183 ふたりの父たち
「……なあ、父上がこの蔵経閣に籠もってるの、いつまで続けるつもりなんですか?」
壇の階段にしゃがみ込み、朱雀の羽を一枚一枚丁寧に梳いている洵に向かって、蓮はため息まじりに問いかけた。
「朕、もともと皇帝なんてやりたくなかったんだよね。」
洵は手を止めず、朱雀の尾羽を整えながらぼそりと答えると、ふと何かを思い出したように蓮を見上げた。
「お前さ、正直どうなんだ? 雪ちゃんはまあ、国と民のすべてを背負う覚悟がある人だろ。でもお前自身は……少しでも思ったことない? 朕みたいに、名前も立場も捨てて、どこかで静かに暮らしたいって。」
そう言って、洵は足を投げ出し、両手を床についてそのまま仰向けに倒れ込んだ。蔵経閣の天井をぼんやりと見上げながら、ぽつりと続ける。
「……そもそもさ。南宮の血を引くやつで、『本気で皇帝になりたい』なんて思ってるやつ、いるわけ?」
蓮はすぐには言葉を返せず、そのまま洵の隣に腰を下ろした。洵はさらに深く寝転がる。
「蓮、お前だってこの玉座に興味ないだろ? 光も……あいつはたぶん、あの腐った宮廷から抜け出したいだけ。逸に至ってはさ、玉座がほしいんじゃない。誰かに気にかけてほしいだけだよ。」
「……なんか、雪華から戻ってきて以来、父上って、私の前ではもう『演じてるふり』すらしてない気がします。」
「だって、あのときのお前、全部見ちゃったんだもん。もう隠す意味ないでしょ?」
蓮も洵の隣に横になり、天井を仰いだままぽつりと呟いた。
「でも、私は……父上は皇帝に向いてると思います。」
洵はしばらく黙っていた。その沈黙がかえって驚きを強く伝える。蓮はゆっくりと続ける。
「父上は策略に長けていますし、確かに政務には熱心じゃないけれど……民を思う気持ちは本物です。凛凛の父君が、雪華の民を父上に託したのも、それを分かっていたからだと……私は、そう思ってます。」
「……なにそれ。気味悪っ。朕をちょっと褒めたくらいで、『じゃあ帰ります』って流れにしようとしてない?」
「そんなつもりはありません。むしろ、父上がここに籠もっているのは――何か、考えがあってのことだと思っていますから。」
洵は、蓮の言葉に一瞬驚いたあと、不意にふっと笑い出した。
「……いいだろう。じゃあ、朕から教えてやるよ。今、朕がこの蔵経閣を出たら――この盤面は、もう詰みだ。」
「……どういう意味ですか?」
「林府が焼かれた一件。あれの裏には、相当でかい陰謀がある。正直、誰が糸を引いてるかまではまだ見えてこない。でもな、やつらの狙いは林家じゃない。狙われてるのは――南宮家と、雪ちゃんだよ。」
「……どういうことです?」
「林家を潰せば、林家軍がこっちに牙を剥く可能性が一気に高まる。
あるいは、雪ちゃん自身が『復讐』を選んで、朕を討ちに来るって線もある。
どっちに転んでも、『南宮家と太子妃の全面衝突』。」
洵は、天井を見上げたまま、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「この一手、よく考えられてる。南宮家を潰すこともできるし、雪ちゃんを排除することもできる。しかも――朕ら自身の手で、それをやらせるってところが、最高にいやらしいんだ。」
「……でも父上、ここに籠もってるだけってわけにもいかないでしょう?」
「待つの。相手が次の一手を打ってくるのを、じっとね。ま、朕としては内心――いっそお前と雪ちゃんで、あの腐った朝廷も、南宮家も、ついでに母后もろとも皆殺しにしてくれたら楽なんだけど?」
「はぁっ!? ちょっ……!」
「冗談冗談!悪い悪い!」
一方、太子妃となってから初めて、凛音は林家の門をくぐった。
結婚後初の帰省。だが、門の空気は重く、迎える者の顔にも笑みはなかった。
控えの間。
林将軍は既に正座していた。膳は整えられていたが、誰ひとり箸を取ろうとはしなかった。
凛音は立ったまま、正面から問いかける。
「お父様。林家軍の兵が、火薬を林府に運び込んでいた件――本当に、何もご存じなかったのですか?」
将軍はわずかに目を伏せ、低く息を吐く。
「……火薬の移送は把握していた。だが、届け先は『南部訓練地』。手続きも、命令書も、印も正規だった。それが林府に向かっていたなど……聞かされていない。」
凛律が抑えきれぬ声で言う。
「けれど、記録にはおかしな点が多すぎます。出動した部隊の名簿は曖昧で、命令を出した上官も行方が知れない……私は、隊を出た兵が『帰ってきていない』ことを確認しました。」
凛音は、わずかに間を置いて言った。
「帰っていないのではなく――林府の瓦礫の下で、帰れなくなったのではありませんか?」
空気がわずかに軋む。
「証拠も、その瓦礫に埋もれたままかもしれません。でも、『誰が動かしたか』は、今からでも突き止められます。」
将軍は拳を握りしめ、唇を固く結ぶ。
「……私は、欺かれた。だが、それで済む話ではない。林家軍が民を害したとあっては、我が名は地に落ちる。必ず真相を暴く。無辜の命を奪った者が誰であれ、決して赦さぬ。」
凛音は視線をそらさず、わずかに声を和らげる。
「今からでも、遅くはありません、お父様。」
将軍は一瞬瞼を閉じたあと、まっすぐに凛音を見返す。
「徹底的に調べる。たとえ、それが我が軍の者であろうとも。林家の剣は、民を守るためのもの――決して、民に向けるためのものではない……我が妻も、侍も、皆ただの民だった。その重さは、誰よりも知っているつもりだ。」
その言葉に、一片の迷いもなかった。
凛音は、その姿をじっと見つめる。
子どもの頃、将軍がよく言っていた。
「忘れるな。私はお前たちの父である前に、この国の将だ」――
今の彼は、たしかにあの頃のままだった。
……だが、その背には、知らなかった彼が滲んでいた。




