172 剣は嗤う、芝居の幕が下りるまで
「誰かおるか!この不孝な第二皇子と、大皇子の許嫁を、ただちに取り押さえよ!」
天を揺るがす怒号が朱寧宮全体に響き渡り、御林軍の一団が一斉に剣を抜いた。
数時間前。
蓮は激しい気迫を纏い、馬を駆って皇城へと戻った。
凛音は彼の無茶を止めるべく、仕方なくその背を追って駆けていく。
だが、事態は想像以上に切迫していた。
蓮は城門をくぐったその足で馬を降り、迷うことなく朱寧宮へと向かった。侍女や侍衛を押しのけ、そのまま皇太后の寝宮の扉を押し開ける。
「——不敬ですよ、蓮。何をするつもりですか?」
「祖母上。逸が言っていた婚姻の件、まさか……あなたの差し金ですか?」
「もともと蒼霖国の王女とは、かねてより婚約の話があったでしょう。私はただ、この寿の日に二重の喜びをと願っただけ。お前たちを娶わせて、目の見えぬ兄にも喜びを分けてやれるように、ね。」
皇太后の目が凛音を上から下までゆっくりとなぞり、やがて微笑みを浮かべて言った。
「林家の娘。才気煥発、賢く、礼を知る。あの子に兄の世話を任せられるなら、私としても安心ですわ。」
白瀾国には、神出鬼没の第一皇子がいるという噂があった。
智勇兼備ながら、国を継ぐ気はなく、長らく学びの旅に出ているのだと。
——だが、実際は違う。
彼は生まれて間もなく両目を失い、王家の体面を保つために、皇太后の命で冷宮に幽閉された。
誰の目にも触れぬように。
蓮ですら、兄と顔を合わせたのはほんの数度しかなかった。
そしてもう一つの噂もあった。
——第一皇子の視力を奪ったのは、蓮の母である、と。
その罪を悔いて、彼女は命を絶ったのだと。
白瀾宮の奥には、真偽不明の話がいくつも眠っている。
蓮にとってすら、それらが事実かどうかは定かではなかった。
皇太后の言葉を聞いて、蓮は一瞬、拳を握りしめて黙した。
視線を凛音に向ける。
そして——真っすぐに皇太后の前へとひざまずいた。
「兄上のためであれば、火の中、水の中も厭いません。
この身すべて、献じる覚悟もあります。
——けれど、凛凛だけは……どうか……
祖母上、何卒ご命令をお取り下げくださいませ!」
皇太后はその言葉を聞き、さらに満面の笑みを浮かべた。
「おかしなことを。わらわの懿旨はすでに発せられたのだぞ?抗うつもりかえ?」
そして、まっすぐ凛音を見据え、言葉を続ける。
「それに、林将軍にも話は通してある。あの娘か、そなたが抗旨すれば——林家の者すべて、召使いに至るまで、死を賜ることになろう。ふふふふ!」
「——祖母上っ!」
蓮が叫んだ。声は殿中に響き渡るほど大きかった。
だが、すぐにその拳を己の掌に強く握り込み、深く息を吸い込んで、ぐっと堪えた。
「……祖母上。これはすべて、蓮の不孝ゆえ。どうか——
この命、取り下げてはいただけませんか……」
「どうした?母を持たぬせいで、そんなにも愚かしく振る舞うのか?そなたの想う女と同じく、躾も教養も知らぬとはな。」
皇太后は茶をひと口啜ると、ふと思い出したように声を荒げた。
林将軍がかつて「林夫人のことは口にするな」と言っていたのが、かえって気に障ったのだろう。
「林夫人が早くに亡くなったのは、かえって幸いであったな。さもなくば、連れてきて詰問したいところだ。この娘をいかにしてここまで育てたのか、どれほどの責任放棄と無能の果てであったかをな!」
その瞬間、凛音の瞳からは、ただ見守るような光が消え、凍てつくような冷たさだけが残った。
彼女は、こんな王族の前に膝を屈するつもりなどなかった。
まっすぐに立ったまま、きっぱりと告げた。
「——先ほどのご発言、どうかお取り消しください。」
太后は、手にしていた茶を凛音に向かって容赦なく投げつけた。
凛音は避けなかった。避けきれぬことを、彼女自身が一番わかっていたからだ。
「なぜ私が取り消さねばならぬ?お前のようなものを育てた女だ、いかに躾がなっていなかったかが知れる!」
凛音は拳をぎゅっと握りしめた。
「今のお言葉……なかったことにしていただけませんか。母は私を大切に育ててくれました。至らぬのは、私自身の未熟ゆえであり、母には何の落ち度もございません。」
「そんな礼儀もわきまえぬ者を育てた女が、何を大切に育てたと言う?ふん、早くに死んで幸いだったな。さもなくば、今日この場でその首をはねていたところだ!」
凛音は雪の刃を抜くや否や、風のように太后の眼前へと飛び出し、その剣を逆手に構えて彼女の喉元へと突きつけた。
「——お母様を侮辱すること、許しません!」
「お母様?お前など、雪華国の残党にすぎぬ身。お前の実の母も早くに死んだとか。もし生きていたとしても、私は彼女のことを恥ずかしく思っただろうよ。」
「祖母!もうやめてくれ!それ以上は言わないでくれ!」
蓮も立ち上がり、叫ぶようにして太后を制した。その叫びは、怒りと共に、太后自身を守ろうとするかのような響きすら含んでいた。
「誰かおるか!この不孝な第二皇子と、大皇子の許嫁を、ただちに取り押さえよ!」
天を揺るがすような怒号が朱寧宮全体に響き渡り、御林軍が一斉に剣を抜き、威風堂々と包囲を固めた。
凛音は太后の背後へと歩み寄り、ついにその身を人質として取った。蓮もまた、その傍らへと歩み出る。
「……あれほど『発言を撤回しろ』と頼んだのに、聞こうとしなかった。蓮が『命を取り下げてくれ』と膝をついて願ったのに、それすらも無視した。死ぬのが怖くないのか?」
「ふん、もしお前が私を殺せば、林将軍の代々の忠義と名声は、一夜にして地に堕ちるだろう。私は死んでも構わぬ。だが彼が死ねば、その名誉も、尽くしてきたすべても虚しくなる……私のほうが得だと思わぬか?」
たとえ虚勢に過ぎなくとも、太后の言葉には、一理あると彼女も分かっていた。
この世は、かくも不条理。たとえどれほどの功を立てようと、一度の過ちで、それらはすべて無に帰す。
父は、彼女のためにすべてを差し出した。これ以上、彼に失わせるわけにはいかない。
凛音の手は、前にも出ず、後ろにも引かなかった。
けれど、それはつまり——彼女にはもう、退く道がなかったということ。
逃げれば、彼は悪名を被る。
斬れば、彼もまた、命を賭して彼女と共に果てる。
その「彼」は——お父様である林将軍。そして、今この場に立つ、蓮でもあった。
「何をしておる、無礼者! 太后様と第二皇子の前で、刀を抜くとは何ごとだ!」
洵の声が、遠くから鋭く響いた。
御林軍たちは一斉に振り返り、陛下の姿を見て困惑し、動きを止める。
総管が慌てて前に出て、言葉を探しながら報告した。
「陛下……林将軍の娘が太后様に──」
洵はゆっくりと歩み寄り、凛音の剣をそっと手で押さえた。
そして肩をぽんと叩き、穏やかな笑みを浮かべながら大きく声をあげた。
「心配無用。林将軍の娘と蓮はな、太后様の御誕辰に合わせた祝賀劇の稽古中なのだ。見ろ、この迫真の演技、まるで本物のようだな!」
くるりと背を向けると、洵は御林軍に手をひらひらと振って命じた。
「さあ、皆、下がれ。これ以上は稽古の邪魔になるぞ。」
あまりに唐突な「演劇宣言」に、御林軍たちは顔を見合わせ、半信半疑ながらも動きを止めた。
凛音と蓮も、一瞬だけ固まる。
その静寂の中——洵が、ふいに凛音の耳元で囁いた。
「……雪ちゃんは、朕のことを信じてくれるか?」




