173 朱の絹は断たれず、心は結ばれず
あなたがもし、信じるかと問うのなら——私は、きっと答えられません。
信頼とは、選べる者だけが、心に余白のある時に下す判断だ。
けれど、今の私は、選ぶということすら許されていない。
もし誰かに「帰るべき場所」があるのだとしたら、
私にとって、その「場所」は、いったいどこなのだろう。
生まれた国は、もうない。
育った家は、炎に呑まれた。
過去に戻って、やり直せたとしても——
私の傍には、やはり「死ぬべき者」が死に、「消えるべきもの」が消えてゆく。
私は……退けるのか。
私は……進めるのか。
凛音は、洵の問いには答えなかった。
ただ静かに、その手に持った剣を鞘へと納めた。
洵は太后の前で、いつもの気だるげな態度を収め、わずかに頭を下げた。
そして、口元に微笑を浮かべながら、穏やかに告げる。
「母上、どうかお怒りをお鎮めください。
この二人も、ただ想いが深すぎて、一時の熱に浮かされたまでのことです。」
太后はまったく納得の色を見せず、「あら、そうかしら」と、鼻を鳴らす。
洵は何事もなかったかのように袖口の飾りをくるりと弄び、飄々とした笑みを浮かべた。
「今日のところは、二人を下がらせてやっては。
必ず、しかるべき日に婚礼の衣をまとわせましょう。私が約束します。」
……やっぱり、そういうこと。
信じるかどうかなんて——最初から、問うだけ無駄ね。
三日後。
銅鏡には、胸のうちのさざめきは映らない。
凛音は、大紅の霞帔に身を包み、鳳凰が寄り添うように舞う刺繍が揺れていた。鬢に飾りはなく、ただ一支の翡翠簪を挿しているだけ。化粧台の前に腰を下ろし、指先には沈香の櫛。伏せられた視線の先、白粉の頬に、長い睫毛の影が柳の葉のようにすっと落ちていた。
外では遠く、ぱらりぱらりと鞭炮の音が響く。風に揺れる紅の帳、ふわりと帷が浮かぶ。
そっと朱の化粧箱を開けると、細やかな香りがふわっと立ちのぼった。彼女は紅を摘み、ほんの少しだけ唇にのせる。触れるだけのように、そして止めた。
あけぼのの光のような紅、咲いた。
けれど、その筆先は、眉間に触れることはなかった。
朱砂のひと点──決意のしるしは、描かれないままに。
やがて、ゆっくりと目を上げる。
鏡の中、自分の瞳を見つめながら、問いかけるように――
「今日を越えた私は、いったい誰なの?」
「音ちゃん、逃げよう。音ちゃんと私なら、ここを抜け出すのは難しくない。蓮のところへ行って、一緒に――」
凛音は答えなかった。
花嫁は、化粧台の前で涙をこぼしてはならぬという。
涙は落ちなかった。ただ、その瞳はほのかに潤み、江南の梅雨のように、光の届かぬ曇り空を思わせた。
「音ちゃん……」
「ではお父様は?また私のために、牢に入れと?」
凛律は、歯を食いしばったまま、言葉を返せなかった。
凛音はゆっくりと言った。
「今日、私は林家のためにこの婚姻を受け入れる。けれど、白瀾国の王宮に縛られるつもりはない。私には、果たすべき役目があるの。お兄様、心配はいりません。」
背後から、翠羽がそっと呼びかけた。
「凛音様、お輿の時間でございます。」
彼女はわずかに頷き、玉の櫛を化粧箱へ戻すと、銅鏡の蓋を閉じた。
過去に、蓮との名目上の「婚礼」を挙げたことがある。
――あれは、たしかにただの芝居だった。
けれど、それでも。もしかしたら……あれこそが、私にとっての理想の婚礼だったのかもしれない。
参列した人は少なかった。けれど、父上も、母上も、皆そこにいてくれた。
そして今、これが「本物」の婚礼だというのなら――
私には、あの芝居のほうが、よほど本物に思えてしまう。
白瀾の王宮前——
鐘と太鼓が鳴り響き、金の炉には焔が揺れていた。
今日は、皇族の慶事。
第一皇子と第二皇子、ふたりが同日に婚礼を挙げる、かつてない吉兆の日。
人々はこの日を「雙鳳の福迎え」と呼んだ。
二基の鳳輦が、静かに列をなして進んでくる。
帷は低く垂れ、金の鈴がかすかに音を立て、紅の帳の奥、花嫁たちは沈黙を守っていた。
揃いの霞帔に身を包み、雲のような髪を高く結い上げ、顔には紅の蓋を。
刺繍の履は塵ひとつつけず、挿した花飾りも微動だにしない。
侍女たちが列を作り、ひと歩ごとに礼をしながら、中庭へと導いていく。
朱の敷物が、丹陛の階から真っすぐに本殿まで続いていた。
堂上にはすでに婚礼の祭壇が整えられ、東西に並ぶ二人の皇子。
いずれも玄の衣に金の紋、鳳凰が向かい合うように織られた礼装を纏い、玉冠を正して凛々と立つ。
その表情には、いつもの飄々とした影はなく——ただ、厳粛な光だけがあった。
礼官の声が、堂内に高らかに響く。
「吉時でございます。新郎新婦、入場を——」
侍女たちが盆を捧げて進み出る。
盃、酒、紅い綾、金の簪、対の詩文、清めの水。
それぞれ、所定の場所へと捧げられた。
続いて、ふたりの花嫁が、ゆるやかに歩を進める。
深紅に染まる衣が風に揺れ、紗に覆われた面差しは、まるで静寂に咲く絵巻の花。
二対の新郎新婦が、堂の中央に並び立つ。
紅き鳳凰が二羽、翼を重ねて舞い降りたかのように──
「天に礼を——一拝!」
「親に礼を——二拝!」
「夫婦、互いに礼を——!」
二人の花嫁はぴたりと歩を揃え、ひとつの乱れもなく頭を垂れた。
ただ、最後の夫婦の礼のとき——そのうちのひとりが、わずかに動きを止めた。
礼服の裾が引っかかったかのように。
あるいは、胸のうちに去来する思いが足を止めさせたのか。
だが、すぐに姿勢を正し、何事もなかったように礼を続けた。
誰にも気づかれぬまま、紅の帳が重なり合った。
続いては——合卺の儀。
宮女が金の杯を二対、捧げ出す。
杯の中では、ふたつの豆が連なって揺れていた。
その色は、まるで血のように濃い紅。
ふたりずつ、盃を手に取り、朱の紐が繋いだまま、口をつける。
朱の絹は決して断たれず、
このひと口で——百年の縁が、結ばれる。
楽がふたたび奏でられ、群臣は一斉に祝辞を捧げる。
黄金の鐘が高らかに鳴り響き、喜びの声が宮中に満ちた。
すべて、礼冊のとおりに。
すべて、寸分の狂いもなく——
愛さぬ人を娶り、自らの心を置き去りにした父上。
……その果てが、私にも同じことを選ばせるとは。
信じてくれるのか……その言葉に、どれほどの意味があったのか。
これが、凛凛に求めた「信頼」だというのなら——皮肉な話だ。
私を三日間も宮に閉じ込め、林氏一族を人質のように持ち出した。
……私がどう思っていたか、わかるか?
何とも思わなかったよ。いっそ、すべて壊れてしまえばいいとさえ思った。
戦う力も、語る術も、すべては彼女の隣に並ぶために得た。
……誰にも認められなくても、
私は、彼女一人にだけ、選ばれたかったんだ。
それ以外に、望んだことなんて、一度もなかった。
蓮は顔を上げ、第一皇子の向かいに並ぶ花嫁を見た。
それから、林将軍の背後に立つ御林軍——
その一人が握る剣に、もう一度、目をやる。
拳を握る手に、力がこもる。
後悔が込み上げる。
今日この瞬間のことじゃない。
——七歳のあの日から、歩いてきたすべての道が、悔やまれてならなかった。
蓮は、侍女と宦官に促され、礼殿をあとにする。
曳きずる霞帔は、雲のようにたなびき、
二人の花嫁も、それぞれ別の喜帳へと導かれていった。
紅の蓋をいまだ外さぬまま、
垂れた帷の内に、紅の光がほんのりと漂っていた。
龍と鳳の灯影が、重なりながら揺れている。
蓮は——
手を引かれながらも、
遠ざかっていく、あの人の背を
じっと、見つめていた。
私は、いま、何をすればいいの?ほんとに、このままで良いのか?




