180 闇の闇
王都西部の町並みは、まだ薄明のなかにあった。朝靄がゆるやかに瓦屋根を包み、石畳には昨夜の冷気がかすかに残る。洗い桶の水が音を立て、油と塩の匂いにまぎれて、日々の営みが流れていた。まるで、昨夜の血の記憶などなかったかのように。
——ただ一隅に、それはあった。
門の柱にかけられた白い喪の綢、香炉にはまだ薄煙が揺れ、灰が音もなく降り積もってゆく。時が、そこだけ止まったかのようだった。
屋の奥から、ひそやかな子守歌が流れてくる。それは母が亡き子に贈る鎮魂の調べ——細く、細く、けれども、胸の奥に深く残る声。
凛音は足を止め、その扉の前に静かに立ち尽くす。一言もなく、ただ耳を澄ませていた。
その傍らに立つ男――淡銀の髪に、水色の衣を纏った浮遊もまた、物言わずに佇んでいた。そのまなざしは、やさしさを湛えながらも、どこか痛みを抱えている。
「……神に守られし都とて、玉のごとく無傷ではいられぬか。
裂け目とは、誰の目にも触れぬところで、静かに、静かに広がってゆくものだな。」
そう呟くと、彼はふと天を仰ぎ見る。
まるで、空の向こうにいる誰かに語りかけるように。
「……朱雀が守るこの国も、あの雪華と同じ道を辿るのかもしれぬ。
鳳華と並んで歩いた、あの薄暮の街並みが思い出される。
泣いていた子も、灯を絶やさぬ老も……あの街に生きていた、皆が——」
ぽつりと漏らしたその声に、凛音は目を伏せたまま、そっと返した。
「裂け目があるのなら、それを繕うのは人のこころ。
この国を守るのは、天命ではなく、私たちの意思よ。」
ほんの短い応酬。されど、その場に漂う空気は確かに変わった。
それは、哀しみに呑まれるのではなく、哀しみを越えてなお歩む者の、歪んでいない気魄——
通りのあちこちに、かすかなざわめきが生まれる。
凛音の姿を見て、民の目が集まった。
「……あれは、太子妃さまじゃないか?」
「ほんとうに一人で来たのか?」
最初に洩れたのは、驚きと、戸惑い。
やがて、まっすぐに頭を下げる者も現れる。
「ようこそお越しくださいました。わたしたちの声を、どうか……」
しかし同じ空気のなか、別の声も重なる。
「こんなときだけ来て、見回るふりでもする気か?」
「誰かが命を落としたあとで来ても、意味はないのに……」
その言葉に、誰もが一瞬息を呑む。
だが凛音は、何も言わず、ただその場に立ち続ける。
感情を揺らすことなく、すべての声を黙って聞き届けていた。
やがて、彼女は足を動かし、ひとつの小さな路地に入る。
そこは、数日前に血が流れた場所——今は洗い清められ、痕跡は何ひとつ残っていない。
けれど、彼女は立ち止まり、ふとそばの通行人に問いかけた。
「……ここで、誰かが殺されたのでしょう?
痕はもう見えないけれど、空気がまだ、少し重いの。血の匂い……」
通りすがりの男が小さく頷く。
「ええ。あの日の晩、若い衛兵がひとり、ここで倒れていたそうです。
民をかばって……それきり、二度と戻らなかったと。」
凛音はそっと目を伏せた。
そのまま、ほんのひと呼吸だけ、沈黙が流れた。
「……情報と違うな。死んだのは、民だったはずだろ?」
浮遊が小声で呟く。凛音は足を止め、わずかに頭を上げた。
「——衛澈が意図的に情報を伏せたか、あるいは……他にも、誰かが。」
そのとき、不意に彼女の視線が、壁の片隅に留まった。
浅く刻まれた、月のような半弧の印。
それは、かつての仲間だけが知る、ある「印し」だった。
「……『半月の彫り』。望月公会の印ね。」
凛音は周囲を一瞥すると、まっすぐに路地裏の茶館へ向かった。人通りのない裏庭を抜け、苔むした石板をわずかにずらす。軋むような音を立てて、そこに現れたのは、地下への暗き口。
その先、蝋燭ひとつの灯が揺れる小屋の中。
一人の男が立っていた。黒き衣に銀の面——
面差しは隠されていても、凛音の姿を見るや、すぐに頭を垂れた。
「……千雪様。」
凛音は一歩踏み入り、淡く返す。
「白瀾に戻ってきてから……あなた方と顔を合わせるのは、初めてね。」
空気が、ぴんと張りつめる。
二人の間に交わされた言葉は少なかったが、剣のような静けさがそこにあった。
「事件のあと、あの路地にお前たちの印が残っていた。
わたしが来たのは——確認のためよ。」
男は首を横に振った。
「違う。我らは、『殺すべき者』しか殺さぬ。
民を巻き込むことは、望月の掟に反します。」
凛音はふっと笑った。
「……ならば、この『闇』は、あなたたち以外のもの。
それが分かっただけで、充分よ。」
面の奥から、男の声が続く。
「我らは、まだ貴女に『借り』がある。
必要とあらば、また——影として動く。」
凛音は頷くと、踵を返し、静かに地下を後にした。
夜の帳が降りる街角で、浮遊が待っていた。
彼は腕を組み、軽くため息をついた。
「……おまえ、昔はもっと怖かったぞ?」
凛音は横目で彼を見やり、口の端を上げた。
「いまでもよ。」
突然、ひとりの子どもが、そっと凛音のもとへ歩み寄った。その手には、小さな布で丁寧に縫われた護符が握られている。
「これは……亡くなったお兄ちゃんが、いつか王族に渡すんだって……」
凛音は両手でそれを受け取り、優しく微笑んで応えた。
「ありがとう——必ず、みんなを守ってみせるわ。」
その頃、太子宮の渡り廊下を、急ぎ足の近侍が駆けてゆく。
「——太子殿下、太后様より、今すぐ御前へとの仰せです。」
蓮は手を止め、ふと眉を寄せた。
「今すぐ、か……わかった。」
軽く羽織を整え、廊を出る。日光に濡れた石畳が足音を吸い込んでゆく。
太后の御殿は、昼の喧騒を忘れたように静まり返っていた。だが、その静けさの奥に、何かが潜んでいる——そんな気配を、蓮は扉の前で感じ取った。
「……入ります。」
襖を開けると、そこに座すのは、年老いながらも目に威光を宿した太后。衣紋は乱れていない。だが、香炉の煙がいつもより濃いのは、彼女の心中を映すものだった。
「……太子。」
声は静かだった。だが、厳しさを隠そうともしない。
「お前の妃が出向いたその直後に、付き添いの女官が命を絶ったと、今しがた知らせがあった。」
蓮は目を伏せ、深く一礼する。
「承知しております。すでに調査を——」
「調査ではない、蓮。」
太后はぴしゃりと遮る。
「これは、宮中の『躾』の問題だ。わかるか?女官が死ぬというのは、ただの不祥事ではない。王妃の器、そしてその周囲の人間に、何が起きているのかを世に問われることなのだ。」
蓮は、静かに顔を上げた。
「凛音は、何も知らされておりません。蕾花が……なぜあのような選択をしたのか、現時点では明らかではない。ですが、彼女が一人で背負った痛みに、私たちが応えずにいて、誰が報いるというのですか。」
「綺麗事を言うな。」
太后はゆるく扇子を閉じ、ひと息、間を置いた。
「お前はそう言うが、私は——太子妃が手を下したのだと思っている。」
冷ややかな声音が、堂内に落ちた。
「お前は昔から、情に流されやすい。だが、王の伴侶とは『情』ではなく『格』で選ばれるのだ……そろそろ、そのことを忘れるな。」
その言葉には、何重もの意味が込められていた。
蓮は、ぐっと一歩、前へと踏み出した。その足音は、まるで朝堂を割るように響いた。
「……祖母上。そう仰るのなら、はっきり申し上げましょう。」
声音は低く、しかし鋭く。
「凛音を陥れたのは——あなたではありませんか。」
ざわり、と空気が揺れた。
「私は、彼女を信じています。彼女は、真実から目を逸らさない人ですから。」
太后は一拍置いてから、ふっと笑った。だがその笑みに、慈愛の色は微塵もない。
「ならば——見せてみよ。」
その声も冷たく、まるで試すようだった。
「お前が選んだその女が、国を腐らせる『毒』か……それとも、干からびた幹にすがる最後の『支え』か。」
扇が、乾いた音を立てて、ぴたりと閉じられた。
それはまるで、誰かの命運が決まった音のようだった。
夜更け。
凛音は一人、燈火のもとで袖の内に忍ばせた護符を取り出した。子どもから手渡されたその護符。柔らかな布の中に、確かな異物感があった。糸の継ぎ目をそっとほどくと、細い紙片が、ぺたりと指に触れた。
それを開いた瞬間、凛音の指が、微かに震える。
そこに記されていたのは——
「火薬、林家軍自ら運び入れ。
最終搬入先は、林府。」
……林家軍が、火薬を?林府へ?
あの爆発は、「外からの襲撃」ではなく——「内側」から?
凛音は、一瞬、呼吸を止めた。
なぜ。何のために。
これが真実なら、林家は国家を欺いた。
だが、これが偽りなら、林家は何者かに陥れられようとしている。
真実と陰謀の境目は、薄氷のように脆い。
凛音は、掌の中で紙片をもう一度見つめた。
その端に、わずかに墨の色の違う一行が、にじむように書き加えられていた。
筆跡は乱れており、ところどころ濡れて滲んでいる。
「誰も信じられなくても……あなたなら、真実を探すと思った。」
まるで、託すように。
まるで、祈るように。
それは、告発とも願いともつかぬ、小さな命の声だった。
凛音は目を伏せ、そっと紙片を畳んだ。
たとえこの指がふるえても——目だけは、そらさない。
信じたい気持ちと、疑うべき現実。
その狭間に立たされながら、彼女は再び、闇へと歩き出した。




