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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十六章:風は南より来たりて、林を拂う
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180 闇の闇

 王都西部の町並みは、まだ薄明のなかにあった。朝靄がゆるやかに瓦屋根を包み、石畳には昨夜の冷気がかすかに残る。洗い桶の水が音を立て、油と塩の匂いにまぎれて、日々の営みが流れていた。まるで、昨夜の血の記憶などなかったかのように。


 ——ただ一隅に、それはあった。

 門の柱にかけられた白い喪のちゅう、香炉にはまだ薄煙が揺れ、灰が音もなく降り積もってゆく。時が、そこだけ止まったかのようだった。


 屋の奥から、ひそやかな子守歌が流れてくる。それは母が亡き子に贈る鎮魂の調べ——細く、細く、けれども、胸の奥に深く残る声。


 凛音は足を止め、その扉の前に静かに立ち尽くす。一言もなく、ただ耳を澄ませていた。


 その傍らに立つ男――淡銀の髪に、水色の衣を纏った浮遊もまた、物言わずに佇んでいた。そのまなざしは、やさしさを湛えながらも、どこか痛みを抱えている。

「……神に守られし都とて、玉のごとく無傷ではいられぬか。

 裂け目とは、誰の目にも触れぬところで、静かに、静かに広がってゆくものだな。」


 そう呟くと、彼はふと天を仰ぎ見る。

 まるで、空の向こうにいる誰かに語りかけるように。


「……朱雀が守るこの国も、あの雪華と同じ道を辿るのかもしれぬ。

 鳳華と並んで歩いた、あの薄暮の街並みが思い出される。

 泣いていた子も、灯を絶やさぬ老も……あの街に生きていた、皆が——」


 ぽつりと漏らしたその声に、凛音は目を伏せたまま、そっと返した。


「裂け目があるのなら、それを繕うのは人のこころ。

 この国を守るのは、天命ではなく、私たちの意思よ。」


 ほんの短い応酬。されど、その場に漂う空気は確かに変わった。

 それは、哀しみに呑まれるのではなく、哀しみを越えてなお歩む者の、歪んでいない気魄——


 通りのあちこちに、かすかなざわめきが生まれる。

 凛音の姿を見て、民の目が集まった。


「……あれは、太子妃さまじゃないか?」

「ほんとうに一人で来たのか?」


 最初に洩れたのは、驚きと、戸惑い。

 やがて、まっすぐに頭を下げる者も現れる。


「ようこそお越しくださいました。わたしたちの声を、どうか……」


 しかし同じ空気のなか、別の声も重なる。


「こんなときだけ来て、見回るふりでもする気か?」

「誰かが命を落としたあとで来ても、意味はないのに……」


 その言葉に、誰もが一瞬息を呑む。

 だが凛音は、何も言わず、ただその場に立ち続ける。

 感情を揺らすことなく、すべての声を黙って聞き届けていた。


 やがて、彼女は足を動かし、ひとつの小さな路地に入る。

 そこは、数日前に血が流れた場所——今は洗い清められ、痕跡は何ひとつ残っていない。


 けれど、彼女は立ち止まり、ふとそばの通行人に問いかけた。


「……ここで、誰かが殺されたのでしょう?

 痕はもう見えないけれど、空気がまだ、少し重いの。血の匂い……」


 通りすがりの男が小さく頷く。


「ええ。あの日の晩、若い衛兵がひとり、ここで倒れていたそうです。

 民をかばって……それきり、二度と戻らなかったと。」


 凛音はそっと目を伏せた。

 そのまま、ほんのひと呼吸だけ、沈黙が流れた。


「……情報と違うな。死んだのは、民だったはずだろ?」

 浮遊が小声で呟く。凛音は足を止め、わずかに頭を上げた。

「——衛澈が意図的に情報を伏せたか、あるいは……他にも、誰かが。」


 そのとき、不意に彼女の視線が、壁の片隅に留まった。

 浅く刻まれた、月のような半弧の印。

 それは、かつての仲間だけが知る、ある「印し」だった。


「……『半月の彫り』。望月公会の印ね。」


 凛音は周囲を一瞥すると、まっすぐに路地裏の茶館へ向かった。人通りのない裏庭を抜け、苔むした石板をわずかにずらす。軋むような音を立てて、そこに現れたのは、地下への暗き口。


 その先、蝋燭ひとつの灯が揺れる小屋の中。

 一人の男が立っていた。黒き衣に銀の面——

 面差しは隠されていても、凛音の姿を見るや、すぐに頭を垂れた。

「……千雪様。」


 凛音は一歩踏み入り、淡く返す。

「白瀾に戻ってきてから……あなた方と顔を合わせるのは、初めてね。」


 空気が、ぴんと張りつめる。

 二人の間に交わされた言葉は少なかったが、剣のような静けさがそこにあった。


「事件のあと、あの路地にお前たちの印が残っていた。

 わたしが来たのは——確認のためよ。」


 男は首を横に振った。

「違う。我らは、『殺すべき者』しか殺さぬ。

 民を巻き込むことは、望月の掟に反します。」


 凛音はふっと笑った。

「……ならば、この『闇』は、あなたたち以外のもの。

 それが分かっただけで、充分よ。」


 面の奥から、男の声が続く。

「我らは、まだ貴女に『借り』がある。

 必要とあらば、また——影として動く。」


 凛音は頷くと、踵を返し、静かに地下を後にした。


 夜の帳が降りる街角で、浮遊が待っていた。

 彼は腕を組み、軽くため息をついた。

「……おまえ、昔はもっと怖かったぞ?」


 凛音は横目で彼を見やり、口の端を上げた。

「いまでもよ。」


 突然、ひとりの子どもが、そっと凛音のもとへ歩み寄った。その手には、小さな布で丁寧に縫われた護符が握られている。

「これは……亡くなったお兄ちゃんが、いつか王族に渡すんだって……」


 凛音は両手でそれを受け取り、優しく微笑んで応えた。

「ありがとう——必ず、みんなを守ってみせるわ。」


 その頃、太子宮の渡り廊下を、急ぎ足の近侍が駆けてゆく。

「——太子殿下、太后様より、今すぐ御前へとの仰せです。」


 蓮は手を止め、ふと眉を寄せた。

「今すぐ、か……わかった。」

 軽く羽織を整え、廊を出る。日光に濡れた石畳が足音を吸い込んでゆく。


 太后の御殿は、昼の喧騒を忘れたように静まり返っていた。だが、その静けさの奥に、何かが潜んでいる——そんな気配を、蓮は扉の前で感じ取った。

「……入ります。」


 襖を開けると、そこに座すのは、年老いながらも目に威光を宿した太后。衣紋は乱れていない。だが、香炉の煙がいつもより濃いのは、彼女の心中を映すものだった。

「……太子。」

 声は静かだった。だが、厳しさを隠そうともしない。

「お前の妃が出向いたその直後に、付き添いの女官が命を絶ったと、今しがた知らせがあった。」


 蓮は目を伏せ、深く一礼する。

「承知しております。すでに調査を——」


「調査ではない、蓮。」

 太后はぴしゃりと遮る。

「これは、宮中の『躾』の問題だ。わかるか?女官が死ぬというのは、ただの不祥事ではない。王妃の器、そしてその周囲の人間に、何が起きているのかを世に問われることなのだ。」


 蓮は、静かに顔を上げた。

「凛音は、何も知らされておりません。蕾花が……なぜあのような選択をしたのか、現時点では明らかではない。ですが、彼女が一人で背負った痛みに、私たちが応えずにいて、誰が報いるというのですか。」


「綺麗事を言うな。」

 太后はゆるく扇子を閉じ、ひと息、間を置いた。

「お前はそう言うが、私は——太子妃が手を下したのだと思っている。」


 冷ややかな声音が、堂内に落ちた。

「お前は昔から、情に流されやすい。だが、王の伴侶とは『情』ではなく『格』で選ばれるのだ……そろそろ、そのことを忘れるな。」

 その言葉には、何重もの意味が込められていた。


 蓮は、ぐっと一歩、前へと踏み出した。その足音は、まるで朝堂を割るように響いた。

「……祖母上。そう仰るのなら、はっきり申し上げましょう。」

 声音は低く、しかし鋭く。

「凛音を陥れたのは——あなたではありませんか。」


 ざわり、と空気が揺れた。


「私は、彼女を信じています。彼女は、真実から目を逸らさない人ですから。」


 太后は一拍置いてから、ふっと笑った。だがその笑みに、慈愛の色は微塵もない。

「ならば——見せてみよ。」

 その声も冷たく、まるで試すようだった。

「お前が選んだその女が、国を腐らせる『毒』か……それとも、干からびた幹にすがる最後の『支え』か。」


 扇が、乾いた音を立てて、ぴたりと閉じられた。

 それはまるで、誰かの命運が決まった音のようだった。


 夜更け。

 凛音は一人、燈火のもとで袖の内に忍ばせた護符を取り出した。子どもから手渡されたその護符。柔らかな布の中に、確かな異物感があった。糸の継ぎ目をそっとほどくと、細い紙片が、ぺたりと指に触れた。


 それを開いた瞬間、凛音の指が、微かに震える。

 そこに記されていたのは——


「火薬、林家軍自ら運び入れ。

 最終搬入先は、林府。」


 ……林家軍が、火薬を?林府へ?

 あの爆発は、「外からの襲撃」ではなく——「内側」から?


 凛音は、一瞬、呼吸を止めた。


 なぜ。何のために。


 これが真実なら、林家は国家を欺いた。

 だが、これが偽りなら、林家は何者かに陥れられようとしている。


 真実と陰謀の境目は、薄氷のように脆い。

 凛音は、掌の中で紙片をもう一度見つめた。


 その端に、わずかに墨の色の違う一行が、にじむように書き加えられていた。

 筆跡は乱れており、ところどころ濡れて滲んでいる。


「誰も信じられなくても……あなたなら、真実を探すと思った。」


 まるで、託すように。

 まるで、祈るように。

 それは、告発とも願いともつかぬ、小さな命の声だった。


 凛音は目を伏せ、そっと紙片を畳んだ。

 たとえこの指がふるえても——目だけは、そらさない。

 信じたい気持ちと、疑うべき現実。

 その狭間に立たされながら、彼女は再び、闇へと歩き出した。

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