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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第一章:試練の旅路、霧の彼方へ
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20 霧の彼方へ

「この花は危険です。触らないでください!」白い霧が森を覆い尽くし、甘い花の香りが空気に溶け込んでいる。李禹が地面に落ちている暗紅色の花びらを拾おうとした時、洛白は反射的に彼の手を止めた。


「見た目に惑わされてはいけません。」洛白は冷静に地面にしゃがみ込み、散乱した花びらを慎重に観察した。「曼陀羅華の花には、全身が薬効を持ち、極めて危険です。花粉には麻酔作用があり、軽ければ神経を鈍らせ、行動が遅くなる程度で済みますが、ほんの少しの油断で、昏睡状態や死を招く危険性があります。」彼は一枚の白い花びらを指差しながら続けた。「特にこの白い花は、短時間で人を迷幻状態に誘い込む効果があると知られています。いわゆる“蒙汗薬”の主成分も、これが由来です。」


「ただの花だと思っていたが……厄介なものだな。」


凛音は鼻を覆いながら、霧が濃くなる森を見回した。

「確かに、ここに入ってから頭が少しぼんやりしている気がするわ。」


「曼陀羅華の効果は体質や精神状態によって大きく異なります。怪我人のあなたが一番影響を受けやすいでしょう。」

「心配ばかりね。」凛音が軽くため息をつくと、洛白は少し微笑んだ。

「医者である以上、それが私の務めです。」


「凛雲様、この状況では進むべきか、それとも戻るべきか、どうお考えですか?」

「進むしかありません。」凛音は迷いなく答えた。その声には力強い意志が込められていたが、続けて静かに提案する。 「ただ、これ以上進むには、分かれて行動するほうがいいかもしれません。」

「私も同意です。」洛白が視線を霧に向けたまま低く答える。「この霧の濃さでは視界が制限され、一箇所に固まっていれば、もし何かあれば全員が危険に晒されます。別々に動けば、柔軟に対応する余地も増えるでしょう。」


「それなら私が凛雲様と行く。」

「李禹、あなたの剣技には信頼を置いていますが、医療知識や解毒の手段がなければ、致命的な事態に陥ったときに対応できません。」洛白は静かに言い切った。

凛音が二人の間に割って入るように言った。「大丈夫よ。私は洛白と行くわ。傷のこともあるし、あなたには少しこの森を見てもらいたい。」

「……しかし。」

「私を信じて。」

凛音の落ち着いた声に、李禹は「分かった。ただし、絶対に無茶はするな。」と答え、剣を握り直し、視線を森の奥に向けた。


二人と一人、それぞれの道を選び、濃い霧の中へと消えていく。

曼陀羅華の甘い香りがさらに強まり、白と赤の花びらが風に舞う中、森は彼らを新たな試練へと誘い込んでいた。


李禹は濃い霧の立ち込める小道を一人で歩いていた。


周囲の景色は次第にぼやけ、足元を掴む何かが、彼の進むべき道を阻んでいるかのようだった。剣を握り直した手の感覚が徐々に薄れていく中、彼は意識を保とうとしたが――気づけば、遠くから聞こえてくる声が耳をつんざく。

「お前のような役立たずは、家の名を汚すだけだ!」

低く響く父の怒声に、振り下ろされる鞭の破風音が重なる。焼けつくような痛みが幼い李禹の背中を襲う。どれほど叫んでも、鞭の音は止まらない。ただひたすら続く罵声と暴力。その光景を見つめる今の李禹は、声を出すことすらできなかった。


「すみません……もう、許してください……!」幼い自分が震える声で訴える。だがその叫びは虚しく空に消え、止まる気配はない。

これは……私の過去……?記憶に焼き付いている光景だった。理不尽な暴力。どれだけ努力しても報われない日々。目の前の記憶はあまりにも鮮明だった。体に走る痛みさえ現実のように感じられる。


その時、どこかから鋭い声が響く。「もう十分だ。これ以上、彼を傷つけるな!」目の前に現れたのは、若き日の蓮だった。まだ幼い姿の彼は、震える幼い李禹をかばうように立ちはだかった。

「彼は家の名を守るために生まれたのではない。生きるために存在している。」

蓮の言葉が闇を裂く光のように響く。背中を守られた幼い自分を見つめながら、大人になった李禹は思わず手を伸ばした。


私は……守られてばかりではいけない……!


しかし、その瞬間、光景は一転する。

広がるのは燃え盛る炎に包まれた村だった。耳に響くのは凛音の悲鳴。

「李禹……どうして……守ってくれなかったの……?」

その声は責めるというよりも、深い失望と悲しみを湛えていた。その表情は曇り、涙が頬を伝い落ちる。


「凛雲様!」

叫びながら駆け寄ろうとするが、足は地面に縫い付けられたかのように動かない。黒い霧が全身に絡みつき、彼の視界を徐々に覆っていく。


私は……何をしている?何のために剣を取った?

暗闇の中で問いが心を刺す。だが、その時、また蓮の声が彼の中に響いた。

「剣は、守るためにある。お前が信じるものを、決して見失うな。」


私が信じるものは……殿下だ!そして、凛雲様だ!

凛雲様は、誰かに守られるだけの方ではない。彼女は、自らの意志で道を切り開く方だ。

だからこそ――守り抜く。それが私の使命だ!

剣を握り直し、全身に力を込める。「私は……絶対に守ると決めたんだ!」


そう叫ぶと同時に、李禹は力強く剣を振り下ろした。

その刹那、鼻先を刺すような雄黄の匂いが鼻腔に入り込み、頭が覚醒していく。霧が晴れ、李禹の周囲に現実の森が姿を現した。その瞳には、もはや迷いの影はなかった。

「殿下、凛雲様……この命が尽きようとも、必ずお守りします。」



李禹が霧の中で現実へと戻る頃、別の場所では、洛白と凛音がそれぞれ異なる幻覚の深淵に引き込まれていた。


微かに聞こえる風の音に紛れて、誰かの囁き声が洛白の耳を掠めた。

「お前が守りたいと言うその行動は、贖罪のためか?それとも――単なる執着か?」

立ち止まり、その声に耳を澄ますと、視界の奥で闇に溶けるように人影が揺れる。それは遠い記憶の幻影ではなく、今にも手が届きそうな現実に見える。

彼は無意識に手を伸ばそうとしたが、指先が触れる寸前、影は霧に消えた。


「これは……幻覚だ。」

低く呟くと、彼は一度深呼吸し、周囲を冷静に見回した。だが、その瞬間、地面が揺れ、目の前の景色が大きく変わる。広がるのは――純白の雪に覆われた世界。

「雪華国……?」

洛白は立ち尽くした。周囲には壮麗で冷ややかな雰囲気を纏う宮殿が見える。その中央に立つ彼女の面影――凛音が佇んでいた。しかし、その背後に見えたのは、焼け落ちた村と散乱した破壊の跡。血と煙が交じり合う匂いが鼻を突く。


目の前に現れた幻影が彼に問いかける。

「お前の選択は正しいのか?」

その言葉が頭を巡り、思考をかき乱す。幻影の彼女がゆっくりと振り向く。その瞳に映るのは怒りでも悲しみでもなく、無言の問いだった。


「凛……」

声を上げようとしたが、喉が詰まるように言葉にならない。指先がかすかに震え、彼女の姿へと手を伸ばそうとする。だが、その手前で足が止まった。

――その姿もまた、霧の中へ消えていく。

その瞬間、胸にざわめくような違和感が走った。まるで、現実の彼女が何か危機に晒されているかのような、切迫した感覚が押し寄せてきた――。


「違う……これは現実ではない。だが、幻覚であるなら、なおさら急がねばならない――彼女が危ない。」


幻覚が見せる揺さぶりに耐えながら、彼は自分の荷物に手を伸ばす。解毒薬として用意していた甘草の小瓶がかすかに揺れ、彼の手に触れる。

瓶の中身を口に含むと、わずかな甘味が口腔に広がる。その瞬間、心の奥底から理性が突き上げてくる。幻覚の揺らぎが大きくなり、現実の彼女が呼んでいるような感覚が一瞬全身を突き抜けた。


彼の瞳が鋭く光を取り戻し、意識の中に一つの答えが浮かぶ。

「贖罪でも、執着でもいい――私が今、守るべきものは、目の前にある。」

その決意を胸に刻み、彼は霧をかき分けるように進んだ。揺れていた視界が徐々に鮮明になり、森の実像が戻りつつある。


「待っていろ……すぐに迎えに行くから。」


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