165 騒がしい監軍、まかり通る
軍営・本陣幕舎
厚い帷幕で囲まれた帳の中には、簡素ながらも厳格な空気が張り詰めていた。
白瀾国側の軍将たちは、整然と用意された木机に静かに着席する。
その中央に立つのは、総指揮を務める凛律。隣には副参謀として同行する凛音の姿があった。
凛律は小さく頷き、報告の声を受けた。
「——玄霄国代表、ただ今、幕舎前に到着との報。」
幕が静かに開かれる。
まず姿を現したのは、副将と思しき若き武官。
その鋭い眼差しと無駄のない動きに、精鋭としての気迫がにじむ。
彼は一礼ののち、黙って席に着いた。
そして——
重い足音と共に、ひときわ大柄な男がゆっくりと入ってくる。
身にまとっていたのは、深く澄んだ蒼を基調とした海色の甲冑。
日輪の斜光が甲冑に差し、淡く輝くような気配を纏っていた。
その凛とした眼差しと堂々たる気配だけで、彼がただの軍人ではないことを、誰もが悟った。
——新たな玄霄国王・淵礼である。
凛音の瞳が、ほんの一瞬揺れた。
「……白瀾の諸将、久方ぶりにお目にかかります。
玄霄軍・第一陣指揮、淵礼、参上つかまつりました。」
低くよく通るその声に、凛律はすぐ立ち上がり、同様に一礼を返す。
「白瀾軍・総指揮、林凛律。
本日の合同演練、何卒よろしくお願い申し上げます。」
淵礼の視線がふと凛音に向けられる。
凛律はそれに気づいたように、少し微笑みを浮かべながらも、丁寧に紹介を続けた。
「我が妹・林凛音。副参謀として、今回の会議に同席しております。」
その言葉に、淵礼はようやく自分が凛音を見つめすぎていたことに気づいたのか、わずかに表情を崩し、視線を逸らす。
そして、気まずさを払うように凛律の肩を軽く叩きながら、穏やかに言った。
「かつて同じ敵を斬った仲だ。今日は、遠慮なく意見を交わせそうだな。」
一瞬、凛律の眉がわずかに動く。
けれどその違和感はすぐに胸の奥へと仕舞い込まれ、彼はすっと立ち上がり、拳を胸に当てて一礼した。
操演の準備が着々と進められ、弓術、騎射、歩兵陣形の模擬演習に向けて、各部隊が配置についていた。
そのとき——
「やあやあ、お待たせしました~監軍、ただ今参上ですぞ!」
軍営の外から、場違いなほど軽やかな声が響いた。
現れたのは、淡い若草色の衣に身を包んだ青年。
腰にはこれでもかというほどの飾り紐や玉佩、首にも耳にも吊り下げた宝石がきらきらと光っている。
見るからに「実戦より宴会」向けなその出で立ちに、場の空気が一瞬止まった。
「おやおや、皆さん揃ってるではありませんか。私が来る前に始めるとは……いやはや、これは監軍の監督不行き届きというやつですねぇ?」
その気の抜けるような言いぶりに、凛音は思わず声を上げた。
「い、逸殿下!?」
その声を聞いた途端、彼は嬉しそうに駆け寄ってくると、勢いよく凛音の手を取った。
「ねえねえ、凛音お姉さま聞いてよ。父上、ひどいと思わない?
こんな真面目そうな軍営に、私を監軍として放り込むなんて!」
凛音が呆気に取られていると、傍らにいた凛律と淵礼(※建前:軍将 ※実際:妹が心配すぎるただの兄×2)が同時に一歩踏み出す。
四人の空気が微かに張り詰めるなか——
逸はあっさりと凛音の手を放し、両手を頭上に上げた。
「おっと、おふたりともご安心を。私はとって食ったりしませんよ~」
両手をひらひらと降ろして背後に組み、肩をすくめて小声で呟いた。
「……ま、あなたがここにいるなら、退屈しないで済みそうだけど。」
そして次の瞬間、仰々しく胸を張って叫んだ。
「さあ、皆さま、こちらにおわすは林将軍の愛娘!
文にも武にも通じた才媛にございますれば、本日の白瀾軍、蒼霖軍の皆々に決して引けは取りませんぞ——あ、違った違った。今は『玄霄』でしたな、失礼っ!」
その瞬間、演習場の周囲がざわめいた。
兵たちは三々五々、ひそひそと噂を交わし始める。
彼の一言で、またしても凛音は衆目の的になった。
——当の本人は、まったく気にする様子もなかった。
……が。
「逸ッ!!」
凛律の怒号が、場を切り裂いた。
「おやおや、お兄様。まさか蓮兄上の代わりに、私を叱る気ですか?」
相変わらず軽薄そうな笑みを浮かべながらも、逸が一歩も引かない様子を見せると、凛律は堂々とした足取りでその前に立ちはだかった。
その姿は、まさに「軍の顔」そのものだった。
「……逸殿下。玄霄国の皆様を前にした無礼、直ちに謝罪してください。
それができないのなら——この軍営から、今すぐ出て行きなさい!」
逸は一瞬だけ凛律を見上げ、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「うわぁ、そんなに怖い顔しないでくださいよ~こっちは胃が痛くなりそうですってば。」
そしてくるりと振り返り、玄霄の陣営に向かって軽く頭を下げる。
「はいはい、こちらこそ口がすべりまして。玄霄の皆さま、不快なお気持ちにさせてしまったのなら、まことに申し訳ございません~」
その言葉自体は丁寧だったが、どこか芝居がかっていて、妙に軽い。
けれど、その軽さの下に、逸なりの「線引き」が確かにあった。
それを感じ取った者たちは——渋々ながらも黙って頷いた。
号令の角笛が高く鳴り響き、軍旗が風に翻る中、ついに演練が開始された。
最初に登場したのは、白瀾軍の弓兵隊。百余名の兵が整然と並び、一斉に弓を引き絞る。鋭い光を放つ矢の先端が、一直線に的を射抜くべく狙いを定めていた。
「放て!」
指揮官の号令と同時に、空気を裂くような破裂音。矢の雨が一斉に飛び、見事なまでに前方の的へと突き刺さった。
玄霄側の将官も目を細め、静かに頷く。続いて自軍の弓兵たちにも合図を送り、負けじと応戦の構えを見せた。
だが——
観覧席のあちこちでは、誰もが戦技そのものにだけ集中しているわけではなかった。
つい先ほどの「林将軍の愛娘」という突発的な宣言、玄霄王・淵礼が送った意味深な視線、そして凛律の激しい叱責……すべてが「林凛音」という存在に注目を集めさせていた。
「……あの子、まさか出てくるつもりじゃ?」
「剣だけじゃなく、弓の腕も相当らしいぜ!」
「陛下、さっき見てたよな……あの視線、普通じゃなかったな。」
そんな空気の中、飄々とした声が演練場に響き渡った。
「いやぁ、退屈だなあ、この手の演練って!ねえ、凛音お姉さまも一つ、腕前を見せてくれませんか~?」
にやりと口角を上げるのは、もちろん逸殿下。
その言葉に、場の空気が一気に揺らぐ。
「目隠しでも的を外さないって噂、ぼくも聞いたことあるよ?だったら今ここで、みんなに見せてあげたらどう?……だって、『白瀾国一の弓の名手』なんでしょ、凛音お姉さま~?」
ひそめられていたざわめきが、今や抑えきれない波となって広がっていく。
一斉に注がれる視線——そのすべてが、ひとりの少女へと向けられていた。
凛音は、その中心に立っていた。
だが、動かず、笑いもせず。
風が吹き抜け、鬢に飾られた翡翠の簪が、微かに揺れる。
凛律と、そして淵礼へと順に視線を向けたのち——
彼女は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
そして、はっきりと告げる。
「…………出陣を、願います。」




