170 霧を抜けても、影は深く
火が落ちた仮の見張り台を、凛音と清樹は音もなく後にした。
空がまだ青く染まる前、足元の泥は冷たく、草露は馬の足首を濡らしていた。
風は止み、霧だけが、まだ名残惜しげに地を這っている。
ひとつ、またひとつ。
フードの端から、夜露が首すじに落ちた。
「……本当に、行くのですね。」
清樹が小声で問うと、凛音はゆっくりと頷いた。
「ええ。でも……口にしたのは『雪華の境』だけ。本当に目指す場所は——まだ内緒。」
視線は前を向いたまま。その言葉は、霧の中へとそっと放たれた——そして、すぐに消えた。
その時。
「副参謀殿!」
低く押し殺した声と共に、十数人の兵を率いた李生が現れた。泥はねを気にする様子もなく、真っ直ぐ凛音のもとへ馬を進める。
「……我々も、同行させていただきます。」
凛音は眉ひとつ動かさず、ただ視線を彼に向けるだけだった。
「……李生?」
「私は、幼き頃より凛律様のもとに仕え、その背中を見て育ちました。あの方が、あの夜あなたに向けて言葉を選んだこと——本心ではないと、私は信じています。ですから……せめて、私がその代わりに、あなたの道を見届けたいのです。」
彼の声は静かで、熱を押し殺していた。
さらに間もなく、後方の木陰から、軽やかな馬の足音が響いた。
「ええ!?お二人だけで雪華に行っちゃうなんて、そんな寂しいこと言わないでくださいよ。」
南宮逸が、ぴしゃぴしゃと水たまりを踏みながらやってきた。
「それに……私も、『見たいもの』があるんです。誰が、どう動くとか。」
凛音は何も言わずに目を逸らした。
最後に、誰の声もなく。だが背後で、柳懐風が黙って馬に跨り列に加わる。
口元に微かな笑みを浮かべたまま、視線はどこまでも凛音の背中に向けられていた。
こうして、「凛音の意志で編成されたわけではない隊」が静かに揃っていく。
その場にいた誰もが知らない——
この旅が、誰を炙り出すものなのか。
あるいは、すでに誰かが、「網にかかった」ままなのかもしれない。
夜が更け、焚き火の灯りも、ほとんど消えかけていた。
一行は、雪華との国境に近い林の中で、一晩だけの仮営を張っていた。
湿った木の葉が、風に揺れて微かな音を立てる。
小屋ではなく、ただ布を張っただけの簡素な野営。
人の気配が曖昧になるぶん、むしろ都合がよかった。
そんな静けさの中で、凛音がふいに声をかけた。
「そういえば、逸殿下にはお礼を言わなきゃいけませんね。林家が火事になったとき、蓮と陛下に知らせに行ってくれたのが……あなたなんでしょう?」
「そ~うなんです~ちゃんと感謝してくださいね?」
逸はいつもの調子で肩をすくめ、ひらりと笑う。
「でも、不思議ですね。あの日、どうしてうちに?……後で蓮に聞いたんですよ。作戦会議に、あなたは呼ばれてなかったって。」
その場に、短い静寂が落ちた。
逸の口元には、わずかな逡巡。そして——
「あー……バレちゃったかぁ。」
彼は苦笑しながら、あっさりと言った。
「単純にね、気になっただけ。四国の王子王女が一堂に会すっていうから、
……こっそり覗いてみたくなったんですよ。」
四国——?
清樹がすかさず目を細めた。
凛音の視線も鋭くなる。彼は、凛音の素性を知っている。
逸がその事実を口にしたということは、彼もまた——知っていた、ということ。
李生が横から問い返した。
「……四国?白瀾と天鏡、それに……蒼霖と?いや……玄霄と?」
「あ、あー……口が滑りましたっ。今のナシでお願いします~」
逸は笑ってごまかしながら、ちらりと凛音の顔色を窺う。
凛音は、それ以上何も言わなかった。ただ、静かに鞄に手を伸ばした。
革の背嚢。
脇の浅いポケットに、一通の封書を滑り込ませる。紙はまだ乾ききっておらず、指先に微かな冷たさが残る。
雪華国の封蝋。筆致は、どこか見覚えのあるものだった。
月は雲に覆われ、霧が地表を這い出している。
一晩の林間営には、これ以上ない静けさがあった。
翌朝。まだ誰も声を発していない頃。
清樹がそっと焚き火のそばにかがみ、背嚢をひとつ持ち上げた。
「……無いですね。信包が。」
凛音は、表情ひとつ動かさず答える。
「袋の留め紐、結び直されてる。中を探られた痕跡も……雑ね。」
他の隊員たちはまだ水場や見張りに散っている。
凛音と清樹は互いに頷き合っただけで、それ以上は言わなかった。
朝靄の残る中、一行は再び出発した。
蹄が濡れた地を踏みしめ、霧の尾を切り裂くように、隊は静かに進み始める。
その馬上で、凛音が清樹に囁いた。
「……見事に引っかかりましたね。あれだけ『わかりやすい餌』を噛みにくるとは。」
清樹はちらりと横目をやり、静かに返す。
「中にいた者が動いたのか、外から潜んでいた者がいたのか——」
凛音は口の端をわずかに持ち上げた。
「どちらにせよ、獲物というのは、焦れば牙を剥く……その姿を見るまで、もう長くはかかりません。」
そして、昼前。
霧は薄れつつあるが、木々の影はなお深く、道はぬかるんでいた。
隊は、雪華との国境へ続く主道を進んでいた——そのはずだった。
「……落石?」
先頭の斥候が戻ってきて、道が塞がれていると報告する。
土と岩が崩れ落ち、小規模ながら通行不能な状態だった。
「偶然ではなさそうですね……」清樹が前方を見据えたまま、低くつぶやく。
「土の崩れ方が不自然すぎます。それに……」
彼は馬を降り、地面に膝をついて蹄の跡を指でなぞる。
「これは——本隊のものではありません。湿り具合と向きからして……数刻前、ここを通った別の騎馬隊がいます。」
凛音はその言葉に頷いた。
「……伏兵なら、もう現れているはず。目的は襲撃ではなく、誘導ね。」
空気が一段と張り詰める。
凛音はすぐさま背後を振り返る。
「ここから北東に抜ける副道がある……そちらに進路を変える。」
「ですが、隊をまとめ直すには時間がかかります。情報伝達も——」
「問題ないわ。」
そう言って、凛音はある人物に視線を向けた。
「李生。あなたにはここで『援軍要請』を頼みたい……落石の報せを持って、本隊へ戻って。」
李生の顔に、一瞬だけ読み取れぬ表情が浮かんだ。
「……了解しました、副参謀殿。」
凛音はそれ以上何も言わなかった。ただ、手綱を引き、馬をゆっくりと副道へ向けて歩ませた。
その直後、ぱしゃり、と後ろから水飛沫の音がした。
「……ずるいですねぇ、副参謀殿。人を一人だけ離すなんて。」
南宮逸が、ぬかるみを踏みつつのんびりと近づいてきた。その口調は相変わらず軽いが、目の奥にはいつもより深い光が宿っている。
「さて、援軍が先か、敵軍が先か……興味は尽きませんね。」
清樹がちらと視線を送るが、何も言わず、ただ前を見ていた。
凛音の目も、まっすぐ前を向いたまま——ふっと、微かに笑みを浮かべた。
霧の向こうに、ひとつの影が立っていた。
ゆっくりと、こちらへ歩み出る。
仮面をつけた男——その姿は、誰よりもよく知っている。
「来たのね。」




