2 偽りの貴公子
人混みの中、年老いたおじいさんが正座してひどく泣いていた。
対面には、凶暴な男たちが数人立ちふさがり、中央には侯爵の一人息子、慕正義の姿がある。
名前とは裏腹に、まるで無正義ではないか。
今どき、女を脅すなんて。時代遅れにもほどがある。
「慕正義、またそんなことをしているのか。」
「林凛雲か、貴様には関係ない。」
凛雲――それは、凛音が男装する際に使う名で、林家に存在しない「次男」という設定だ。
軍営に身を置くには、林家のご令嬢という身分では不都合が多すぎる。お父様は私を愛し、いざという時に備えて、武器としての力を与えてくれた。
そして、それはあの人――父上の最後の言葉とも重なっている。
「千雪よ、女として身を守ることを忘れるな。お前は一国の王女として生きるのだ。」
凛音は腰に下げた玉佩の珠をそっと外し、気付かれないように慕正義の手元に投げつけた。彼の手が一瞬緩んだ隙に、小さな女の子が凛音の方へと逃げ出そうとしたが、すぐに手下に捕まってしまった。
「正義君、どうかしたのか?」
「ああ、林夫人もいらっしゃいましたか。この娘が万引きをしていたんです。俺がきちんと処理します。」
「そうなの?でも、まだ幼い子供じゃないか。私の顔を立てて、許してあげてはくれないか?」
話を聞いて、女の子は涙をぽろぽろ流しながら叫んだ。
「嘘よ、嘘よ、何もして……!」
言葉が終わらないうちに、男たちはその子を力ずくで引きずっていった。
凛音は母の横顔を見つめ、大きく行動を起こすことができず、歯がゆい思いをかみしめるしかなかった。
「こんなに早く帰ってきてくれたのね。」
「お父様、聞いてください。慕正義がまた……」
凛音が詳しく話を伝える間、お父様は優しく凛音の頭を撫でていた。
「そうか。それならば私が見届けておこう。今夜は慕府で宴が開かれるが、ちょうど良い機会だな。それに、凛律も間もなく戻るだろう。蒼霖国との交渉も無事に進んだようだ。凛音、お前も共に赴きなさい。」
そして夜、宴会の前。
凛音は水色の襦裙の上に、桃色と銀色の糸で舞う花と蝶が繊細に刺繍された薄手の上衣を羽織っている。花と蝶が追いかけ合うように揺れ、歩くたびにふんわりとした動きを見せる。
腰には薄紫の帯が柔らかに結ばれ、その帯には香袋がひとつ添えられている。香袋はごく控えめで、薄い香りがほのかに漂い、ささやかな存在感を放っている。
足元は、桜色の絹靴に、淡い薄荷色の藤蔓模様が控えめに刺繍されている。華美すぎないながらも、柔らかで落ち着いた温かみがある。白磁のように透き通る肌は、薄化粧が施されているだけで、自然な美しさが際立つ。杏花のように美しい瞳は、見る者に柔らかさを感じさせる一方で、時折、鋭く凛とした光を宿すこともある。
「お父様、参りましょう。」
慕府は、まさに贅沢の象徴のような邸宅である。
正門には大きな金色の蛇飾りが施され、両脇には赤い花飾りをつけた巨大な石獅子が鎮座している。門をくぐると、朱塗りの柱と緑色の琉璃瓦で彩られた楼閣が立ち並ぶ中庭が広がっている。
柱の一本一本にまで金粉が散りばめられており、見る者には一見美しく映るが、どこか俗っぽく、庶民の生活とはかけ離れた世界を思わせる。
歩みを進めるたび、灯籠の淡い光が凛音の姿を浮かび上がらせる。宴席に近づくと、人々の視線が驚きと憧れが混ざって彼女に集まるが、凛音はそれを意に介さず、静かに前を見据えて歩みを進める。その清らかな装いが一層引き立っている。
「林将軍、おいでくださったのですね。御令嬢はますます麗しくなられ、まこと目を見張りますな。そろそろ良縁も考えていらっしゃるのでは?」
「慕侯爵、ご冗談を。娘はまだ若く、体もあまり丈夫ではありませんので、もう少しそばに置いておきたいのですよ。」
「そうおっしゃいますが、もう十五歳になられるとか。我が正義にはうってつけでしょう。」
「いえいえ、もったいないお言葉。何しろ目に入れても痛くない可愛い娘ですから、まだしばらくは手元に置いておきたくて。」
慕正義が突然、薄く笑いながら口を開いた。
「フッ、大事な娘かもしれませんが、やがて私の側室になるのですよ。」
凛音は怒りを抑え、控えめに一礼して、その場を離れた。
どんだけ凡骨、自我中心の王さま気取りだよ。
父は賄賂で私腹を肥やし、税金を湯水のごとく浪費して庶民から土地を奪う。
息子は贅沢三昧で、暴行は日常茶飯事。気に入らない相手を容赦なく虐げ、ついには民の娘を強引に奪い取る。
私が、側室だと。痴人に夢を説くものだ。冗談にもほどがある。
いずれ、この男に然るべき報いを与えねばならない。
「凛音、その件だが、あの子娘のことは侯爵に掛け合ったが、無駄だった。そして、彼女のお爺さんは……すでに残虐非道なやり方で殺されていた。明日、朝廷にも訴えに行く。」
死んだのか。やはり、この男は死に値する。
「お父様、私は今夜、ここで失礼いたします。」




