171 二重の策、三重の檻
霧はなお地を這っていた。 その向こうから、ゆっくりと一つの影が現れる。
凛音が息をのむより早く、その男は立ち止まり、ひとつ深く礼をした。
「凛音様。お久しゅうございます。まさか、清樹君と共に再びお会いできるとは……」
その声音に、微かに笑みかけた唇が、ぴたりと静止する。
凛音はすぐに表情を整え、柔らかく応じた。
「洛白先生、恐れ入ります。ご無沙汰しております……お変わりありませんか?」
清樹が即座に馬から降り、その袖を取る。
「洛白先生……どうしてここに。まさか、また国境へ?」
声色は穏やかだが、僅かに強調された語尾。
背後に控える兵たちと、逸の耳を欺こうとする意図が、そこにあった。
だが——
「え、えぇ!?なになに、どういう流れ!?」
水音を鳴らしながら、逸が馬から跳ね降りると、そのまま真っ直ぐ仮面の男のもとへ。
「先生って何よ、あんた誰よ!……って、ちょっと見せて?」
そう言って、いきなり手を伸ばし——
ぴたりと掴まれる前に、男がするりと腕を交差させて防いだ。
「……ご用件は?」
「っはは!心外だなあ!まだとぼけるの?いい加減にしてよ――蓮兄上!」
跳ね返された指先をぶんぶん振り回しながら、逸が大声で笑い出す。
「いやぁ、仮面で会うなんて。
僕がバカだとでも?それとも……そんなに他人行儀でいたい?
——ま、両方ってことですかね?」
蓮は静かに仮面を外すと、周囲にひと振り手を掲げた。
それだけで、兵たちは一斉に訓練された動きで背を向ける。
逸は口笛をひとつ吹き、肩をすくめるようにして言った。
「いやあ、お見事……じゃあ僕を『監軍』に仕立てたのも、やっぱり兄上の仕込みってことですか?」
蓮はその声に答えず、冷たい声音で問うた。
「……お前、いつから気づいてた。まさか『今』なんて言わないだろうな。」
そう言って、仮面を清樹に渡すと、まっすぐ逸の前へと歩み出る。
一度だけ凛音の顔を見て、次に逸へと視線を移し——
「……それと、彼女のことも。知っていたな?」
逸は目を細め、少しだけ唇を吊り上げる。
「じゃあ、兄上こそ。いつから?」
「七歳。」
あまりに即答だった。
そのあっけなさに、逸はぽつりと「え?」と呟いたきり、しばらく言葉を失った。
いつもの軽口も出ず、まるで何かを飲み込んだように黙り込んだ。
逸は唇を噛み、ゆっくりと顔を上げた。
「……じゃあ、この女じゃなきゃ、ダメなんですか。」
「ええ、だめ。」
まるで何でもないような言葉だった。けれど——
その瞬間、二人の間に流れたものは、どこまでも静かで、どこまでも深かった。
問いかけた者の胸に、それは鋭く刺さり、
答えた者の目には、一瞬だけ、決して揺るがぬ意思が灯っていた。
風がやんだ。
霧が静かに、吸い込まれるように引いていく。
呼吸の音さえ聞こえない。
ただ、彼の視線だけが、彼女にまっすぐ向けられていた。
凛音は、不意に視線を逸らし、頬を染めた。
……その沈黙を、打ち破ったのは。
「ああ、それは残念だなあ。」
軽やかな声。
「だって、今日という日に、ふたりとも『婚約者持ち』になるんだからさ。ただ、相手が『お互い』じゃないってだけで。」
逸は肩をすくめて笑った。だがその目は、いつものふざけた色に、どこか陰が混じっていた。
「おやおや、そろそろ林家に、婚姻の勅命が届く頃なんじゃない?」
——その瞬間、蓮は音もなく距離を詰め、逸の襟をぐいと掴み上げた。「……何を言った?」
林家。
堂内の空気は張り詰めていた。
深藍の官服を纏った壮年の男が、静かに膝をつき、床に頭を垂れている。
その正面に、漆黒の地に金糸で繍われた双龍の文をまとい、袖口と裾には深紅の牡丹と瑞雲が燃え立つようにあしらわれた女が、静かに腰かけていた。
金のかんざしは天翔ける鳳凰を模し、白玉の鈴がいくつも垂れ、わずかな動きで澄んだ音を響かせる。頭には翡翠と紅瑪瑙がちりばめられた鳳冠、腰には白銀と墨玉の帯飾り——
その姿はまさに、威光と艶美を兼ね備えた「王家の象徴」そのものであり、
空気さえも、その足元を過ぎることを躊躇っているかのようだった。
女はゆるりと手を上げ、髪に挿した簪を一度整えると、吐き捨てるように言った。
「また家におらぬのか、あの娘は。女の身で軍に通うとは、母を亡くしたとはいえ、誰にも諫める者がいないのか?」
林将軍は、瞳にかすかな悲しみを浮かべながら、静かに答える。
「臣、教え導くこと叶わず、面目次第もございません。しかしながら、娘は未だ母の喪に服しており、その痛みも癒えませぬ。どうか、太后様、あの子の前ではお言葉をお慎みくださいますよう……」
ばしんっ——!
卓を打ち鳴らす鋭い音が、部屋の静寂を切り裂いた。
「黙れ。わらわの口の利き方に口を挟むなど、何様のつもりか!」
「……恐れながら、決してそのような意図では……」
「わらわの決めたことだ。どこにいようと構わぬ、縛ってでも連れ戻せ——婚礼は明後日と決まったのだ。」
将軍は深々と額を地に擦りつけ、必死に訴える。
「太后様、どうか、ご再考を……明後日など、いかにも無理が過ぎましょう、どうか、ほんのわずかでも、お時間を……」
だが女はすでに立ち上がっていた。振り返りもせず、声だけを背に残す。
「ならば、あの娘が嫁がぬというなら——
林家の者ども、下僕のひとりに至るまで、その首を洗っておくことね!」
衣の裾が翻り、音もなく立ち去った。
——その頃。
李生は一人、馬を駆っていた。
空は低く、雲の縁が鈍く光っている。まるで、まだ名もなき不穏が息をひそめているかのように。
道は分かれていた。
左は、軍へ戻る道。右は、誰にも知られてはならぬ場所へと続いている。
李生の手が、ほんの一瞬、止まった。
手綱を握る指が、わずかに強く締まる。
馬はそれを感じて、小さく鼻を鳴らした。
彼は周囲を見回すでもなく、黙ってまっすぐ前を見据え——
眉をひそめたまま、右へ進んだ。
森影が迫る頃、草むらの奥で何かが動いた。
気配に気づいた李生は、馬を止めることなく、眉間にさらなる皺を寄せる。
「……思ったより早いな。」
木立の陰から、ゆっくりと現れる影。
黒衣に面紗、輪郭すら定かでない。
李生は答えなかった。
「——でも、彼女も、彼も。どちらも、雪華国には行けない。」
そう言って、影はふっと笑った。
風が吹き抜け、木々の枝をかすかに鳴らす。
ふたりの影は、光差す林の奥へ、音もなく混ざり合っていった。
一方では、静かに消えていく気配。
一方では、馬蹄が乾いた風を裂いて走る。
「……蓮、どこへ行くの?」
「どこって?決着をつけに行くんだ。凛凛が誰かの嫁になるなんて——ふざけるな!」




