174 喜蓋の下、誰かを待ちながら
白瀾国の婚礼のしきたりでは、新婦はそれぞれの寝宮に送られ、紅絹で織られた刺繍の寝台に静かに座し、新郎の訪れを待つとされている。
一方の新郎たちは礼殿にて、賓客たちと酒を酌み交わし、婚礼の宴を楽しむのが常。
——だが、今日の宴には、肝心の「新郎」がひとりも姿を見せなかった。
この婚礼に仕組まれた最初の陰謀。それは、第一皇子の「出席」だった。
ひとことで言えば。
いや、ひとつの言葉で済む——偽物。
第一皇子は、そもそも婚礼に現れていない。
礼の場に立ったのは、皇太后が用意した「第一皇子」だった。
誰の目にも、それが偽物であることは明らかだった。
まるで、誰もが知っている事実のように。
皇太后が凛音を「生贄」として差し出そうとしていることも——また、然り。
だが、第二皇子もまた、宴に姿を見せていない。
それもまた、誰もが知っていた。
——彼が心から愛した少女が、その「祭壇」に立たされていることを。
「蓮、やっぱり凛音を連れて逃げなさいよ……それが無理なら、いっそ私と一緒に天鏡国へ戻る?」
庭の石に腰を下ろしながら、アイはぽつりと呟いた。
その視線の先、蓮は自分の寝宮の庭に、ただ黙って立ち尽くしていた。
「まさかアミーリアが、あんなに素直に婚礼を受け入れるなんて。しかも、あんなおとなしく中で待ってるとは思わなかったよ……」
返事はない。
アイは肩をすくめ、ひとりで続けた。
「招待状をもらった時はさ、ついに凛音ちゃんと結ばれるのかって思ったのに……なんでこんなことになっちゃったのかねぇ。」
「それにしても、昨日からあなた、ほんっとに何も喋らないよね?ちょっと……いや、かなり不気味なんだけど?」
そう言いながら、アイはひょいと立ち上がり、庭に咲く芍薬の花をひとつ摘んだ。
そして、花びらを一枚一枚、ゆっくりと指でちぎっていく。
「淵礼だって、姿を見せてないし。
可愛い妹が二人とも白瀾国のものになっちゃったんだよ?
ショックで寝込んでるとか、顔を合わせる元気すらないのかもね。」
……それでも、蓮は一言も口を開かなかった。
アイは小さく息をついて、再び石に腰を下ろした。
寝宮の中。
凛音は寝台に腰を下ろし、自らそっと喜蓋を取り払った。
そのまま、窓辺へと歩み寄る。
衣の乱れを整えると、足元の足袋に指を差し入れ、
そこから、小ぶりの匕首を一振り——慎重に抜き取った。
「第一皇子って、どんな人なんだろう。ちゃんと話せる相手だといいけど……」
ぽつりと呟き、匕首を腰の後ろに差し込む。
そして再び寝台の席に戻り、自らの手で喜蓋をかぶせ直した。
もう一人の花嫁は、寝台の端に座ったまま、ぴくりとも動かなかった。
ふたりの新婦は、それぞれの寝宮で、それぞれの新郎を待っていた。
「はいはい、我が第一皇子・南宮蓮殿下。いいかげん、なんか喋ってくれない?」
アイは最後の花びらをひらりと捨てると、すっと立ち上がり、そのまま蓮の目の前へと歩み寄った。
「じゃあさ、こうしようよ。白虎と一緒に、この場をぶち破って逃げよう。」
けれど、蓮はぴくりとも動かない。
それを見たアイは、軽く舌打ちしてから「白虎!」と声をかけ、くるっと背を向けた。
見た目は相変わらずの軽い調子。
だけど、もうあの頃のアイじゃない。
その瞳には——今の蓮よりもずっと強い「覚悟」が、はっきりと宿っていた。
白虎は一振り身を震わせ、すぐさま戦装束へと姿を変える。
もう何も訊かない。
なぜ、どうして——そんな問いすらなく、ただ「やるべきこと」をやるだけの存在に。
「……待って。」
蓮が、ようやく口を開いた。
「今、君が動いたら……凛凛が守ろうとしてたすべてが、壊れる。」
拳を握りしめながら、彼は続けた。
「ずっと考えてた。林の一族、みんなを助ける『完璧な方法』がないかって。
だけど……どうしても、見つからなかった。」
蓮は顔を上げた。
その頬を、涙がひとすじ滑り落ちていく。
「もし……全部を無視して、彼女だけを連れて逃げたら——
それってもう、ボロボロの彼女に自分の手でとどめを刺すのと、何が違うんだよ。
……そんなことしたら、彼女には、何も残らない。」
蓮はずっと上を見たまま、アイのほうを見ようとはしなかった。
「いっそ、父上を殺して……祖母上も斬って……
いや、白瀾の王族全部、この手で終わらせたほうが早いんじゃないかって……ずっと、そればっかり考えてた。」
「……蓮。」
アイは足を止め、蓮の背をじっと見つめる。
「……ごめん。さっきの発言、軽かったよね。私。」
蓮は静かに振り返る。
けれどアイを見ず、そのまま無言で、彼の横をすれ違って歩き去った。
そのころ、凛律もまた府に戻り、林将軍のもとを訪ねていた。
「お父様……私たち、もう行きましょう。白瀾を出るんです。」
——ドンッ。
鋭い音を立てて、彼は真っ直ぐに膝をつき、そのまま地に頭を垂れた。
「音ちゃんを……愛してもいない男に嫁がせるなんて、私には耐えられない。
それも、私たちのために彼女が……あんなにも耐えて、踏ん張ってきたのに……」
林将軍は少し身をかがめ、凛律の肩に手を置いて優しく語りかける。
「律……お前がそんなふうに取り乱すとはな。落ち着け、まずは深呼吸だ。」
「お父様、どうやって落ち着けっていうんですか!
音ちゃんが、こんな理不尽な形で嫁ぐなんて……絶対にあってはならないことです!
お母様があの世でこれを見たら……きっと、目を閉じることすらできない!」
蓮は、自分の寝室へと戻った。
そこには、本当に——新婦が、寝台の上に静かに座っていた。
……なぜだ。
アミーリアが、なぜあそこまで素直に私に嫁ごうとしているのか、理解できない。
抵抗すら見せなかった。
どこかで見落としていたか?判断が甘かったか?
……あるいは、自分の愚かさが、ここまで事態を悪化させたのか。
――どう声をかけるべきか……面倒だな。
蓮は小さく嘆息し、額に手をやった。
これほどまでに動揺するのは、生まれて初めてだった。
今は……まず、喜蓋を取るべきなのだろうか?
だが、それはつまり——彼女を正式に「妻」と認めるということになる。
かといって、否定して何になる?すでに儀式は済んでいる。
腕を組み、しばし沈思する。
……いっそ、何事もなかったかのように蓋を取って、「離縁してくれ」と申し出るか。
アミーリアの性格からして、誇らしげに「まずは跪きなさい」とでも言いそうだ。
だが、凛凛と私のためになるのなら——
跪くことに、何のためらいがある?
そう決めて。蓮が、迷いを帯びながら蓋へ手を伸ばした——その瞬間。
新婦が反射的に匕首を抜き、彼の手をぴたりと止めた。
「……凛凛?」
「……蓮?」
今度こそ、新郎はゆっくりと蓋を取った。
そして新婦も、それを拒まなかった。




