62 戦火の彼方、また戦場
凛音たちが難民キャンプへ向かった後、蓮は残された駐屯兵たちを全員集結させた。短い一週間の訓練にもかかわらず、兵士たちはすでに整然と並んでいた。全員が分かっていた――これから主将の発言が始まるということを。
だが、誰も予想していなかった。蓮が最初に口を開くのではなく、深々と頭を下げたことを。
その頭は、まるで地に触れるほど深く、そして長い間その姿勢を崩さなかった。
「……殿下……」
兵士たちの間から、かすかな声が漏れる。
しかし蓮は、頭を下げたまま応えなかった。
しばらくして、蓮はゆっくりと身体を起こし、全員を正面から見据えて語り始めた。
「皆……申し訳ない。」
その声は、いつもの柔和さではなく、どこか苦しげで沈んでいた。
「私は、敵の難民キャンプへの攻撃は陽動だと考えています。おそらく、奴らの本当の狙いは我が国の国境でしょう。」
蓮は拳を握りしめながら、続けた。
「時期が切迫しており、援軍を要請したものの、間に合う可能性は低い。それに、難民キャンプには多くの民がいる。だから私は――」
蓮の言葉が続く前に、一人の兵士が力強い声で遮った。
「殿下、もう十分です。我々は蓮様の判断を信じています!」
その言葉が静寂を破り、周囲の兵士たちは一斉に『殿下!』と声を揃えた。
蓮は一瞬、表情を曇らせたが、すぐに表情を引き締め、兵士たちを見回した。
そして、彼は沙盤に視線を落とし、冷徹な眼差しで戦局を見定める。沙盤には味方の布陣と敵軍の動きが示され、一触即発の戦場を彷彿とさせた。
「犠牲は覚悟している。だが、守るべきものを見誤るな。」蓮の声は低く、しかし揺るぎない意志を帯びて兵士たちの耳に響く。彼は沙盤に手を伸ばし、駐屯地の配置を指し示した。
「この駐地を放棄する。藁人形を配置し、囮として奴らの目を引きつけるんだ。」
続けて、沙盤上に左右へ伸びる線を描きながら蓮は指示を加えた。
「部隊を三方に分ける。中央で正面から迎撃し、左右から奇襲を仕掛ける。挟み撃ちにして敵を包囲する。」
兵士たちは一瞬戸惑いの表情を見せたが、蓮の力強い声がそれを払拭した。
「今の兵力ではすべての陣を守ることはできない。だが、援軍が到着するまで、この場を守り抜く。そして――未来を切り開く。」
彼は一度全員を見渡し、重みのある言葉を放った。
「国を守るのは我々だ。この場を死守し、全員で生きて帰る。」
兵士たちは一瞬の沈黙の後、互いに視線を交わし、次第に表情を引き締めていった。「全力で戦うぞ!」
「御意!」
蓮は頷きだけで全てを語り、兵士たちを鼓舞するように一歩踏み出した。
その頃、凛律と蒼岳は軍を率い、馬を駆りながら蓮のもとへ急いでいた。しかし、彼らは何が待ち受けているのか、まだ知る由もなかった。
翌朝。
遠くから響く戦鼓の音が静寂を引き裂き、空気は緊張感で張り詰めていた。迫り来る激戦を予感させる中、高地に立つ蓮は霧の向こうにかすかに浮かぶ敵軍をじっと見据えていた。その表情は穏やかに見えるが、握り締めた拳が揺るぎない覚悟を物語っている。
「時間を稼ぐ。それだけでいい……。」
一方、その頃。敵軍の先遣隊が放棄された軍営に到達した。散らばった帳篷と人影のような動きに気付いた兵士たちは、口元に嘲笑を浮かべる。「なんだ、これが防衛か?大したことないな。」
だが、その言葉が終わるより早く、無数の火矢が空を裂いて降り注いだ。瞬間、藁人形と帳篷が次々に燃え上がり、炎は猛獣のように唸りを上げながら軍営を包み込む。燃え盛る火柱が天を突き、黒煙が渦を巻いて空を覆った。
「火矢だ!伏せろ!」突然の火攻めに敵兵たちは大混乱に陥り、燃え広がる炎から逃れようと慌てふためく。「くそっ、罠か!」
後方から炎を目にした敵将は拳を握りしめ、怒声を上げた。「全軍前進だ!こんな罠に怯むな!突撃しろ!」
しかし、その命令も炎と混乱の中で掻き消され、前線の兵たちは次々に足を止め始める。
陣形が乱れたその瞬間、蓮は冷静に合図を送った。
「今だ――左右の部隊、挟み撃ちを開始しろ!」
霧の中から左右に展開した奇襲部隊が一斉に動き出す。剣を構えた兵士たちが敵陣を強襲し、瞬く間に敵を崩し始めた。
「くそっ!側面から来たぞ!」
「囲まれるぞ!隊列を立て直せ!」
敵軍の前線はたちまち崩壊し、士気も目に見えて低下していく。その様子を見た蓮の兵たちは士気を高め、一斉に声を上げた。
「殿下の策が効いたぞ!」
しかし、戦局はまだ終わらなかった。
燃え広がる炎と挟撃により敵軍の陣形が乱れ、前線は崩壊しかけていたが、突如として響き渡る力強い怒声が混乱を断ち切った。
「ここからが本番だ!」
炎の向こうから現れたのは、敵軍の指揮官だった。その目には冷徹な光が宿り、怒りの中にも冷静さを失っていない様子が伺える。「本隊を動かせ!全軍前進!奴らを一気に押し潰せ!」
その号令を受け、大軍が整然とした隊列を組み直し、再び前進を開始した。炎の煙を切り裂くように響く足音が蓮の部隊に迫ってくる。
蓮は瞬時に判断を下した。
「全員、盾を前面に!弓兵は後方から援護だ!」
蓮の指示を受け、前線の兵士たちは即座に盾を前面に構え、密集陣形で突撃してくる敵軍を迎え撃つ。後方では弓兵たちが次々に矢を放ち、敵の進軍を少しずつ遅らせていく。
しかし、それでも敵の猛攻は止まらない。まるで全てをなぎ倒す波のように、圧倒的な力で押し寄せる敵軍に、蓮の部隊は徐々に押され始めていた。
「全員、後退しろ!高地に向かうんだ。ここを最後の防衛線にする。」
これ以上兵を失うわけにはいかない。
援軍は間に合わない。
逃げる先などどこにもない。
もう迷いもない。最後まで戦い抜く――それだけだ。




