179 夜明けに還る神と、散りし花
夜が明けきらぬ王宮に、まだ月の余光が残る頃——
太子殿の書房に、ひとつ、蝋燭の灯が揺れていた。
そこは、蓮の執務空間。
……いや、今や「ふたりの」政の場と呼ぶべきだろう。
「——これで、王都の南門の警備は再配置完了。異論は?」
「ありません。衛兵長からも同意を得ています。」
凛音は、手元の文に朱筆を走らせながら、凛と答えた。
蓮は静かにうなずき、そっと彼女の湯呑みに茶を注ぐ。
「ありがとう、でもお茶くらい自分で——」
「夫婦だろ?これくらい、労わせてよ。」
ふたりの間に、かすかな笑みが交わされる。
その瞬間——
「なにが『夫婦』よ。聞いて呆れるわね。いまだに別の榻で寝てるくせに。」
朱雀がぱっと飛び出してきた。
羽を広げて身体を包みこみながら、いかにもご機嫌な様子で。
「そうね、どちらかというと、もはや『共に戦う戦友』ってところかしら。」
浮遊も、どこからともなくふわりと浮かび、さらりと合いの手を入れてきた。
蓮は思いきり大げさに目をむいた。
「……最近、おまえら神獣、ほんとに暇なんじゃないか?いっそ、人の姿で奏章でも捌いてみる?」
「は!?なんで我らがそんなことを!?それ、臣下の仕事じゃないですか!?」
「いやいや、どう見ても暇そうだったからさ。」
浮遊は呆れたように肩をすくめ——それでも、凛音をちらりと見つめた。
思い出したのは、かつてただ一度だけ、人の姿となって、鳳華と共に歩いた日。
「……ふむ、じゃあ、ちょっとやってみようか。」
言うなり、その身体がふわりと揺れた。
次の瞬間、彼は人の姿になり、凛音のもとへと歩み寄っていった。
その男は、雪を溶かす月光のように白く滑らかな肌を持ち、瞳は澄み切った青の泉——静かに、深く、吸い込まれるような青であった。どこか人間離れしたその気配は、ただそこに立っているだけで空気を変える。
彼の髪は、霜夜に舞う銀糸のごとく、純白にして淡く光を帯びた銀。風が吹けばふわりと揺れ、その一本一本が、淡い光を映していた。髪には、雪中に咲く雪蓮の小さな飾りがひとつ——遠い記憶の中から持ち出されたように添えられている。
身にまとうのは水面のように透き通る水色の長衣。肩や袖口には淡い波紋模様が浮かび、動くたびに薄絹の衣がやさしく揺れる。腰には氷玉のような飾りがひとつだけ。
その姿は、まるで霧の彼方から現れた、古き龍の幻影——人の理を超えた存在でありながら、どこか懐かしさを含んだ、静謐な美しさを湛えていた。
「浮遊?」
蓮と凛音、そして朱雀まで、同時に声を上げた。
蓮は再び朱雀に白い目を向ける。
「……そんなに驚くことか?お前も神獣だろうが!」
「そりゃそうだけど!でもこれは初めて見る姿だしっ!」
朱雀はふわりと浮遊のまわりを一周、くるりと旋回した。
「朱雀、お前も変身してみたらどうだ?どうせ男でも女でも、ツッコミ体質なのは変わらんだろ!」
「……なっ!なにその言い草!?」
ぷるぷると羽を震わせたかと思えば、朱雀はばさっと羽ばたいて、蓮の頭の上へ飛び乗った。
「最近さぁ、凛音と結婚してからって、ちょっと調子に乗ってない?なんかこう……余裕顔すぎるっていうか!」
「い、痛っ……ちょ、おい、突くなって……!」
朱雀はくちばしでツンツンと蓮の頭を突きながら、えらそうに腰を下ろして座り込む。
「まったくもう……人の頭をなんだと思ってんだ。」
その様子を見ながら、朱雀がふと浮遊のほうを振り返る。
「それにしても、浮遊。お前って、どれだけ人間好きなのよ?」
浮遊は朱雀に構うことなく、凛音のそばへと歩み寄り、一枚の奏章を手に取った。
「鳳華に文字を教わったん……昔からずっと夢見てたんだよ。凛音が雪華の女王になって、わしがそばで補佐するって。」
その何気ない一言が、部屋の空気を張りつめさせた。
蓮は、ゆっくりと拳を握る。
朱雀も、さすがに黙り込む。
凛音は目を伏せたままだった。
「ま、まあ、雪華はもうないけど、民はいるし、今は白瀾の管理下にある。君らが白瀾の王と后になるなら、それもそんなに変わらないさ。」
そう言って、浮遊はぷいと顔をそらし、照れくさそうに言葉を継いだ。
「……違うわ。たとえ雪華の民がこの国で暮らしていたとしても、全員が『幸せに』なっていないなら、それは全く別の話よ。」
凛音のひと言が、書房の空気を一気に沈黙で満たした。
蓮と凛音は、そっと視線を交わす。
けれど、あえてその話題を深くは追わず——
凛音は手元の湯呑を一息で飲み干した。
「……蓮。今日、出かけてくるわ。」
「どこへ?」
「王都の西部……あの夜、一番被害の大きかった通りへ。」
凛音の声に、室内の空気がわずかに緊張を帯びる。
「報告では、暗殺者の何人かがその区画に逃げ込んだらしいわ。民間の犠牲も多かった。だからこそ、行ってみたいの。現場を見ずに『善政』なんて語れないもの。」
蓮はしばらく黙していたが、やがて静かに頷いた。
「……わかった。」
そのとき、朱雀がふわりと舞い、浮遊の肩にとまった。
「ったく……数千年も生きてて空気も読めないなんて、無駄に長生きしてるんじゃないの?」
「なっ!?わしにそんなつもりは……!」
「ふーん。だったら、一緒に凛音についていけば?愛と忠義の神獣様。つまんない!」
蓮は苦笑しながら言った。
「まあでも、最小人数で、最強の護衛——頼もしいよ。でも……気をつけて。」
凛音はふっと微笑み、彼の言葉にうなずいた。
「うん。必ず戻る。夕餉には、ちゃんと間に合うようにね。」
その後、書類を片づけながら、静かに立ち上がる。
そこにいたのは、もはや一介の妃でも、王女でもない。
——その背に、王たる者の気魄を、確かに宿していた。
脇に控えるのは、若い女官・蕾花。
凛音のあとに続き、数歩離れて無言のまま歩いていく。
しばらく沈黙が続いたのち、蕾花がぽつりとこぼした。
「……太子妃殿下は、昔から、こういう政の場にも慣れていらしたのですか?」
凛音は歩みを止めず、少し笑って返す。
「慣れてなんて、いないわ。ただ……誰かがやらなきゃいけないときって、あるでしょ?」
「……はい。」
その答えに、蕾花の眼差しが一瞬揺れる。
そして、ほんのかすかにうつむいた。
「でも、そういう時、わたしみたいな者には……無理ですから。」
——その声は、まるで水底に沈む泡のように、道の途中で消えていった。
凛音は立ち止まり、振り返らずに微笑む。
「……ありがとう、蕾花。ここからは、わたしと浮遊だけで大丈夫よ。あなたは、戻って。」
「……かしこまりました。」
そう答えた蕾花の声には、かすかな熱が宿っていた。
凛音の背を見送りながら、彼女はそっと歩みを止める。
——そこは、人目の届かぬ回廊の端。
誰にも気づかれぬよう、懐から一振りの短剣を取り出す。
柄を握る手に、迷いはない。
朝靄の中、蕾花の姿は、静かにその場から消えた。




