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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十六章:風は南より来たりて、林を拂う
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179 夜明けに還る神と、散りし花

 夜が明けきらぬ王宮に、まだ月の余光が残る頃——

 太子殿の書房に、ひとつ、蝋燭の灯が揺れていた。


 そこは、蓮の執務空間。

 ……いや、今や「ふたりの」政の場と呼ぶべきだろう。


「——これで、王都の南門の警備は再配置完了。異論は?」

「ありません。衛兵長からも同意を得ています。」


 凛音は、手元の文に朱筆を走らせながら、凛と答えた。

 蓮は静かにうなずき、そっと彼女の湯呑みに茶を注ぐ。


「ありがとう、でもお茶くらい自分で——」

「夫婦だろ?これくらい、労わせてよ。」


 ふたりの間に、かすかな笑みが交わされる。

 その瞬間——


「なにが『夫婦』よ。聞いて呆れるわね。いまだに別の榻で寝てるくせに。」

 朱雀がぱっと飛び出してきた。

 羽を広げて身体を包みこみながら、いかにもご機嫌な様子で。


「そうね、どちらかというと、もはや『共に戦う戦友』ってところかしら。」

 浮遊も、どこからともなくふわりと浮かび、さらりと合いの手を入れてきた。


 蓮は思いきり大げさに目をむいた。

「……最近、おまえら神獣、ほんとに暇なんじゃないか?いっそ、人の姿で奏章でも捌いてみる?」


「は!?なんで我らがそんなことを!?それ、臣下の仕事じゃないですか!?」

「いやいや、どう見ても暇そうだったからさ。」


 浮遊は呆れたように肩をすくめ——それでも、凛音をちらりと見つめた。

 思い出したのは、かつてただ一度だけ、人の姿となって、鳳華と共に歩いた日。


「……ふむ、じゃあ、ちょっとやってみようか。」


 言うなり、その身体がふわりと揺れた。

 次の瞬間、彼は人の姿になり、凛音のもとへと歩み寄っていった。


 その男は、雪を溶かす月光のように白く滑らかな肌を持ち、瞳は澄み切った青の泉——静かに、深く、吸い込まれるような青であった。どこか人間離れしたその気配は、ただそこに立っているだけで空気を変える。


 彼の髪は、霜夜に舞う銀糸のごとく、純白にして淡く光を帯びた銀。風が吹けばふわりと揺れ、その一本一本が、淡い光を映していた。髪には、雪中に咲く雪蓮の小さな飾りがひとつ——遠い記憶の中から持ち出されたように添えられている。


 身にまとうのは水面のように透き通る水色の長衣。肩や袖口には淡い波紋模様が浮かび、動くたびに薄絹の衣がやさしく揺れる。腰には氷玉のような飾りがひとつだけ。


 その姿は、まるで霧の彼方から現れた、古き龍の幻影——人の理を超えた存在でありながら、どこか懐かしさを含んだ、静謐な美しさを湛えていた。


「浮遊?」

 蓮と凛音、そして朱雀まで、同時に声を上げた。


 蓮は再び朱雀に白い目を向ける。

「……そんなに驚くことか?お前も神獣だろうが!」


「そりゃそうだけど!でもこれは初めて見る姿だしっ!」

 朱雀はふわりと浮遊のまわりを一周、くるりと旋回した。


「朱雀、お前も変身してみたらどうだ?どうせ男でも女でも、ツッコミ体質なのは変わらんだろ!」


「……なっ!なにその言い草!?」

 ぷるぷると羽を震わせたかと思えば、朱雀はばさっと羽ばたいて、蓮の頭の上へ飛び乗った。

「最近さぁ、凛音と結婚してからって、ちょっと調子に乗ってない?なんかこう……余裕顔すぎるっていうか!」


「い、痛っ……ちょ、おい、突くなって……!」


 朱雀はくちばしでツンツンと蓮の頭を突きながら、えらそうに腰を下ろして座り込む。


「まったくもう……人の頭をなんだと思ってんだ。」


 その様子を見ながら、朱雀がふと浮遊のほうを振り返る。

「それにしても、浮遊。お前って、どれだけ人間好きなのよ?」


 浮遊は朱雀に構うことなく、凛音のそばへと歩み寄り、一枚の奏章を手に取った。

「鳳華に文字を教わったん……昔からずっと夢見てたんだよ。凛音が雪華の女王になって、わしがそばで補佐するって。」


 その何気ない一言が、部屋の空気を張りつめさせた。

 蓮は、ゆっくりと拳を握る。

 朱雀も、さすがに黙り込む。

 凛音は目を伏せたままだった。


「ま、まあ、雪華はもうないけど、民はいるし、今は白瀾の管理下にある。君らが白瀾の王と后になるなら、それもそんなに変わらないさ。」

 そう言って、浮遊はぷいと顔をそらし、照れくさそうに言葉を継いだ。


「……違うわ。たとえ雪華の民がこの国で暮らしていたとしても、全員が『幸せに』なっていないなら、それは全く別の話よ。」


 凛音のひと言が、書房の空気を一気に沈黙で満たした。


 蓮と凛音は、そっと視線を交わす。

 けれど、あえてその話題を深くは追わず——

 凛音は手元の湯呑を一息で飲み干した。


「……蓮。今日、出かけてくるわ。」


「どこへ?」


「王都の西部……あの夜、一番被害の大きかった通りへ。」


 凛音の声に、室内の空気がわずかに緊張を帯びる。


「報告では、暗殺者の何人かがその区画に逃げ込んだらしいわ。民間の犠牲も多かった。だからこそ、行ってみたいの。現場を見ずに『善政』なんて語れないもの。」


 蓮はしばらく黙していたが、やがて静かに頷いた。

「……わかった。」


 そのとき、朱雀がふわりと舞い、浮遊の肩にとまった。

「ったく……数千年も生きてて空気も読めないなんて、無駄に長生きしてるんじゃないの?」


「なっ!?わしにそんなつもりは……!」


「ふーん。だったら、一緒に凛音についていけば?愛と忠義の神獣様。つまんない!」


 蓮は苦笑しながら言った。

「まあでも、最小人数で、最強の護衛——頼もしいよ。でも……気をつけて。」


 凛音はふっと微笑み、彼の言葉にうなずいた。

「うん。必ず戻る。夕餉には、ちゃんと間に合うようにね。」


 その後、書類を片づけながら、静かに立ち上がる。

 そこにいたのは、もはや一介の妃でも、王女でもない。

 ——その背に、王たる者の気魄を、確かに宿していた。


 脇に控えるのは、若い女官・蕾花レイカ

 凛音のあとに続き、数歩離れて無言のまま歩いていく。


 しばらく沈黙が続いたのち、蕾花がぽつりとこぼした。

「……太子妃殿下は、昔から、こういう政の場にも慣れていらしたのですか?」


 凛音は歩みを止めず、少し笑って返す。

「慣れてなんて、いないわ。ただ……誰かがやらなきゃいけないときって、あるでしょ?」


「……はい。」

 その答えに、蕾花の眼差しが一瞬揺れる。

 そして、ほんのかすかにうつむいた。

「でも、そういう時、わたしみたいな者には……無理ですから。」


 ——その声は、まるで水底に沈む泡のように、道の途中で消えていった。


 凛音は立ち止まり、振り返らずに微笑む。

「……ありがとう、蕾花。ここからは、わたしと浮遊だけで大丈夫よ。あなたは、戻って。」


「……かしこまりました。」

 そう答えた蕾花の声には、かすかな熱が宿っていた。


 凛音の背を見送りながら、彼女はそっと歩みを止める。

 ——そこは、人目の届かぬ回廊の端。

 誰にも気づかれぬよう、懐から一振りの短剣を取り出す。


 柄を握る手に、迷いはない。

 朝靄の中、蕾花の姿は、静かにその場から消えた。

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