66 無勝の盤
蓮は死の淵から蘇った――少なくともそうとしか思えない。
数日が経ち、彼の身体は徐々に回復しつつあった。しかし、彼の記憶はどこか曖昧で、その瞳に宿る迷いは消えることがなかった。
驚くほど静かだった。
死んだはずの自分が、どうしてこうして生きているのか。
その理由を問いただす者もなく、目を向ければ目をそらされるような感覚があった。
そして、どうしてこれほどまでに凛音の姿が見えないのか――それが何より不思議でならなかった。
「蓮、今日の具合はどう?」
凛律がいつものように部屋へと姿を現す。
かつては数日置きだった訪問が、今では毎日の日課となっていた。
「まあ、だいぶ良くなった。お前こそ、毎日来なくていいよ。」
蓮は軽く笑って返すが、凛律の顔はどこか浮かない。
蓮が知らないのは、浮遊と朱雀が現れたこと、そして凛音が自分への感情を捨てたことだった。
あの日、その場にいた者たちは、凛律の命令によって口外を厳しく禁じられた。
もし蓮の死と復活、朱雀との契約が王都に伝われば、どのような波乱を引き起こすか分からない。
さらに、浮遊や凛音の正体が明らかになれば、林家ですら無事では済まないだろう。
そう考えると、凛音が蓮への感情を手放したのは、むしろ良い選択だったのかもしれない。
だが、親友として何も知らない彼を見るのは、凛律にとっても辛いことだった。
その日――蓮が目覚めたとき。
静かな朝の光が部屋に差し込む中、蓮の胸元に朱紅の輝きが淡く揺らめいていた。
冷たく硬直していた身体が、ゆっくりと温もりを取り戻していく。
彼は無意識に胸元へ手を伸ばす。「この感じ……」
触れた指先に伝わる鼓動は、自らのものとは思えなかった。
それはまるで、別の生命が自分の内側で脈打つような感覚だった。
「……何が起きている?」
そのとき、部屋の外からかすかな足音が聞こえてきた。
振り向いた先に現れたのは、凛音だった。
だが、それは蓮が知る凛音ではなかった。
彼女の目は冷たく、かつての温もりはどこにも見当たらなかった。
「蓮が生きていて良かった。」
短くそう告げると、彼女は踵を返し、何の未練もないように部屋を去っていった。
蓮は彼女の背中を目で追ったが、呼び止める言葉すら見つからなかった。
「蓮、しっかり休んでおけよ。来週から忙しくなるからな。年末の文化交流祭が始まるぞ。」
ふと、凛律の声が蓮を現実へと引き戻した。
「ああ、わかってる。蒼霖国を探るには、これ以上ない機会だ。太傅は既に死んだが、本当の黒幕が誰なのか、その真相をこの手で必ず掴んでみせる。」
一方、林府。
凛音は夜の陶府への潜入に向け、入念に準備を整えていた。彼女にとって、陶太傅の死はまたしても全ての血縁を失うことを意味していた。雪華国滅亡の真相――その唯一の手がかりは、これで潰えた。そして、唯一残された血縁も、母と同じように汚名を着せられたのだ。
「本当にそのような服装で向かわれるのですか?夜ですし、少々目立つかと……」
声をかけたのは清樹だった。
目に映るのは――月白の織物で仕立てられた上着に、青の縁取りと銀糸が繊細に光る外套を纏い、頭には素白の銀飾りを付けた凛音の姿。足元では白絹の滑らかな裾が静かに揺れていた。その佇まいは、春風に揺れる花のように優雅でありながら、秋霜に耐える菊のような凛とした気高さを漂わせていた。
「ああ、相手もおそらく白装束で来るだろう。」
陶府。
夜風は冷たく、月明かりが静かに庭を照らしていた。散り落ちた花の間から、微かな血の匂いが漂う。
「涙に近きは 干土無く、空に低れて 断雲有り。
惟だ見る 林花の落つるを、鶯啼 客を送りて聞かしむ。」
白衣の男が庭の中央に立ち、静かに詩を口ずさんだ。その声は穏やかで抑揚はほとんどないが、胸の奥に秘めた嘆きを完全に隠し切ることはできない。 男は手にした酒壺をゆっくりと傾け、清酒を足元の土に注ぐ。酒の香りがふわりと漂い、冷たい土に静かに溶けていった。
「夜臺 暁日 無きに、酒を沽りて何人に與たう。陶先生、少し早すぎますよ。」
白衣が夜風に揺れる中、男は目を伏せ、ふと庭全体を見渡した。その視線には、感慨とともに、まだ果たされぬ思いを探る気配が漂っている。
その時、静寂を裂くように、庭の奥から軽やかな足音が響いた。音そのものは柔らかいが、どこか張り詰めた空気を纏っている。
「衛公子、お待たせしました。」
凛音の声が冷たい夜風を切り裂く。彼女の姿が月明かりに照らされ、庭へ静かに現れる。その顔には悲しみの影すらなく、冷徹な鋭さが漂っていた。
衛澈はゆっくりと振り返り、薄く笑みを浮かべながら言った。
「ここは陶太傅の居場所だ。その最後を見送るには、これくらいの式は必要だろう。宮廷での偽善的な追悼などではなくね。」
「あなたのほうが、よほど親族らしいですね。」
凛音は一歩進み、その瞳を鋭く彼に向けた。その声音は冷静ながらも、鋭利な刃のような痛烈さを帯びていた。
衛澈は一瞬言葉を止め、夜空を見上げる。わずかに自嘲を含んだ声でつぶやいた。 「残念ながら、私一人が残って、この盤局を見届けるだけだ。」
「盤局?」 凛音は目を細め、冷たく問い返した。
衛澈は視線を戻し、笑みを深めた。
「勝者のいない盤局さ。」
続けて静かにため息をつくと、酒壺を傾け、その最後の一滴を土に落とす。
「陶太傅はこうも言っていた。『雪華国が滅ばなければ、私は今の陶某ではなかっただろう』と。復讐にすべてを懸けた彼は、結局、自分自身を見失い、敵と同じ道を歩んでしまった。」
凛音の声が鋭く響く。
「それで? 民草を犠牲にした彼を、悼めとでも?」
衛澈は少し黙り込み、低い声で答えた。
「本意ではなかった。」
短く返した後、ふっと笑みを浮かべ、口調を軽くした。
「だが、陶太傅は君に大いに期待していたよ。『雪華国の血脈を持つ者だけが、この盤局を完成させられる』とね。」
「期待?所詮、駒として扱われていただけでしょう? 衛公子も同じでしょう?」
衛澈は穏やかな声で言い返す。
「駒であれ、棋士であれ、最終的な目標は『将』を取ることだ。」
そう言うと、布に包まれた小さな物を取り出し、凛音に差し出した。
「これを受け取ってくれ。彼が最後に残した遺志だ。」
凛音はそれを受け取り、目を落とす。彼女が顔を上げた時、衛澈はすでに背を向け、月明かりの中を歩き出していた。 白衣が夜風に揺れ、軽やかな声が静寂を裂く。
「朝廷の闇は君が思う以上に深い。その深淵に、君はまだ足を浸したばかりだ――溺れる覚悟はできているか?」
夜風が庭を吹き抜け、地上の散り花を巻き上げる。
月光が凛音の影を長く引き延ばし、荒廃した庭に孤独な影を落としていた。
次回からは新章に入り、いよいよ宮廷篇の本筋に突入します。物語はさらに深まり、新たな魅力的なキャラクターたちも登場するので、お楽しみに!




