181 光の光
私の名は、南宮光。
けれど、私の人生に「光」があったかどうか、私は知らない。
私の記憶が始まったその日から、空はずっと、同じ色をしていた。
——色のない、やわらかく、静かな黒。
世界は音と匂いと風でできていて、目に見えるものは、ひとつもなかった。
それでも私は、生きている。
この白瀾宮の奥——誰にも知られず、誰にも呼ばれず、
ただひとり、幽かな笛の音と共に。
風のない朝は、退屈だ。
風のある朝は、それだけでうれしい。
障子の向こうをかすめる風は、誰よりもやさしくて、
私の髪をそっと撫でてくれる。
私はそのたびに、耳を澄まして世界を想う。
庭の石畳、針葉樹の匂い、燕の羽音、土の湿り……
私の世界は、小さくて、それでも、果てしない。
ある日、若い宮女が、湯を運んで来た。
——かちゃん。
小さな音がして、湯碗のひとつが砕けた。
「っ……!」
彼女は息を呑み、気配を消そうとした。
……私に気づかれたくなかったのだろう。
でも私は、その音で彼女の手の震えを知り、
布のこすれる音で、着物の色を想像し、
かすかな石鹸の香りから、朝の洗顔を思った。
私には見えないけれど、私はすべてを見ていた。
「ありがとう。また、明日も、来てくれるかな?」
彼女は一瞬の沈黙のあと、小さく「はい」と答えた。
その声は、たぶん、微笑んでいたと思う。
私の世界は、見えない。
けれど、誰かの温もりや、過ぎていく季節、
それらのすべてが、私の中に、ちゃんと映っている。
たまに、私は思う。
——本当に、私は「何も見えていない」のだろうか?
私は目を閉じていても、月の光を感じる。
あの、ひんやりとした、やわらかな白い光が、
夜の静けさごと、私の肩に降りてくるのを。
私は笛を吹く。
音と一緒に、光が揺れていくのを「見る」。
その光は、色を知らないけれど、優しさを知っている。
昼の太陽も、わかる。
あたたかくて、ちょっと痛くて、じんわりと身体を焦がすような——
その熱がまぶたの奥を照らすとき、私は思う。
きっと、これは「見えないもの」じゃない。
ただ、違う形で私に届いているだけだ。
太陽の中には、灰色がまじっている。
まっくらな視界の奥で、灰が燃えて、
淡い光の尾が、ちらちらと揺れている。
……私は、この世界の「第一皇子」として生まれたらしい。
けれど、それがどんなものかは知らない。
継ぐ気もないし、継げるとも思わない。
この目が見えぬ理由も、長らく教えられなかった。
けれどある日、祖母上様が、わざわざ冷宮まで足を運び、こう言った。
「おまえは、あの女の血を引いているからだよ。私の嫌いな妃の、出来損ないの子。」
笑いながらそう告げられた時、私はまだ七つだった。
のちに宮女たちの囁きから知った。
私は、生まれてすぐに、禁忌とされる薬を服まされたのだと。
その目を潰すために。正統な「長子」として立てぬように。
噂では、蓮の母君——私の義母が、それを知り、解毒を試みたとも聞く。
だが彼女は失敗し、その責を負って、自ら命を絶ったのだと。
私はその人に会った記憶すらない。
けれど、春の終わりに差し入れられる薄荷湯の香りに、
なぜか胸が締めつけられることがある。
……蓮。私の弟。
私がこの十八年間で、唯一、心を寄せられた人。
彼は幼い頃、よく私の部屋の前で立ち止まっていた。
中に入ることもなく、戸の外で話しかけてくる。
「今日ね、好きな子ができたんだよ。」
その子は他国の娘で、強くて、笑顔がまぶしくて、でも——
……好きになっていいのか、ちょっと迷ってる、と。
彼はいつも迷いながら、それでもまっすぐだった。
年を重ねるうちに、彼はこう言った。
「私、王位なんてどうでもいいんだ。ただ、彼女の隣にいたい。」
「その子は文より武を好むから、医術を学び始めたとも言っていた。
目の見えない兄貴に、何かしてやれるかもしれないからな」
……泣きそうになった。
でも私は、黙って笛を吹き続けた。
彼が最後に来たのは、一年前のことだった。
「兄貴……行ってくるよ。彼女が、白瀾を離れた。
私、絶対に追いつく。今、ここで手を離したら、それは永遠の別れになる気がするから。」
そう言って、蓮は去った。
それから一度も、彼の気配を感じていない。
でも、噂は届いてくる。
数日だけ皇帝に立ち、また譲り、今は太子として宮に戻っていると。
奇妙だと思った。戻ったのに、私の前には現れない。
もっと奇妙なのは、皇太后殿下だ。
幽閉されたはずなのに、翌朝には何事もなかったように現れていた。
……ねえ、これは、私だけが知っている世界?
私の時間だけが、誰にも繋がっていないの?
私は、ここにいるよ。ずっと、ここに。
——「光」という名を持ちながら、誰にも知られぬままに。
私はこの十八年、何も見ずに、すべてを見てきた。
扉の向こうのざわめき、廊下の石が踏まれる間隔、
密やかな息遣いの乱れ、香の種類の変化、
そして、名を伏せて交わされる言葉の切れ端——
この白瀾の宮廷は、噓と沈黙と、帳簿のような笑顔でできている。
誰もが何かを隠し、誰もが何かを演じている。
誰が上に立とうと、誰が死のうと、
この劇場は回り続ける。
壊すまでもない、いずれ勝手に崩れていくものだ。
私は、最初の頃こそ憤りを覚えた。
けれど気づけば、感情はとうに擦り減り、
代わりに残ったのは、奇妙な好奇心だった。
ああ、この人は今日も、ああやって嘘をつくんだな。
その笑顔の奥に、どんな恐れを隠しているんだろう。
……そんなふうに、私は静かな観客になった。
誰にも見えない場所から、
私は「劇」の進行を見守っている。
光を持たぬこの瞳で、
誰よりも深く、世界を視ている。
ただ——
もし、この玉座の上に座るのが、蓮であるなら。
もし、その背にまで、この歪んだ劇の影が降りかかるのだとしたら。
そのとき私は、
初めて、この「舞台」が壊れてほしくないと——
そんなことを、思ってしまうのかもしれない。
とはいえ、私は、今日もここで、光を見る。
目はなくても、ちゃんと、見ている。
この劇の果てに、何が起ころうとも。
私は見届けよう。弟の行く先も、この宮廷の終幕も。
私の名は、南宮光。
目に見えるものは何ひとつなくても、
この世界には、たしかに、光がある。




