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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十五章:過ぎし夢を胸に、還るべき場所へ
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173 朱の絹は断たれず、心は結ばれず

 あなたがもし、信じるかと問うのなら——私は、きっと答えられません。


 信頼とは、選べる者だけが、心に余白のある時に下す判断だ。

 けれど、今の私は、選ぶということすら許されていない。


 もし誰かに「帰るべき場所」があるのだとしたら、

 私にとって、その「場所」は、いったいどこなのだろう。


 生まれた国は、もうない。

 育った家は、炎に呑まれた。


 過去に戻って、やり直せたとしても——

 私の傍には、やはり「死ぬべき者」が死に、「消えるべきもの」が消えてゆく。


 私は……退けるのか。

 私は……進めるのか。


 凛音リンインは、ジュンの問いには答えなかった。

 ただ静かに、その手に持った剣をサヤへと納めた。


 洵は太后の前で、いつもの気だるげな態度を収め、わずかに頭を下げた。

 そして、口元に微笑を浮かべながら、穏やかに告げる。


「母上、どうかお怒りをお鎮めください。

 この二人も、ただ想いが深すぎて、一時の熱に浮かされたまでのことです。」


 太后はまったく納得の色を見せず、「あら、そうかしら」と、鼻を鳴らす。


 洵は何事もなかったかのように袖口の飾りをくるりと弄び、飄々とした笑みを浮かべた。


「今日のところは、二人を下がらせてやっては。

 必ず、しかるべき日に婚礼の衣をまとわせましょう。私が約束します。」


 ……やっぱり、そういうこと。

 信じるかどうかなんて——最初から、問うだけ無駄ね。


 三日後。


 銅鏡には、胸のうちのさざめきは映らない。

 凛音は、大紅の霞帔カスミノウスギヌに身を包み、鳳凰が寄り添うように舞う刺繍が揺れていた。鬢に飾りはなく、ただ一支の翡翠簪を挿しているだけ。化粧台の前に腰を下ろし、指先には沈香の櫛。伏せられた視線の先、白粉の頬に、長い睫毛の影が柳の葉のようにすっと落ちていた。

 外では遠く、ぱらりぱらりと鞭炮の音が響く。風に揺れる紅の帳、ふわりと帷が浮かぶ。


 そっと朱の化粧箱を開けると、細やかな香りがふわっと立ちのぼった。彼女はベニを摘み、ほんの少しだけ唇にのせる。触れるだけのように、そして止めた。


 あけぼのの光のような紅、咲いた。


 けれど、その筆先は、眉間に触れることはなかった。

 朱砂のひと点──決意のしるしは、描かれないままに。


 やがて、ゆっくりと目を上げる。

 鏡の中、自分の瞳を見つめながら、問いかけるように――


「今日を越えた私は、いったい誰なの?」


「音ちゃん、逃げよう。音ちゃんと私なら、ここを抜け出すのは難しくない。蓮のところへ行って、一緒に――」


 凛音は答えなかった。

 花嫁は、化粧台の前で涙をこぼしてはならぬという。

 涙は落ちなかった。ただ、その瞳はほのかに潤み、江南の梅雨のように、光の届かぬ曇り空を思わせた。


「音ちゃん……」


「ではお父様は?また私のために、牢に入れと?」


 凛律は、歯を食いしばったまま、言葉を返せなかった。


 凛音はゆっくりと言った。

「今日、私は林家のためにこの婚姻を受け入れる。けれど、白瀾国の王宮に縛られるつもりはない。私には、果たすべき役目があるの。お兄様、心配はいりません。」


 背後から、翠羽スイウがそっと呼びかけた。


「凛音様、お輿の時間でございます。」


 彼女はわずかに頷き、玉のクシを化粧箱へ戻すと、銅鏡の蓋を閉じた。


 過去に、蓮との名目上の「婚礼」を挙げたことがある。

 ――あれは、たしかにただの芝居だった。

 けれど、それでも。もしかしたら……あれこそが、私にとっての理想の婚礼だったのかもしれない。


 参列した人は少なかった。けれど、父上も、母上も、皆そこにいてくれた。


 そして今、これが「本物」の婚礼だというのなら――

 私には、あの芝居のほうが、よほど本物に思えてしまう。


 白瀾ハクランの王宮前——

 鐘と太鼓が鳴り響き、金の炉には焔が揺れていた。


 今日は、皇族の慶事。

 第一皇子と第二皇子、ふたりが同日に婚礼を挙げる、かつてない吉兆の日。

 人々はこの日を「雙鳳ソウホウの福迎え」と呼んだ。


 二基の鳳輦ホウレンが、静かに列をなして進んでくる。

 とばりは低く垂れ、金の鈴がかすかに音を立て、紅の帳の奥、花嫁たちは沈黙を守っていた。

 揃いの霞帔かすみのうすぎぬに身を包み、雲のような髪を高く結い上げ、顔には紅の蓋を。

 刺繍のくつは塵ひとつつけず、挿した花飾りも微動だにしない。


 侍女たちが列を作り、ひと歩ごとに礼をしながら、中庭へと導いていく。


 朱の敷物が、丹陛たんぺいの階から真っすぐに本殿まで続いていた。

 堂上にはすでに婚礼の祭壇が整えられ、東西に並ぶ二人の皇子。

 いずれも玄の衣に金の紋、鳳凰が向かい合うように織られた礼装を纏い、玉冠を正して凛々と立つ。

 その表情には、いつもの飄々とした影はなく——ただ、厳粛な光だけがあった。


 礼官の声が、堂内に高らかに響く。


「吉時でございます。新郎新婦、入場を——」


 侍女たちが盆を捧げて進み出る。

 盃、酒、紅い綾、金の簪、対の詩文、清めの水。

 それぞれ、所定の場所へと捧げられた。


 続いて、ふたりの花嫁が、ゆるやかに歩を進める。

 深紅に染まる衣が風に揺れ、紗に覆われた面差しは、まるで静寂に咲く絵巻の花。


 二対の新郎新婦が、堂の中央に並び立つ。

 紅き鳳凰が二羽、翼を重ねて舞い降りたかのように──


「天に礼を——一拝!」


「親に礼を——二拝!」


「夫婦、互いに礼を——!」


 二人の花嫁はぴたりと歩を揃え、ひとつの乱れもなく頭を垂れた。

 ただ、最後の夫婦の礼のとき——そのうちのひとりが、わずかに動きを止めた。

 礼服の裾が引っかかったかのように。

 あるいは、胸のうちに去来する思いが足を止めさせたのか。


 だが、すぐに姿勢を正し、何事もなかったように礼を続けた。

 誰にも気づかれぬまま、紅の帳が重なり合った。


 続いては——合卺ゴウキンの儀。


 宮女が金の杯を二対、捧げ出す。

 杯の中では、ふたつの豆が連なって揺れていた。

 その色は、まるで血のように濃い紅。


 ふたりずつ、盃を手に取り、朱の紐が繋いだまま、口をつける。

 朱の絹は決して断たれず、

 このひと口で——百年の縁が、結ばれる。


 楽がふたたび奏でられ、群臣は一斉に祝辞を捧げる。

 黄金の鐘が高らかに鳴り響き、喜びの声が宮中に満ちた。


 すべて、礼冊のとおりに。

 すべて、寸分の狂いもなく——


 愛さぬ人を娶り、自らの心を置き去りにした父上。

 ……その果てが、私にも同じことを選ばせるとは。


 信じてくれるのか……その言葉に、どれほどの意味があったのか。

 これが、凛凛に求めた「信頼」だというのなら——皮肉な話だ。


 私を三日間も宮に閉じ込め、林氏一族を人質のように持ち出した。

 ……私がどう思っていたか、わかるか?

 何とも思わなかったよ。いっそ、すべて壊れてしまえばいいとさえ思った。


 戦う力も、語る術も、すべては彼女の隣に並ぶために得た。

 ……誰にも認められなくても、

 私は、彼女一人にだけ、選ばれたかったんだ。


 それ以外に、望んだことなんて、一度もなかった。


 蓮は顔を上げ、第一皇子の向かいに並ぶ花嫁を見た。

 それから、林将軍の背後に立つ御林軍——

 その一人が握る剣に、もう一度、目をやる。


 拳を握る手に、力がこもる。

 後悔が込み上げる。

 今日この瞬間のことじゃない。

 ——七歳のあの日から、歩いてきたすべての道が、悔やまれてならなかった。


 蓮は、侍女と宦官に促され、礼殿をあとにする。

 曳きずる霞帔は、雲のようにたなびき、

 二人の花嫁も、それぞれ別の喜帳へと導かれていった。


 紅の蓋をいまだ外さぬまま、

 垂れた帷の内に、紅の光がほんのりと漂っていた。

 龍と鳳の灯影が、重なりながら揺れている。


 蓮は——

 手を引かれながらも、

 遠ざかっていく、あの人の背を

 じっと、見つめていた。


 私は、いま、何をすればいいの?ほんとに、このままで良いのか?

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