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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十五章:過ぎし夢を胸に、還るべき場所へ
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168 兄と妹

 朝まだき。

 凛律は早くから厨房に立ち、銀耳と蓮実の甘煮を丁寧に煮ていた。


 軍の中で彼は、日頃から稽古を怠らず、

 厳しくも穏やかな眼差しで兵を導く少将である。

 ——ただし、そこに凛音がいるとなれば話は別だ。

 彼は一変して、微笑みを絶やさぬ兄様となるのである。


「音ちゃん、もう起きてるかい?兄ちゃん、入るよ。」


 そう言いながら、湯気の立つ盆を手に、帳の中へと入っていく。

 凛音はすでに机に向かい、静かに筆を走らせて写経をしていた。


「お兄様、どうなさったの?」

 凛音は筆を止め、顔を上げてやわらかく問いかける。


「急がなくていいよ。まずはこれ、あったかいうちに飲んで。」


 凛音は筆と書をそっと側卓に移し、手元を整える。

 それを見届けてから、凛律はそっと盆を目の前に置いた。


 盆の上には、透き通るような銀耳と蓮実が浮かぶ甘煮の碗と、

 今朝、彼が馬を駆って山中から摘んできた、名も知らぬ一輪の花が添えられていた。


「……ありがとう、お兄様。」

 凛音は匙を手に取り、そっと一口啜った。

 その瞬間、目元がほんのり潤む。けれど、口元には小さな笑みが浮かんでいた。

「……これは、お母様の味ですね。」


「うん。君が白瀾を離れたあと、翠羽が教えてくれたんだ。この一年、彼女はずっとお母様のそばにいて、君の好きだった料理の作り方をいろいろと教わったらしい。」


 凛音は黙ったまま、何も言わなかった。

 凛律はそれ以上問いただすこともなく、そっと隣の榻に腰を下ろす。


「……甘すぎなかったかい?実は、初めて作ったんだ。砂糖の加減が、いまいち分からなくて。」


 凛音はレンゲを置き、ふと顔を上げて凛律を見た。

「火事の件、調べはどうなっていますか?」


 凛律は少し目を伏せ、悔しさを滲ませながら答えた。

「……まだ、はっきりした手がかりはない。あの日、屋敷は跡形もなく焼け落ち、多くの使用人も命を落とした。証拠になりそうなものは、ほとんど残っていなかった。」


「——あの日、あの人は林家の護衛の鎧を身に着けていました。母がお亡くなりになる直前、手首には誰かに強く掴まれた痕があった。きっと……その者と争っていたはずです。」

 凛音は、声を震わせぬよう、ゆっくりとその言葉を紡いだ。


「……でも、私が現場に駆けつけた時には、既にあの賊の遺体はなかった。お母様の遺体も、傷一つなく、安らかなままだった。」


「……お母様の遺体が無傷だったのは、浮遊が——私の後悔を癒そうとしてくれた結果だわ。」


 凛律は黙り込んだまま、深く思案に沈む。

 そんな兄を見つめながら、凛音はまた問いかけた。


「火薬は——どこから流れたものなの?調べは?」


「……黒市から兵営に流れた記録がある。軍の中で、密かに火薬が横流しされていた。」

 そう言って、凛律は悔しげに奥歯を噛みしめた。


 凛音は一瞬で自らの髪簪を抜き、左隣にいた凛律へと反手で突き出した。

 簪の鋭い先端は、凛律の喉元——わずか一センチ手前でぴたりと止まる。


 凛律の目が見開かれる。

「音ちゃん……」


「お兄様は、いつだって優しすぎる。甘すぎるのよ。」

 凛音は簪を握ったまま、涙を滲ませながら兄を見据えた。


「奸臣や逆賊を相手に、お兄様はきっと計りきれない。

 忠義や信義に縛られて、手を緩めてしまう。

 それでは……いつかお兄様も——私のように、全てを失ってしまうわ。」


 彼女の声は震えていた。

「お兄様……一番怖いのは、自分を守れないことじゃない。

 林家を守れず、父を守れず、最後には……その現実と、たった一人で向き合わなきゃいけなくなることよ。」



 凛音の言葉は、一語一語が鋭く胸に突き刺さるようだった。

 それは凛音自身が味わってきた痛みであり、そして——兄である自分に向けられた、切実な願いでもあった。


 凛律はそっと手を伸ばし、彼女の手——簪を握るその細い指に、優しく触れた。


「……音ちゃん。君は独りじゃない。何もかもを失ったわけじゃない。」


「お兄様……私は、幼い頃からずっと、あなたのそばで育ちました。

 お父様も、あなたも、私に真心を尽くしてくれた。そのことは、誰よりも私が知っています。そして私もまた、心から、お二人を敬い、愛しています。」


「——だからこそ、許せないのです。

 お父様が、あんな濡れ衣を着せられ、お母様のように、あなたたちまでが……私のせいで命を落とすことになるなんて、そんな未来だけは、どうしても受け入れられない。」


 凛律は、何も言えなかった。

 どんな言葉を返しても、今の凛音には届かないような気がして——

 いや、むしろ、何を言っても彼女を遠ざけてしまいそうで、

 言葉そのものが、彼の喉に貼りついたままだった。


「……お兄様が、林家を守れる器に至れないというのなら——

 私は……林家を離れるしかありません。」


 凛音が言い終えるか否かのうちに、凛律はその身体を強く、抱きしめた。


 その瞬間、凛音の手に握られていた簪が、真っ直ぐに彼の腕へと刺さった。

 赤い雫がぽた、ぽたと床を濡らしていく。


 凛音の動きが止まった。

 兄の体温と、滲む血のぬくもりが、すべてを奪うように、胸を締めつける。


「——私が真相を突き止める。お母様が受けた理不尽を、この手で正す。

 そして、林家を、お父様を……私が守り抜く。

 だから……行かないでくれ、音ちゃん。」


「では、お兄様。私に一計、ございます。この軍に巣食う者、共に炙り出しましょう。」


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