74 全ては戯れに過ぎず
数日も経たぬうちに、婚姻の話は王都の隅々まで広がっていた。
しかし、人々の口にのぼるのは蓮とアミーリアの縁談だけではない。凛音とアイの婚約までもが、世間を賑わせていた。
当の本人たちも、それほど驚くことではなかった。
情など、政の前では取るに足らぬ道具に過ぎぬ。王族の婚約とは、国の策謀に基づくもの。庶民の恋のように、自由であろうはずもない。
迎賓館
几帳の向こう、卓上には白瀾国王室の紋章が押された書簡が静かに横たわっている。苍霖国王女・アミーリアは、それをしばし見つめ、やがてふっと微笑を浮かべた。
傍らの侍女がそっと問いかける。「殿下、いかがなさいますか?」
アミーリアはゆるりと扇を広げ、唇元の笑みを隠しながら、どこか戯れるような口調で呟く。
「他に何があるというの?もちろん、受けてあげるわ。白瀾国が用意したこの舞台、乗らない手はないでしょう?」
政略結婚——所詮、戯れにすぎない。ならば、私は可憐で愛嬌たっぷりの姫を演じてあげるだけ。彼が心から惹かれるように……ふふっ。
その頃、林府では——
「凛音様、本当に今日もご出席なさるのですか?あの夜の宮宴で、太后はすでに探りを入れてきたのではありませんか。今は慎重に身を引くのも一つの策かと……」
「だからこそ、行かねばならぬ。不在こそが、余計な詮索を生む。身正しければ影曲がらず——何を恐れることがある?」
ましてや、私には果たすべき事がある。太后に近づく第一歩を踏み出した今、ここで足を止めるわけにはいかない。
翠羽が茶点を運び入れる。半月盆には温かな茶とともに、一枚の薄紙がそっと添えられていた。
凛音はそれを手に取り、静かに広げる。瞳が僅かに細められた。
「本日目標 霖国使者」
筆跡は見覚えがなく、差出人の名もない。
指先で紙の端をなぞり、しばし無言のまま思考を巡らせると、そのまま袖口へと滑り込ませる。
「それでは、準備しましょう。」
夜の帳が下り、華燈が煌々と輝く。王宮の奥深く、精緻に造られた戯台が殿前の広庭に静かに佇む。
戯台は朱塗りの柱を基調とし、四隅の飛檐はしっかりと組まれ、軒下には漆金の流蘇が垂れる。台柱や欄干、衝立には朱雀の彫刻が施され、その翼は大きく広がり、精巧な金漆が細部にまで行き渡っている。
舞台は広く、紫檀の板が隙間なく敷かれ、深みのある艶を湛えている。丹念に磨き上げられた表面は滑らかで、揺らめく燭火の光を光を映し出していた。
「見れ!この金色に輝く装飾、余・朱雀様の威光がようやく理解できたか!」
「はいはい。」
「何よ、その態度!」
朱雀は不満げに嘴で蓮の頭を突く。すると、舞台の炎が一層激しく燃え上がった。だが、誰も朱雀の存在には気づかない。それはまるで、演出の一部であるかのように見えた。
「凛凛、来たのか。」
蓮は立ち上がり、凛音を迎えに行こうとする。
「蓮殿下、私を放っておくつもり?」
アミーリア王女がわざと腕を絡ませると、周囲の貴族たちは興味津々とひそひそ囁き合った。蓮は振りほどこうとしたが、その瞬間、凛音は向かいの観覧席で手を振るアイの姿を見つけ、迷いなくそちらへ向かった。
「おいおい、それでいいのか?」
青龍が凛音に軽く声をかけた。
「アイ君、今日はよろしくね。」
凛音はさらりと言いながら、アイの腕の中にいた小さな虎を受け取ると、そのまま席についた。
今宵、必ずや誰かが蒼霖国の使者を狙う——
蓮はアミーリア王女の傍らに座している。もし刺客が現れたとしても、彼がいれば簡単には手出しできぬはずだ。一方、クラウス王子の姿は見えぬ。今宵の宴に参列する蒼霖国の使臣は数多く、いずれも面識がない。
この中の誰が狙われるのか、どう見極めるべきか。
戯台では、水袖が翻り、旦角の艶やかな歌声が響き渡る。琵琶と笙の音色が夜の空気を揺らし、舞台はすでに最高潮へと向かっていた。燭火が飛檐を照らし、朱雀の装飾と交わる様は、まるで真なる神獣がそこに舞い降りたかのようであった。
「凛音ちゃん、舞いの調子が見事に揃っているね。綺麗だ。」
アイの声音が、凛音の思考を遮った。彼女が目を上げると、確かに舞台の上の役者たちは、一糸乱れぬ動きを見せている。それぞれが精妙に呼吸を合わせ、舞の流れに不自然なほど統一感がある。これは単なる訓練の賜物なのか、それとも……?
その瞬間、背筋を鋭い寒気が駆け抜けた。
殺気……!
胸がざわめく。視線が瞬時に舞台奥へと向かった。
その刹那、水袖が翻るや否や、幕の陰からひとつの影が疾風のごとく飛び出した。
袖口から閃光が奔り、一筋の鋭い軌跡を描きながら蒼霖国王女の喉元を貫かんとする!
「蓮——!」
向こう、蓮は咄嗟に立ち上がり、剣を抜いて王女の前に立ちはだかった。
鋼がぶつかり合い、火花が散る。鋭い金属音が空気を切り裂き、舞台に響き渡った。その瞬間、流れていた旋律は途絶え、琴瑟の余韻が宙に残る中、場内がどよめき、悲鳴が次々と上がる。
戯台上では、先まで優雅に舞っていた役者たちが、まるで仮面を剥がしたかのように殺気を露わにした。翻る水袖、閃く鋼の光。舞いの動きに紛れ、隠し持っていた刃が一斉に抜かれる。狙いは蓮とアミーリア。
「チッ……!」
一瞬の逡巡も許されない。凛音の体が先に動いた。欄干を蹴り、一気に戯台へと跳び降りた。
しかし、着地した瞬間、四方には無数の敵影が広がっていた。足音すら殺した刺客たちが、静かに包囲網を完成させていた。
凛音は千雪を抜き放ち、迷うことなく投げた。刃が疾風のごとく駆け、飛来する暗器を弾き飛ばす。金属音が炸裂し、交差する刃の狭間に閃光が走ると、雪の刃が敵の喉元に突き刺さった。
息を整える間もなく、別の敵が長剣を構え、一直線に突進してくる。刃が奔る。凛音は反射的に半歩退き、足払いを放つ。しかし、相手は躊躇なく腰から短剣を抜き、さらに一撃を繰り出してくる。
電光石火の間、凛音は反射的に掌で短剣を掴んだ。ざくり、と鋭い痛みが走る。刃が皮膚を裂き、鮮血が滴り落ちた。指先に滑る鉄の感触、そして微かに立ち上る鉄錆の匂い。
その瞬間、目の前の刺客が一歩踏み込み、凛音の耳元に囁いた。
「……お前、殺しの才があるな?もし俺たちに加わるなら、今日くらいは見逃してやってもいいぜ?」
何かがおかしい——午後の伝言、今の勧誘、私が見落としているものは?
「凛凛!」
蓮が低く叫び、自らの長剣を大きく振りかぶると、迷いなく凛音へと投げ放った。一直線に飛ぶ刃。凛音は即座に手を伸ばし、柄を掴んだ。指が剣を握り締めた瞬間、胸の奥で何かが弾ける。
これしかない……!
殺気が弾ける。刃を翻して一閃。疾駆しながら剣を振り抜き、目の前の敵を次々と斬り伏せていく。一歩、また一歩と踏み込みながら、鋭い剣閃が闇を裂き、寸分違わず急所を貫いた。鮮血が舞い、倒れる役者たちの戯服が赤く染まる。凛音の衣にも血飛沫が散り、滴る紅が床を汚していく。
——赤い花が咲く。
その時、最後の一人がよろめきながら膝をついた。「た、助けてくれ……もう、もう殺さないで……!」怯えた瞳に涙を浮かべ、震える声で命乞いをする。だが、その指先は僅かに震えながらも、確かに短剣の柄を握っていた。
次の瞬間、男は助けを乞うように身をよじりながら、凛音の剣先へと自ら飛び込んだ。鋼が肉を貫き、鮮血が勢いよく迸る。断末魔の悲鳴が響き渡り、男の体は刃に突き刺さったまま、ゆっくりと地に崩れ落ちていった。
刹那、場内の空気が凍りつく。そこへ響く、耳をつんざくような悲鳴。「きゃあああああ!!」いつも泰然自若の太后が、あえて大げさに叫ぶ。その声はわざとらしく、場に響き渡った。
貴族たちは言葉を失い、恐怖に息を詰まらせる。見慣れた舞台が、一瞬で血塗られた死地へと変わった。
殺された者が横たわり、剣を手にした女は鮮血に染まっていた。その光景は、あまりにも衝撃的だった。
凛音は、今ここで、大勢の目の前で、人を殺した。
「誰か!この礼儀知らず、血まみれの殺人鬼を捕らえよ!」
御林軍の鎧がぶつかり合い、殿内に重い足音が響く。甲冑の兵たちが次々と駆け込んできた。
血溜まりの中、最後の刺客の身体が微かに痙攣し、袖がわずかに翻る。次の瞬間、血に染まった一枚の紙片がゆらりと落ちていく。
「本日目標 林凛音」
——そういうことか。
この一連の出来事は、緻密に張り巡らされた罠。
そして彼女は、何の警戒もなく、その罠へと飛び込んでしまった。




