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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十五章:過ぎし夢を胸に、還るべき場所へ
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170 霧を抜けても、影は深く

 火が落ちた仮の見張り台を、凛音と清樹は音もなく後にした。

 空がまだ青く染まる前、足元の泥は冷たく、草露は馬の足首を濡らしていた。

 風は止み、霧だけが、まだ名残惜しげに地を這っている。

 ひとつ、またひとつ。

 フードの端から、夜露が首すじに落ちた。


「……本当に、行くのですね。」

 清樹が小声で問うと、凛音はゆっくりと頷いた。


「ええ。でも……口にしたのは『雪華の境』だけ。本当に目指す場所は——まだ内緒。」

 視線は前を向いたまま。その言葉は、霧の中へとそっと放たれた——そして、すぐに消えた。


 その時。


「副参謀殿!」

 低く押し殺した声と共に、十数人の兵を率いた李生が現れた。泥はねを気にする様子もなく、真っ直ぐ凛音のもとへ馬を進める。

「……我々も、同行させていただきます。」


 凛音は眉ひとつ動かさず、ただ視線を彼に向けるだけだった。

「……李生?」


「私は、幼き頃より凛律様のもとに仕え、その背中を見て育ちました。あの方が、あの夜あなたに向けて言葉を選んだこと——本心ではないと、私は信じています。ですから……せめて、私がその代わりに、あなたの道を見届けたいのです。」


 彼の声は静かで、熱を押し殺していた。


 さらに間もなく、後方の木陰から、軽やかな馬の足音が響いた。

「ええ!?お二人だけで雪華に行っちゃうなんて、そんな寂しいこと言わないでくださいよ。」


 南宮逸が、ぴしゃぴしゃと水たまりを踏みながらやってきた。

「それに……私も、『見たいもの』があるんです。誰が、どう動くとか。」


 凛音は何も言わずに目を逸らした。


 最後に、誰の声もなく。だが背後で、柳懐風が黙って馬に跨り列に加わる。

 口元に微かな笑みを浮かべたまま、視線はどこまでも凛音の背中に向けられていた。


 こうして、「凛音の意志で編成されたわけではない隊」が静かに揃っていく。


 その場にいた誰もが知らない——

 この旅が、誰を炙り出すものなのか。

 あるいは、すでに誰かが、「網にかかった」ままなのかもしれない。


 夜が更け、焚き火の灯りも、ほとんど消えかけていた。

 一行は、雪華との国境に近い林の中で、一晩だけの仮営を張っていた。


 湿った木の葉が、風に揺れて微かな音を立てる。

 小屋ではなく、ただ布を張っただけの簡素な野営。

 人の気配が曖昧になるぶん、むしろ都合がよかった。


 そんな静けさの中で、凛音がふいに声をかけた。


「そういえば、逸殿下にはお礼を言わなきゃいけませんね。林家が火事になったとき、蓮と陛下に知らせに行ってくれたのが……あなたなんでしょう?」


「そ~うなんです~ちゃんと感謝してくださいね?」

 逸はいつもの調子で肩をすくめ、ひらりと笑う。


「でも、不思議ですね。あの日、どうしてうちに?……後で蓮に聞いたんですよ。作戦会議に、あなたは呼ばれてなかったって。」


 その場に、短い静寂が落ちた。

 逸の口元には、わずかな逡巡。そして——


「あー……バレちゃったかぁ。」


 彼は苦笑しながら、あっさりと言った。


「単純にね、気になっただけ。四国の王子王女が一堂に会すっていうから、

 ……こっそり覗いてみたくなったんですよ。」


 四国——?


 清樹がすかさず目を細めた。

 凛音の視線も鋭くなる。彼は、凛音の素性を知っている。

 逸がその事実を口にしたということは、彼もまた——知っていた、ということ。


 李生が横から問い返した。


「……四国?白瀾と天鏡、それに……蒼霖と?いや……玄霄と?」


「あ、あー……口が滑りましたっ。今のナシでお願いします~」

 逸は笑ってごまかしながら、ちらりと凛音の顔色を窺う。


 凛音は、それ以上何も言わなかった。ただ、静かに鞄に手を伸ばした。


 革の背嚢。

 脇の浅いポケットに、一通の封書を滑り込ませる。紙はまだ乾ききっておらず、指先に微かな冷たさが残る。

 雪華国の封蝋。筆致は、どこか見覚えのあるものだった。

 月は雲に覆われ、霧が地表を這い出している。

 一晩の林間営には、これ以上ない静けさがあった。


 翌朝。まだ誰も声を発していない頃。


 清樹がそっと焚き火のそばにかがみ、背嚢をひとつ持ち上げた。

「……無いですね。信包が。」


 凛音は、表情ひとつ動かさず答える。

「袋の留め紐、結び直されてる。中を探られた痕跡も……雑ね。」


 他の隊員たちはまだ水場や見張りに散っている。

 凛音と清樹は互いに頷き合っただけで、それ以上は言わなかった。


 朝靄の残る中、一行は再び出発した。

 蹄が濡れた地を踏みしめ、霧の尾を切り裂くように、隊は静かに進み始める。


 その馬上で、凛音が清樹に囁いた。

「……見事に引っかかりましたね。あれだけ『わかりやすい餌』を噛みにくるとは。」


 清樹はちらりと横目をやり、静かに返す。

「中にいた者が動いたのか、外から潜んでいた者がいたのか——」


 凛音は口の端をわずかに持ち上げた。

「どちらにせよ、獲物というのは、焦れば牙を剥く……その姿を見るまで、もう長くはかかりません。」


 そして、昼前。

 霧は薄れつつあるが、木々の影はなお深く、道はぬかるんでいた。

 隊は、雪華との国境へ続く主道を進んでいた——そのはずだった。


「……落石?」


 先頭の斥候が戻ってきて、道が塞がれていると報告する。

 土と岩が崩れ落ち、小規模ながら通行不能な状態だった。


「偶然ではなさそうですね……」清樹が前方を見据えたまま、低くつぶやく。

「土の崩れ方が不自然すぎます。それに……」

 彼は馬を降り、地面に膝をついて蹄の跡を指でなぞる。

「これは——本隊のものではありません。湿り具合と向きからして……数刻前、ここを通った別の騎馬隊がいます。」


 凛音はその言葉に頷いた。

「……伏兵なら、もう現れているはず。目的は襲撃ではなく、誘導ね。」


 空気が一段と張り詰める。


 凛音はすぐさま背後を振り返る。

「ここから北東に抜ける副道がある……そちらに進路を変える。」


「ですが、隊をまとめ直すには時間がかかります。情報伝達も——」


「問題ないわ。」


 そう言って、凛音はある人物に視線を向けた。

「李生。あなたにはここで『援軍要請』を頼みたい……落石の報せを持って、本隊へ戻って。」


 李生の顔に、一瞬だけ読み取れぬ表情が浮かんだ。

「……了解しました、副参謀殿。」


 凛音はそれ以上何も言わなかった。ただ、手綱を引き、馬をゆっくりと副道へ向けて歩ませた。


 その直後、ぱしゃり、と後ろから水飛沫の音がした。

「……ずるいですねぇ、副参謀殿。人を一人だけ離すなんて。」

 南宮逸が、ぬかるみを踏みつつのんびりと近づいてきた。その口調は相変わらず軽いが、目の奥にはいつもより深い光が宿っている。

「さて、援軍が先か、敵軍が先か……興味は尽きませんね。」


 清樹がちらと視線を送るが、何も言わず、ただ前を見ていた。


 凛音の目も、まっすぐ前を向いたまま——ふっと、微かに笑みを浮かべた。


 霧の向こうに、ひとつの影が立っていた。


 ゆっくりと、こちらへ歩み出る。

 仮面をつけた男——その姿は、誰よりもよく知っている。


 「来たのね。」

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