65 燃ゆる代償
「浮遊、助けて。私の血も命も、何もかもあげるから、お願い、助けて!」
凛音の声は絶望に満ちていた。彼女は腰に差した千雪を抜き放つと、躊躇うことなく手のひらを切り裂いた。鮮やかな赤い血が刃を伝い、地面へと滴り落ちる。
「音ちゃん!何を考えてるんだ!やめろ!」
凛律はその光景に息を飲み、慌てて凛音の手を掴んだ。その短刀を持つ手を押さえつけ、彼女の無謀な行動を止めようとする。
「浮遊、いるんでしょう!お願い、蓮を助けて!」
凛音の叫びは、誰もが予想し得なかったものだった。その場にいた兵士たちは彼女に目を向けるが、何が起きているのか分からず、ただ困惑した表情を浮かべていた。
浮遊の存在を知る者は、凛音、洛白、李禹、清樹の四人だけ。
そして、雪華国の王族の血でなければ、龍を呼び覚ますことはできない。
だからこそ、この秘密は決して外に漏れることなく守られていた。
凛音がここで叫ぶ言葉の意味を理解する者は、他にはいない。
浮遊は空中に身を隠しながら、その光景をじっと見つめていた。
凛音の悲痛な声と涙が突き刺さるように胸に迫り、心の中に複雑な思いが渦巻いていた。
「安易に姿を見せるな」と何度も釘を刺してきたのは他ならぬ彼女自身だった。
それなのに、今、彼女はその名を叫び、姿を求めている。
数え切れない懸念が彼の心を掠める。
それでも、彼女の必死な呼びかけを無視することは、とうていできなかった。
「無理だ……彼はもう死んだ。わしの力では……どうにもならぬ。」
彼女の声が胸に残響する中、浮遊は深い溜息をつき、ついに決断した。
空を裂き、大気を揺るがす轟音と共に、巨大な龍の姿が降り立つ。
浮遊のその姿が現れた瞬間、地面が震え、周囲に冷たい風が吹き荒れ、残された兵士たちは息を呑んだ。
驚きのあまり震える者、恐れ跪く者、言葉を失い立ち尽くす者――反応は様々だったが、ほとんどがこの光景に圧倒されていた。
「お願い、助けて……」凛音は涙をこらえきれず嗚咽を漏らしながら呟く。「雪蓮に私の血をすべて捧げる。命を削って……いいえ、命そのものを差し出しても構わない……!」
「馬鹿なことを言うな。」浮遊は冷たく言い放つが、その瞳にはどこか揺れる光が見えた。脳裏には、かつて命を捧げた鳳華の姿が浮かんでいた。
「わしの力は浄化にすぎぬ。毒や病を浄化することはできるが、それも命が灯っている間だけの話だ。」
「なら、どうすればいいの。浮遊、蓮を……蓮が生きてほしいの。死なせたくない……!」
凛音の涙は冷たい風にさらされながら乾いてはまた流れ落ちる。瞳には涙が溢れ、視界の全てがぼやけている。彼女の目に映るのは蓮の姿だけで、他には何も見えていなかった。
「さっさと現れろ、朱雀!何を黙って見ている?彼はお前が選んだ者だろう!」
浮遊は突然、凛音の腰に揺れる玉佩に向かって怒鳴りつけた。
その言葉に応えるかのように、玉佩は朱紅色の光を放ち、心臓の鼓動のように脈打ち始めた。
次の瞬間、玉佩から溢れ出した炎のごとき赤い光が、空中で渦を巻きながら一つの形を成していく。
その光が完全な形を描き出すと、そこに現れたのは――燃え盛る火焔の冠を戴く朱雀。その姿は威厳を漂わせながら、華麗に翩然と舞い降りた。
「おやおや、変わったものだね。」
朱雀はその鮮紅の瞳を細め、軽やかな声で言葉を紡いだ。
「かつての気高き青龍が、人間の名など冠して呼ばれるとは。浮遊、ずいぶんと退屈な道を選んだものだな。」
「わしの名をどう呼ぼうと、お前が気にすることではない。それより、自ら選んだ者を見殺しにするつもりか、朱雀?」
「彼は自ら死を選んだのだ。それが愚かだとは思わないのか?民を守るためだと?笑わせるな、生まれながらにその民に何度も命を狙われたというのに。わしが助ける理由など、どこにある?」
「それでも、ずっとその玉佩の中で彼を見守ってきたのは、お前自身じゃないのか。」
朱雀は少し不機嫌そうに浮遊を睨みつけると、堂々たる足取りで蓮と凛音のほうへ向かった。
「凛音、お前はさっき、蓮のためなら代わりに死ぬと言ったな?」
「ええ、愚かであれ、勇敢であれ、蓮は自分で選んだ道を貫きました。その命を賭けた選択を、私は守りたい!」
凛音は涙を浮かべながらも、その瞳には強い決意が宿っていた。
朱雀は凛音の言葉にじっと耳を傾け、一瞬の沈黙の後、低い声で告げた。
「いいだろう。その覚悟、試させてもらおう。」
赤い瞳が鋭く光を宿し、朱雀はさらに一歩凛音に近づく。
「お前の愛情をいただく代わりに、蓮を生かしてやろう。ただし――」
朱雀の声は冷たくも威厳に満ちて響く。
「お前は彼に対する感情をすべて失う。喜びも、悲しみも、何も感じられなくなる。それが代償だ。」
凛音は一瞬息を呑み、目を見開いた。しかし、彼女の心は揺るがなかった。唇をきつく結び、朱雀を見据える。
「それでも構いません……蓮が生きるなら。」
一呼吸置いて、さらに凛音は続けた。
「たとえ王族であろうと、平民であろうと、守るべきものを守ることは決して間違いではない――私は、そう信じています。」
朱雀は凛音の言葉を聞き終えると、翼を大きく広げ、天高く舞い上がった。その姿は炎の精霊そのもので、空に鮮やかな軌跡を描きながら、幾度か旋回した後、一直線に蓮の胸元へ飛び降り、そのまま光の粒となって消えた。
その場に残されたのは、静寂と――微かに揺れる命の気配。そして、風に消えゆく朱紅の光だった。




