164 朝夕にあらずとも
朝の微かな光がまだ部屋を染めきらぬ頃、化粧台の蝋燭がそっと火を灯された。
翠羽は凛音の背後に立ち、細心の注意を払ってその髪を整えていた。
指先が柔らかく、しかし予想以上に短くなった髪に触れたとき、彼女は思わず呟いた。
「……凛音さまの髪、やっぱりずいぶん短くなってしまいましたね……」
その声音には、少しの責めと、少しの寂しさが混じっていた。
けれど凛音はふっと微笑み、明るく応えた。
「今はもう、だいぶ伸びた方よ。あの時は自分で切ったから、本当にひどい有様だったの。」
翠羽は一瞬驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。
「……それは、それは。」
彼女は髪を丁寧に整えたあと、錦の小箱から翡翠の簪を取り出し、凛音の髪にそっと差した。
「これで……整いました。」
凛音は軽く頷いたが、その直後、ふと何かを思い出したように小声で言った。
「……そういえば、もう一本簪があったはずなんだけど?」
翠羽はすぐに反応し、まるで待っていたかのように、化粧台の引き出しから赤い漆の小箱を取り出した。
蓋を開けると、上質な絹の上に、一本の簪が静かに横たわっていた。
それは、全体が漆黒の玄鉄で作られた簪だった。
根元から真っ二つに折れ、断面は鋭く光っていた。まるで、何かに斬られたかのように——
しばしの沈黙ののち、翠羽が丁寧に口を開いた。
「……これは、蓮殿下から預かったものです。凛音さまが目を覚ましたら、きっと探すと思って……そう仰っていました。」
凛音は黙ってその簪を手に取り、そっと見つめた。
その瞳に、一瞬だけ、ほんの微かな涙の色が浮かぶ。
——ありがとう、父上。……ありがとう、玄武。
彼女はひとつ深く息をつき、小箱の蓋を静かに閉じた。
支度を終えた凛音は、すっと立ち上がる。
今日の装いは、たしかに女の姿ではある。だがそれは、宮廷の華やかな衣ではない。
黒地に紅の縁取りを配し、袖口には精緻な文様が施された、動きやすい戦装束だった。
髪は高く束ねられ、姿勢は凛と引き締まっている。
凛音は振り返り、翠羽に微笑んだ。
「……じゃあ、軍営へ行ってきます。」
あの日を境に、凛音と蓮は、少しだけ距離を取るようになった。
——といっても、それは林将軍の忠告に怯えて、身を引いたわけではない。
彼女が気にしたのは、むしろ父の心だった。
すでに多くを失ってきた林将軍が、それでもなお自分の恋慕を気にかけてくれる——その想いが、ただただ胸に痛かった。
けれど、距離を取るといっても、完全に連絡を絶ったわけではない。
たとえば、今のように。
凛音は軍営への出立を控えていた。
だというのに、彼女は筆を取り、さらさらと短い手紙を綴って、白い鳥の脚にくくりつけた。
両手でその小さな体を包み込み、目を細めて優しく囁く。
「……行って。蓮のところへ。」
一方その頃、白瀾の王宮——
蓮は寝殿の窓辺に腰掛け、ため息を何度目か分からないほどついていた。
眉間にはしっかりと皺が寄り、肩はだらりと落ちている。
過去から戻ったあとで知ったのだ。
あの日の雀宸殿の「騒ぎ」は、全て父王の芝居だったということを。
——「朱雀を召喚しながら、王とならぬ道など許されようか?」
あのときの堂々たる宣言。まるで正論の塊みたいな口ぶりだったが、
今にして思えば、面倒ごとをすべて押しつけたうえで、自分はちゃっかり逃げただけじゃないか。
「……朱雀を呼んで、戦場に駆けつけさせたのも父上だし。どうやったらあんなにテキトーそうに見えて、裏では全部計算ずくになるんだよ……」
誰に言うでもなく、蓮は一人でぶつぶつと文句をこぼす。
その背後から、李禹がぼそっと呟いた。
「……殿下。正直、似た者親子だと思います。」
「……いや、待て待て。凛凛と引き離された流れ、あれ……全部仕組まれてたってこと?父上と師匠、表と裏で挟まれてたとか……冗談じゃない……」
ちょうどそのとき、白い鳥がひらりと飛来し、李禹の腕にとまった。
彼はその脚に結ばれた紙片を丁寧に解き、蓮の方へ差し出す。
「殿下。凛音さまからのお便りです。」
蓮は少し不満げな表情を浮かべながらも、どこか諦めたように小さく息をつき、紙片を受け取った。
そして、そっと広げ、静かに目を落とす。
「兩情若是久長時、又豈在朝朝暮暮。」
(両情 若しこれ 長久ならん時、
また 豈 朝朝暮暮たるに 在らんや。
想い合う心さえ変わらぬならば——
朝夕を共にできなくても、何の問題があるの?)
目を通した瞬間、蓮の口元にふっと笑みが浮かぶ。
「……まあ、待つとするか。」
軍営の門を越え、馬を駆る凛音の姿が遠くから見えてきた。
その瞬間、訓練場の中央で兵士たちを指導していた凛律が、誰よりも早く気づいて駆け寄ってくる。
彼女がまだ馬上にいるうちに、凛律は手を伸ばし、笑顔で手綱を取った。
「音ちゃん、来てくれたんだな。ごめんな、こっちは動けなくて、見舞いにも行けなかった。」
「気にしないでください、お兄様。」
凛音はにっこりと笑いながら答え、そして視線を横へ向けた。
目の前には、整然と並ぶ兵士たち。
誰ひとり無駄口を叩かず、号令に従って厳しく鍛錬を重ねている。
その光景に、彼女は少し驚きながら問う。
「……何か、あったんですか?」
「大事ってほどじゃないよ。ただ……玄霄国が急に軍事演習を申し出てきてね。」
「……どうして、いきなり?」
凛音が眉を寄せると、凛律は少しだけ意味ありげに微笑んだ。
「……おそらく、淵礼が君のことを気にしてるんだろうな。様子を見に来るついでに、ってやつだよ。」
ふと、凛音は顔を上げて尋ねた。
「お兄様……玄霄国の歴史って、どうなっているんですか?」
予想外の問いに、凛律は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐにまっすぐな声で答えた。
「歴史っていうなら……そうだな。
淵礼は幼い頃から非凡な器を持っていて、策略にも長けていたけど、それでも剣の修練を怠らなかった。
彼が即位したのは当然の流れだと思うし、亡き父君を偲んで国号を改めたことも、大義のあることだと思う。」
凛律の瞳には敬意と尊敬が宿っていた。言葉にも迷いはなかった。
だが——
その答えに、凛音はかすかに目を伏せる。
かつて並び立ち、共に戦い、命を懸けて「玄霄国」の名を勝ち取ったあの日々。
その記憶が——凛律には、もう残っていないのだ。
彼の語る淵礼は、凛音の知る「クラウス」ではなかった。
共に剣を振るい、背中を預け合ったあの戦場の相棒——
あの、剣の腕は未熟で、無謀なほどに真っ直ぐで……
「淵礼兄上」でも、なかった。
しばらく沈黙が流れる。
凛律はそんな凛音の表情に気づいて、首を傾げながら声をかけた。
「……音ちゃん?どうしたんだ?」
凛音は小さく首を振り、笑って見せた。
「……なんでもないです。」




