64 儚き刹那、挽歌は奏でられる
凛律と蒼岳は救援部隊を率い、全速力で辺境へ向かっていた。馬蹄が乾いた大地を叩く音が隊列全体に響き渡り、緊張感が一層高まる。その時、一人の伝令が馬を走らせ隊列を追い抜き、凛律の前にたどり着いた。全身埃まみれのその姿は、ただならぬ事態を物語っている。
「凛律様、急報です!」
差し出された密書を凛律は無言で受け取ると、片手で手綱を操りながら開いた。その瞬間、瞳がわずかに揺らぐ。「陶太傅……暴死?」密書には、陶太傅が書斎で突然倒れ、中毒死の可能性が高いことが簡潔に記されていた。
凛律の胸に、不穏な感情が押し寄せる。手に握った紙が微かに震え、彼は奥歯を噛みしめた。
「皇太后と蒼霖国……この二つの繋がりを軽視することはできません。」
陶太傅が数日前に密かに語った言葉が耳に蘇る。その声には焦燥と隠された警告が込められていた。
「真実に迫る代償が、これほど早く訪れるとは……。」
凛律は密書を強く握り締め、視線を前方へ向ける。だが、動揺を隠しきれない。
隣を走る李生が、彼の異変に気づき慎重に問いかけた。
「凛律様、一度足を止めて状況を確認された方がよろしいかと。」
しかし、それに答えたのは蒼岳だった。その声には揺るぎない意志が宿っている。「そんな暇はない。今は殿下を救うのが最優先だ。」
冷たい風に乗るその言葉が、凛律を現実に引き戻す。蒼岳の鋭い眼差しが彼の横顔を捉えていた。
凛律は目を閉じ、深く息を吐く。そして密書を丸めると、無造作に地面へ放り捨て、強い声を張り上げた。「全軍、このまま進軍を続けろ!一刻も無駄にするな!」
乾いた風が吹き抜ける中、凛律の脳裏には様々な思惑が交錯していた。
陶太傅の死、皇太后の陰謀、そして蒼霖国の動向――それらが絡み合い、重くのしかかる。
しかし、彼は立ち止まらない。
前方には、孤軍奮闘する蓮がいる。
「待っていてください、蓮殿下……必ず間に合わせます。」
前日、陶家の書斎。
夜の静寂が辺りを包み込み、月光が窓から差し込み書斎の中をぼんやりと照らしていた。陶太傅は筆を手に取り、白い宣紙に細やかな文字を綴っていた。その眉間には深い皺が刻まれ、長い沈黙が続く。
筆を硯台に置き、彼は重い息を吐きながら額を押さえる。机の脇に置かれた茶碗からは、微かに湯気が立ち昇っている。陶太傅は茶碗を手に取り、口元に運んだ。だが、次の瞬間、その表情が苦痛に歪む。
「……っ……!」
突然、胸元を押さえた彼は激しい咳を漏らし、椅子を蹴り飛ばすように立ち上がるが、足元がふらつき、床に崩れ落ちた。茶碗が転がり、濃い液体が机に広がっていく。
「……これが……終わりだというのか……。」
彼の震える手が机の上に置かれた密書へと伸びる。だが、指先がその表面に触れることはなく、力なく垂れ下がった。
その時、書斎の扉が音もなく開いた。
月明かりの中、宮廷の侍女が一人現れる。その瞳には冷たい輝きが宿り、唇には薄い微笑が浮かんでいる。
「陛下のために、静かにお休みくださいませ。」
侍女は一礼すると、音もなくその場を去った。
書斎に残されたのは、倒れた陶太傅の姿と、机の上に置かれた密書のみ。
密書の封に刻まれた「雪華」の二文字が、月光の下でかすかに輝いていた。
馬蹄の音が破れた戦場に響き渡り、凛音の胸を刺すような冷たい風が吹き抜ける。
目の前に広がる光景に、彼女は思わず足を止めた。焦げた軍旗が地面に散らばり、折れた武器が血と泥にまみれている。立ち上る煙が未だ消えぬ炎を纏い、荒れ果てた大地が、つい先ほどの激戦の凄惨さを語っていた。
凛音はすぐさま馬を降り、震えるような目で辺りを見渡す。視界に飛び込んできたのは、地面に膝をつき、頭を垂れた兵士たち。すすり泣く声、虚ろな瞳、どれもが絶望に染まっている。
「殿下は……殿下は……」
一人の兵士が震える声で呟き、凛音の前に這うようにして進み出る。その言葉に、凛音の胸がぎゅっと締め付けられた。
恐る恐る歩を進める。跪く兵士たちの間を抜け、無惨な戦場を踏み越えた先に――。
そこには、蓮が静かに横たわっていた。
血の気を失った顔、胸元の乾ききった血痕、閉じられた瞼。まるで、ただ眠っているかのように。
「……嘘……」
膝から崩れ落ちるように彼のそばに座り込んだ凛音の手が、震えながら伸びる。けれど、その指先は彼の顔に触れる前で止まり、喉の奥から絞り出したような声が漏れるだけだった。頬を伝う涙が次々と落ち、蓮の衣襟を濡らしていく。
「なんで……なんで言ってくれなかったの!」
その声はかすれていて、それでもなお痛切な怒りと悔しさが滲んでいた。胸の奥から溢れ出る痛みをぶつけるように、凛音は叫び続ける。
「私がもっと早く気づいていれば……もっと早く来ていれば……こんなことには……」
声は次第に弱まり、震えを帯びていく。凛音は蓮の体をしっかり抱きしめた。服の袖を掴む手には力がこもり、泣き続ける彼女の涙が止まることはなかった。
その時、援軍を率いる凛律が到着した。馬から降りた彼の瞳には一瞬の動揺が走ったが、それをすぐに押し殺し、無言で凛音の隣に膝をついた。
凛音は、そっと蓮の冷たい頬に触れた。その震える手は、優しく彼を包むように動く。
「蓮……お願いだから、目を開けて……」
彼女の腰に揺れる玉佩が、微かに光を放った。それはまるで、彼女の悲しみに応えるようだった。
凛音は蓮の崩れた腕をそっと持ち上げて直す。まるで、彼を痛めてしまうことを恐れるかのように優しく。そして、再び彼の体を抱きしめた。その腕に込められた温もりは、もう戻らない温度を取り戻すかのようだった。
冷たい風が地上の残骸を撫でるように吹き抜け、戦場は深い静寂に包まれていた。泣き声も、叫びも消え去り、ただ風だけが低く鳴り響く。
その音は、まるでこの血に染まった地に響く鎮魂歌のようだった。
人は死の間際に何を思うのか――それは蓮の心に咲きながら、現実には届かなかった美しい想い。
人は死後に何を得るのか――それは凛音の心に芽生えたものの、まだ知らぬままの愛情。
二人の想いが紡ぐ物語は、これからどのように進むのでしょうか。ぜひご期待ください。




