182 刃は決して眠らない
鐘は、今朝も鳴らなかった。石畳を撫でる風が、どこか遠慮がちに吹き抜ける。
禁門の前、整列する官吏たちの裾がふわりと揺れ、誰ひとり口を開かないまま、早朝の冷気を受けていた。
「……本日も、陛下はご回復にならず。御前の儀、差し控えられるとのことにございます。」
内侍の声が、霞のように広がる。
それはもう、六日目の報せだった。
最初の二日は、皆、静かだった。
陛下は高齢ではない。持病があるとも聞かぬ。
ならば風邪か、あるいは喉を痛めたか、そんな言葉が交わされた。
だが三日目には、密やかな噂が流れ始めた。
——陛下は、「出ていない」のではなく、「いない」のではないか。
そして六日目の今日、その不安は確信へと姿を変えた。
王が不在。玉座が空。
それが、言葉を尽くさずとも、この国の頂点が揺らぎはじめたことを意味していた。
「……まことに、御病状であれば、侍医より何らかの報があって然るべきでは?」
「太子殿下は、陛下の御容態を、どこまでご存知なのか……」
「すでに崩御されておるのではと、下々では……」
石階下で、さざ波のように声が揺れる。
中には、玉座を見上げる者すらいた。
そこには、今朝も誰もいない。ただ深紅の垂幕が、静かに揺れているだけ。
「そろそろ、誰かが立たねばならんだろう。」
「太子に、政務を委ねるべきでは——」
「それこそ軽率だ。御年二十にも満たぬ御子に、国が背負えるものか!」
「だが、他に誰がいる?今この国で、玉座に近い者は——」
その時、外殿の簾がすっと上がった。
薄絹の奥から、ひとりの青年が歩み出る。 白銀の縁をあしらった礼服に身を包み、顔には冷や汗の跡が残っている。歩幅は僅かに乱れ、それでも背筋は真っすぐだった。
南宮蓮。
第二皇子。今は太子。
かつてほんの一瞬、「王」であったことがある。
誰にも覚えられなかった、その即位を除いては——
今、この背に、誰の命令もない。
あるのは、彼自身の意思だけだった。
——王がいないならば、誰かがここに立たねばならない。
彼が一歩踏み出すごとに、殿内の空気が変わっていく。
文官たちは顔を伏せ、武官たちは姿勢を正した。
誰も言葉にしないままに、ひとつの場が、確かに始まろうとしていた。
だがそのとき——
ひとりの宦官が、駆け込むように階下に現れた。
「っ、至急の報、至急の報にございます!」
重苦しい空気を割って、その声が響く。
「南方より、密書が。節度使・張懐より直達の密状——!」
蓮の足が止まった。
玉座は、まだ空のままだった。
宦官の手に握られていたのは、黒漆の封蝋で二重に閉じられた文だった。それは、軍から直送される報において、最上位の「緊急連絡」を示す封。
文が解かれ、読み上げられたとき——
殿内の空気が、目に見えて変わった。
「……『白瀾に、もはや明主なし。兵は迷い、民は嘆く。南境の軍心すら揺らぎつつあり、国の柱が定まらぬままならば、我らもまた、それぞれの道を選ばざるを得ぬ』。」
署名は、南方の節度使・張懐。
ざわめきが広がる。
「軍が、太子殿下を支持しないと……?」
「いや、名指しはしていない。『柱が定まらぬ』とは、そういう婉曲だろう。」
「だが、太子妃殿下は林将軍の養女だろう?我々には林将軍がいる。軍を抑えるには、それで十分ではないのか?」
「林将軍が動けば、南方も無視できまい……」
重々しい沈黙の中、落ち着いた声が場を割った。
「だからこそ、今は慎重に進むべきではないでしょうか。」
大理寺の少卿、衛澈が前へと進み出る。
「軍が揺らぐ今こそ、過度な急進は避けるべきです。拙速な決断が、さらなる混乱を招きかねません。」
「では、放置しろというのか?」
年配の文官が苛立ち気味に返す。
「まさか。『君側を正す』とでも?」
「……誰のことを言っている?」
空気が、ぴしりと張りつめた。
それでも衛澈は、一歩も退かず、淡々と続けた。
「ただ一つ、申し上げたいのは——」
彼は、何気ないふうを装って、ゆっくり言葉を紡いだ。
「太子妃殿下が、かつて白瀾に敵対した国の王族のご出身であることは、否定しようのない事実でございます。」
空気が、凍りついた。
その出自に触れる者は、これまでいなかった。
「太子の背後に、かの国の影があるということか。」
「だが、すでに婚姻は成されている。今さら——」
「だからこそ、問題なのだ……国家の安定に関わる!」
壇上の蓮は、拳を握っていた。重たい空気が、殿上を満たしている。彼は、一歩前へ出ると、はっきりと口を開いた。
「……まだ、そんなことを言うのですか!」
低く、けれど明瞭に。
その声音に、かすかな怒りがにじむ。
「彼女は、私の妃です。どこから来たかではなく、『いま、どこに立っているか』を見てほしい。私は——この人と共に、『今のこの国』を守っていきたい。」
一瞬の静寂。
そのとき——
「では、私が答えましょう。」
凛音は、正式な太子妃の礼装を身にまとっていた。
深い藍に銀糸の刺繍がほどこされた長衣は、静かな威厳を宿し、肩には白金の文様が浮かぶ薄紗の羽衣が流れていた。髪は高く結い上げられ、額にはかすかな紅の装飾。首元には、皇族の象徴たる玉佩が静かに揺れている。
これまで常に簡素な装いに徹してきた彼女が、初めて「太子妃」として姿を現した瞬間だった。
その佇まいは、気高さと静謐を湛えながら、誰よりも冷たく美しかった。
まるでこの国の冬そのものが、人の姿を借りて現れたように——
「……太子妃が、朝堂に!」
「不敬では?女子が政に関わるなど――!」
その瞬間、凛音は微笑んだ。
「では、ついでにお伺いしましょうか。皇太后様も政に関与されていますが……そちらも『御退場』いただきますか?」
凛音は、正殿を見渡した。誰もがその視線を避けた。
少詹事・韓定が、ゆるやかに前へ進み出る。彼は礼をとりながら、やや鼻にかかった声で言った。
「それでも、我々は民の不安を背負っております。太子妃がどれほどご立派でも、『敵国の血』という事実が、国政への疑念を招いてしまうのです。」
一刻前——
その朝、凛音はすでに彼と一度、顔を合わせていた。
場所は、朝堂の脇に設けられた控間。本来太子妃が立ち入る場ではなかったが、太子の名代としての入室は黙認されていた。
「早いお着きでございますね、韓詹事。」
凛音は、香気漂う茶の器を自ら運び、その手で彼の前に置いた。
「今朝は冷えますゆえ……こちらをどうぞ。薬膳の薄茶です。御台所から、特に。」
韓定は一瞬、訝しんだように器を見た。
だが凛音はその手前に、もうひとつの物を差し出していた。
一枚の紙。小さな帳簿の切れ端だった。
そこに記されていたのは——
節度使・張懐の密信が到着する一日前、すでに韓定がその内容を南都の書司に漏らしていた記録。加筆された草案に、彼の私印が、僅かに滲んで残っていた。
「……あなたが、この手紙を書いたのですね?」
「証拠など……誰が……!」
「ありませんよ、もちろん。少なくとも、明日までは。」
凛音は微笑んだ。薄く、静かに、まるで茶の香りのように。
「けれど今日のうちに、その『発言』だけは封じておきたいのです。」
彼は震えた。だが凛音は、さらに一歩、声を低くして囁いた。
「南方の将――あなたが私兵を使って村を荒らし、民の金を奪って、それを贈り物に変え、上に媚びへつらっていたこと。私はずっと、見過ごしてきました。いまは戦ではない、いずれ正規の裁きを、と……」
凛音の目が、わずかに細められる。
「ですが今日、耳にしたのです。『あなたが、諸多の若い娘を手籠めにしていた』と。」
沈黙。
「……どうでしたか?贅沢な暮らしに、若い娘に。さぞ、満たされていたのでしょうね。」
その笑みは変わらない。
けれど、気配だけが鋭く、薄氷を踏むように静かだった。
「本当なら、明日の裁きの場まで、命を残しておくつもりでした。でも、こう思ったのです――今夜から、あなたを、あの娘たちのもとへは、もう帰させないと。」
凛音は、最後に小さく笑った。
「……飲んで。そして、言いたいことがあるなら、最後に——朝堂で、全部話してもらうわ。」
韓定の顔から、血の気が引いた。
彼は器を取った。
それが「最後の選択」だった。
現在——
かすかに、水が滴るような音がした。
韓定が、ぐらりと体を揺らす。
「……っ……う……」
彼は口を押さえ、次の瞬間、喉の奥から泡を吹き出し、その場に崩れ落ちた。
「韓詹事……!?」
「医官を!早く!」
「これは、どういう……っ」
凛音は、微動だにせず、それを見ていた。
誰かが彼女を問いただすことを、誰もできなかった。
ただ、その場にいた全員が、理解した。
——「発言には、責任を持て」と。
太子妃は、ただそれを示したにすぎない。
彼女は、ゆったりと一礼した。
「不敬を詫びます。けれど……必要のない声があまりに多いので。玉座が空であるならば、それを汚す声くらい、掃除しておきたかったのです。」
彼女は、太子妃であると同時に——
今なお、民のために刃を振るうことを厭わぬ者である。
冠を戴こうと、名を変えようと、その刃はけっして眠らない。
必要とあらば、それは静かに抜かれ、迷いなく振るわれる。
彼女の心はいつも、正義を抱いてるまま。




