上げ、じっくりと観察した。すると、側面にわずかに動く翡翠の留め具があるのに気がついた。
——なるほど、巧妙な仕掛けだ。
枕のような場所に細工が施されているとは、誰も疑わないだろう。それに、太后の寝台に近づける者は限られている。
凛音はそっと留め具を押し、枕の中に隠されていたものを引き出す。そこにあったのは、一枚の折り畳まれた紙。
広げてみると、それは朱寧宮の最近の購買記録だった。
——その時だった。
「……誰だ?」
太后は突然目を覚まし、低く冷たい声が寝殿に響いた。
しまった、まさかもう目覚めたのか……!




