70 刺客か、舞姫か
予想はしていた。だが、対峙した瞬間、圧倒された。
空気は張り詰め、彼女の歩みには一分の隙もない。
背筋を冷気が走るわ――けれど、悟らせるわけにはいかない。
「太后様、本日このような場にてお目にかかれますこと、光栄の至りに存じます。もったいなきお言葉を賜り、誠に恐縮に存じます。」
凛音はしなやかに膝を折り、両手を腰元で揃えて、ゆっくりと頭を垂れる。
一瞬の静寂が、まるで嵐の前のような予感を孕んでいた——
「頭を上げなさい。わらわに、よく顔を見せておくれ。」
太后は突如、花が咲くような微笑を浮かべ、凛音の手首をそっと取り、優雅に主卓へと歩み出した。
その笑みはあまりにも鮮やかで、先ほどまでの凍りついた空気と不自然なほど対照的だった。
「皆の者、席につきなさい。わらわのことは気にせずともよい。」
軽やかにそう告げると、凛音を隣へと座らせる。
まるで初めからそこが定位置であったかのように、あまりにも自然な仕草で。
その瞬間、広間の空気がふっと揺らいだ。
低く響く太鼓が大広間の空気を震わせ、箏の旋律が波紋のように広がる。
舞姫の衣袖が紅蓮の炎のごとく翻り、揺れる金の装飾が鋭く光を散らす。
琥珀の酒が朱塗りの杯に満たされ、甘やかな果実の香りがほのかに漂う。
盃が交わされ、言葉が飛び交う。
だが、交わる視線の奥には探りと駆け引きが潜んでいた。
音楽と笑声に紛れ、密かに交錯する思惑、盃を口に運ぶ僅かな間、硬直した指先に滲む緊張。
華やかな宴の裏で、それぞれが均衡を崩さぬよう慎重に息を潜めていた。
そして、その只中で——
太后はただ、艶やかに微笑む。まるで、この場の鼓動すらも掌中に収めているかのように。
「つまらない。文化交流祭とやらは四年に一度だというのに、この舞はまさに四十年分も見せられた気分だ。」
言葉が落ちた瞬間、舞姫たちは身を震わせ、刹那のうちに畏れを抱きながら地に膝をついた。
「林家のご令嬢よ、一つ舞を披露してはどうか?」
その一言に、場の空気が凍りついた。
誰もが息を呑み、言葉を挟むことすら躊躇う。
「祖母上様、それはまた、ずいぶんとご冗談が過ぎます。」
蓮は拳を静かに握りしめながらも、微笑を崩さずに答える。
「それは万が一にも叶いません。官家のご令嬢がこのような場で舞うなど、礼節に悖ることでございましょう。」
「ほう……?」
太后はゆるりと目を細め、扇をゆったりと動かしながら、まるで一興でも見るかのように言葉を継ぐ。
「蓮、お前は今、わらわに説教でもするつもりか?」
——瞬間、静寂。
やがて、太后は凛音へと視線を向ける。
「昔もな、この文化交流の宴にて、一人の貴族の娘が舞を披露したことがあった。その舞は優雅で美しく、見る者を魅了した。そして、彼女は良き縁を結び、まことにお似合いの婚礼を迎えたのだ。」
そう言うと、太后はわざとらしく口元を扇で隠し、作り笑いを浮かべた。
「ああ、そうであったな——
その縁は、遙かなる雪華国へと続いていたのだったかしら?」
——凛音と蓮の身体がわずかに震えた。あまりに驚愕が大きく、誰一人としてすぐには言葉を発せなかった。
「太后様がおっしゃるのは、まさか雪華国の皇后のことにございますか?父上から聞いた話では、熱情に満ちた女傑だったとか!」
アイ殿下の無邪気な声が、氷のように張り詰めた沈黙を破る。
「アイ殿下のお言葉、ごもっともにございます。ただ、わらわが聞き及ぶ限りでは、その女は心冷たく残忍で、傾国の禍をもたらしたと——」
凛音は静かに拳を握りしめる。爪が食い込み、じわりと掌に痛みが滲む。
「太后様、ご機嫌麗しくあらせられますか。」
凛律が恭しく一礼しながら、落ち着いた声で申し上げる。
「本日、愛しき妹は体調がすぐれませぬ上に、母が選ばれた衣も窮屈にて、舞うには相応しくございませぬ。いずれ改めて、私が伴い太后様へ謁見し、その折に舞をお納めいただくのはいかがでしょう?」
「まあまあ、今日は皆して、わらわに説教でもするつもりか?」
太后がゆるりと視線を巡らせると、その場にいた白瀾国の重臣たちが次々と跪いた。その様子を眺めながら、太后はゆっくりと微笑む。
「異国の使節が見ている前で、何を大袈裟にするのだ?まるで、わらわが理不尽を申し上げたかのようではないか。」
「太后様——」
凛音は静かに顔を上げた。その瞳には、迷いの色すらない。
「私は貴族の令嬢でも、文官の子息でもございません。礼儀作法にとらわれることなく、この身は何の躊躇もなく舞えましょう。ですが——兄上の仰せの通り、この衣ではあまりに不自由が過ぎます。もしお許しを賜ることが叶いますならば、衣を改め、直ちに戻り、舞をお納めいたします。」
数分後、側の帷が引かれた。その向こうから、凛音が歩み出る。
彼女の姿を目にした者は、皆、思わず息を呑んだ——驚愕と困惑が広間を支配する。
透き通るような水藍の衣には、精緻な祥雲と波の紋様が刺繍されている。だが、それはしなやかに舞う姫の装いではなかった。
華美な装飾はすべて取り払われ、髪は端然と結い上げられ、
ただ一本の翡翠簪が、凛とした佇まいで留められている。
その手には、一振りの宝剣。柄に結ばれた白玉の飾りが、燭火のゆらめきに紛れ、幽かに光る。
そこに立つのは——
まるで武人のような凛音の姿だった。
まさか——?
誰もが息を呑む中、凛音はまっすぐ前へと進み出る。
そして——
剣が迷いなく、太后へと向かう。
刹那。
広間全体が凍りつく。音すらも消え、ただ、一閃の煌めきが走る。
剣先が空気を斬り裂く軌跡を描く。
――疾風。いや、それ以上。
一直線に、太后の目の前へと。
燭火が刃に反射し、氷のような光が揺らめいた。寸分違わぬところで、剣が止まる。
一瞬。
それは、ほんの刹那の出来事。
しかし、確かに、そこにはあった。
殺気。
——剣が跳ね上がる。
宙へと舞う凛音の身。流れるような軌道のまま、一気に剣の煌めきと共に旋る。
刃が弧を描き、残像を残す。翻る衣が風を孕み、しなやかに、鋭く。
まるで、空間そのものを切り裂くかのように――
凛音は、舞う。
その瞬間——
蓮が、即座に決断した。
目にも止まらぬ速さで古筝の前に歩み寄り、指先が弦を弾く。
張り詰めた沈黙を切り裂くように、鋭く、そして流麗な音が広間へと響いた——。
それは、まるで今起こったことが 「文化交流の一環」 であったかのようだ。
観客たちは緊張の糸が切れたように、ようやく息を吐いた。
誰か、驚きの声がもれた。「おお……」
だが、太后だけは違った。
彼女の微笑みは、変わらぬままだった。
だが、それは決して「穏やか」というものではない。
その瞳は猛獣のごとく鋭く、獲物を値踏みするかのように光っている。
獲物とは——果たして、誰か。
それを察したのは——アイだった。
「いやはや、凛音殿の剣舞はまさに風の如し!」
突如、軽快な声が響く。
アイが鮮やかに笛を回し、卓を飛び越え、ふわりと舞い降りた。
「これは負けてはいられないな?」
そのまま、凛音の隣へすっと立ち、笛を剣に見立てて彼女に向けた。
ぱん、と軽く笛が凛音の剣に触れる。
アイは、わざとらしく眉を上げた。「おやおや?」
にっと笑い、くるりと笛を回す。わざとらしく一歩下がり、挑むように笛を構えた。
時折、アイは笛を吹いて軽やかな音を奏でる。
剣舞は鋭くもあり、どこか涼やかな美しさを纏っているが、
アイの愉快な笑い声が、それすらも茶番へと変えていく。
「ほらほら、もうちょっと本気を出してくれないと?」
「……」
凛音は、ふっと息を吐いた。
彼の意図はわかる。
彼が、今、この場を「余興」へと変えようとしていることも。
だから——
刹那、彼女は剣を回し、
アイの笛へとすっと踏み込む。
衣が舞う。
剣が揺れる。
その流れのまま、
彼女は笛のすぐ傍へと唇を寄せ、吹き抜けた。
ぴゅうっ——
軽やかな笛の音が、広間に響いた。
「!?」
アイの目が一瞬、見開かれる。
次の瞬間、彼はまるで矢に射抜かれた兵士のように、胸を押さえながら後ずさった。
「ぐはっ……!?」
劇的に仰け反り、「こ、これは……完全に一本取られた!!」
と、わざとらしく膝をつく。
「まさか、音の剣を使うとは……さすがは林家のご令嬢……!!」
観客の間から、どっと笑い声が上がった。一瞬前の緊張感が、まるで嘘のように霧散していく。
「どうだい、太后さま!」
アイは、ぱちんっと笛を回し、そのまま太后の前へと駆け寄る。
満面の笑みを浮かべ、拱手してみせた。
「先ほど俺たち三人で考えた演舞だけど、楽しんでいただけましたかな?」




