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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十五章:過ぎし夢を胸に、還るべき場所へ
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169 春雨の網

 春の雨は、しとしとと糸のように降り続いていた。


 だが、それは大粒の雨が玉盤を叩くような、澄んだ音を響かせる雨ではない。

 霞のように地を覆い、人の輪郭をぼやかすような、重たく静かな雨だった。


 人と人の間には、知らぬうちに「網」のようなものが張られていた。

 誰が誰を見ているのか——誰の顔も、はっきりとは見えない。


 疑念。不信。それらが、じわりと胸の奥へ広がっていく。


 そんな中、軍の中に一つの噂が流れ始めた。

 ——凛律将軍と副参謀の凛音が、意見を巡って激しく衝突したらしい。

 刃を交えたとも、一時不仲になったとも囁かれている。


 それ以来、凛音は常に一人で行動していた。

 誰とも歩調を合わせず、誰にも背を預けず。


 春雨は、今も静かに降り続いている。

 そしてその雨の下で、ひとつの「網」が、音もなく張られようとしていた。


 馬房。

 屋根を叩く雨音が、遠くでくぐもった鼓のように響いている。

 その音を背に、凛音は一頭の軍馬の脇にしゃがみ込み、桶に張った湯でその脚を丁寧に拭っていた。


 蹄の泥を落とし、濡れた毛並みに手を這わせる動きは、迷いなく静かだ。

 人より、よほど信じられる生き物——そう思える日もある。


 だが。


「……っ!」


 何の前触れもなく、馬が激しく身を捩った。

 次の瞬間、後肢が唸るように振り上がる——


 凛音の身体が浮かび、背から硬い土間に叩きつけられた。

 鈍い衝撃とともに、視界が一瞬揺らぐ。


「副参謀殿!」


 慌ただしい足音と共に、馬房の入口から駆け込んできた影。

 李生だった。凛律の部下である若い士官だ。


 彼は素早く凛音の側に膝をつき、その肩を支える。

「ご無事ですか……馬が、どういうわけか突然——」


「……ええ、ありがとう。骨は無事みたい。」

 凛音は息を整えながら立ち上がり、すぐに馬の後ろ脚へと目をやった。

 暴れた馬はすでに落ち着いていたが、後肢をひくつかせている。


 李生が眉を寄せる。

「……様子がおかしい。後ろ脚をかばってる……傷か?」


「いえ……何か刺さってるわね。」

 凛音は手袋をはめ、馬の臀の毛並みをかき分けた。

 そこには、目立たぬように埋まった小さな異物——


「針?」

 彼女は静かにそれを抜き取る。雨に濡れずとも、その先端はなお鋭く光っていた。

「天鏡で虎が暴れた夜にも、同じ針が背中に刺さっていたわ。」


 李生が近づいてくると、その針を覗き込んで、息を呑んだ。

 馬が、毒針で錯乱する——それは偶然などではない。


 彼は一瞬言葉を失い、すぐに表情を引き締める。

「つまり……誰かが意図的に、馬を使って副参謀殿を狙った?」


 凛音は針を指先でそっと回した。

「……ずいぶん、古い手口ね。」


 書庫。

 灯は弱く、春雨の湿気を含んだ紙の香りが漂っている。

 清樹は棚から一冊の軍書を抜き取り、そのまま近くの机に腰を下ろした。

 すると、背後から聞き慣れた声音が届く。


「わあ、まさかここで清樹くんに会うとは。こんな雨の日に書庫なんて、ずいぶん渋いですねぇ。」

 南宮逸だった。片手に茶菓子の包みを抱え、もう片方の手で軽やかに扇を回している。


「……逸殿下こそ、書庫に用などあるのですか?」


「失礼な。こう見えても、私だって軍備の勉強くらいはしますよ。

 まあ、大抵は本より人のほうが面白いですけどね。とくに、嘘のつき方とか。」


 清樹は本をめくりながら、さらりと返す。

「嘘というのは、つき慣れていない者ほど、よく目立つものです。」


「ええ、だからこそ、私は目立たないようにつくんです。」


 二人の会話は、あくまで穏やかに、だが一手ずつ水をさすように進んでいく。

 そんな中、清樹はページをめくる手を止め、何気なく言葉を落とした。

「……そういえば、近日中に、私は雪華の西境へ一度向かうことになるかもしれません。」



 逸の扇がぴたりと止まった。

「へえ、そうなんですか?このタイミングで?」


「ええ、凛音様のご判断です。何か、気になることでも?」

「いえいえ。ただ、あなた方が動けば、動きたくなる人たちもいるかもしれませんし。」


「誰のことを言っているのかは、存じ上げませんが。」


「誰でもありませんよ。ただの、軍人の勘です。」

 そう言って逸は、ひとつ茶菓子をつまみ、清樹の机に置いて立ち去っていく。


 演習用の物資庫、その裏手。

 凛音は、帳簿のひとつを手に取り、黙々とページを繰っていた。

 灯火は小さく、雨音が遠くに響く。


 その瞬間、

 ——鋭い命令の声とともに、十数名の兵が一斉に現れる。


「副参謀・林凛音。軍備記録への無断接触は軍規違反と見做す。」

 先頭に立っていたのは、凛律だった。


 彼の目は冷え切っていた。声も一切の情を感じさせなかった。


 凛音はゆっくりと本を閉じ、振り返る。

 兵たちの緊張は剣のように張り詰めていた。


「なるほど……さすがはお兄様、早いお手並みですね。」

「ここは戦場だ、凛音。軍規は誰であろうと例外ではない。」


「それは結構なこと。でも、私がここに来たのは、命令に従ったまでです。」

「誰の命令だ。」


「——蓮の。白瀾国の王子の、直接の指示です。」


 場に、ざわりとした動きが走る。


 李生が一歩前へ出た。

「凛律将軍、彼女は……何か、正当な理由があって動いたはずです! いきなり断罪など……っ」

 彼の声は真っ直ぐだが、わずかに熱がこもりすぎていた。


 凛律は視線を向けた。

「李生、お前は黙っていろ。私がここで軍律を曲げれば、それは私の負けだ。」


 南宮逸が、隊列の後方からふっと笑いながら扇を開いた。

「ふたりとも、落ち着いて落ち着いて。

 ……まさか、白瀾と雪華、どちらに忠を尽くすかをここで決めろって話じゃないですよね?」


 その言葉に、空気が一層きな臭くなる。


 一人の若手副将が焦ったように声をあげた。

「っ……殿下の命であれば、我々が口を挟むことでは——」


「黙れ。」

 凛律の一喝が場を裂いた。


 凛音は笑わない。ただまっすぐに兄の目を見つめる。

「私を止めたければ、それも軍律に従えばよろしい。追放でも、拘束でも。」


 凛律はわずかに目を伏せ、そして告げた。

「……林凛音。本日をもって、お前はこの軍を離れる。

 ここには……もう、お前の『務め』はない。」


「了解しました。ですが私の任務は終わっていません。

 私は雪華の西境へ向かいます。殿下の命に従い。」


 彼女は振り返ると、雨の中へ歩き出した。


 その背を、誰が見送ったのか。

 誰が追おうとし、誰が目を逸らしたのか——

 それを、凛律は一人、全て見ていた。


 夜更け、小高い丘に張られた仮の見張り台。雨は止んでいた。

 火盆の灯りが揺れ、風音と混ざって心の奥を静かに掻き乱す。

「内通者より先に、焦っていた誰か——それを見たかった。一歩手前で、勝手に動いた人。」

「知ってる。だからこそ、『わざと見せた』、あの毒針。」


「李生殿も……少し反応が早すぎたように、私は思います。」

「逸殿下の動きも、気になります。『嘘が得意』って、自分から言う人ほど怖いわね。」


 火盆の中で薪がぱちりと音を立てて弾ける。


 しばらく沈黙が落ちた。

 やがて凛音は、立ち上がり、夜の闇を見下ろした。

 その視線の先には、軍の本陣から伸びる一筋の道。霧がまだ薄く残っている。


「……そろそろ、網を引く頃ね。」


 実は現在、カクヨムで3作品を同時に更新しています。

 そのため、執筆と更新のバランスを取るために——

 『雪の刃』は、今日から隔日更新(1日おき)に変更させていただきます。

 毎日楽しみにしてくださっている方には申し訳ありませんが、

 ストーリーの密度やテンポを大切にしながら、丁寧に続けていきたいと思っています。


 というのも、6月はちょっと遠出の予定があって、犬のお誕生日もあるんです〜

それに、夏が近づいてきて、お花や植物のお世話の時間もぐんと増えてきました。

 そして6月下旬には、猫島の物語もついに完結予定〜!


 そうそう、お花といえば……なんと、清遥が一番好きな「ブーゲンビリア(三角梅)」をお迎えしちゃいました!

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818622175732518791

 わたしのはちょっと紫がかった赤なんだけど、とにかく元気で、ぱっと明るくなる色で……見るたびにテンション上がりますね!


 引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!

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