163 歳月
朝の光が、薄絹の帳越しに柔らかく差し込んでいた。
凛音は病床に上体を起こし、背後に当てられた薄紫の枕にもたれかかっていた。
枕元には蓮がいて、薬碗を持ったまま、どこか安心したような顔で彼女を見つめている。
凛音はその薬を口に含みながら、ふと、ぽつりと呟いた。
「……ねえ、今の歴史って……どうなってるの?」
薬の苦味が舌に広がるのと同時に、胸の奥に小さなざらつきが残った。
今朝突然目を覚ましたとき、すでに蓮はこの部屋にいた。
どうやら、ずっと林府に居座っていたらしい。
……皇宮に帰ってないんだ。
その問いに、蓮は少し驚いたように瞬きをしてから、柔らかく答えた。
「……父上は、天鏡国と雪華国の王が命をかけて戦い抜いて、最後には民のために自らを犠牲にしたからこそ、諸国が混乱せずに済んだ——そう父上は伝えて回ったんだ。」
「じゃあ……雪華国の民は?」
「国境の向こう側——もともと同じ水脈を分かつ場所だしね。父上は、無理に雪華という名を残すのではなく、その土地の生活を壊さない形で、白澜の保護下に置いたんだ。」
「……それなら、それで、よかった。」
凛音はふと顔を上げ、しばし考えるようにしてから、ぽつりと呟いた。
「……じゃあ、清樹君は?お母さんは……どうなったの?」
「ここにいますよ~」
外室で梨を剥いていた清樹が、ひょいと顔を出しながらにこにこと笑って入ってきた。
「僕、ずっと星宮で白虎さまのそばにいたじゃないですか?だから記憶も改ざんされなかったし、時間の修正からも外れてたんです。だから……僕の母も、生き返ったりしてません。」
「そんな……」
凛音は唇をかみしめ、悔しさと寂しさの混じった目を伏せる。
「結局、私が一番大事にしてた人たちの、過去も未来も……何も変わってないんだね。」
「凛音さま。」
清樹はやわらかく笑いながら、手にした梨をそのまま差し出した。
それはまだ切っていないままの、まるごとの梨だった。
「僕の母は、もともと疫病や毒で亡くなったわけじゃないんです。病気でしたよ?
それに、凛音さまと一緒に歩いてきた記憶……そんなの、捨てるわけないじゃないですか。」
「だからね、実は——ほとんどの人の記憶は変わってないんです。変わったのは、雪華国や……毒に関係してた人たちだけ。凛凛、安心してください。」
そう言ったのは清樹ではなく、また蓮だった。
凛音は、それを聞いてようやく少しだけ表情を緩めた。
だが——蓮は間髪入れず、付け加えた。
「……でもね、変わったこともある。あの宰相、凛凛が先に斬っちゃったから。
だから祖母上、今は冷宮にはいないんだ。」
凛音は一瞬、目を見開いて、それから少し困ったように笑った。
そして、まるで蓮を慰めるかのように、ゆっくりと答えた。
「……でも、もしかしたらね。宰相がいなかったら、皇太后さまも、あんなことはしなかったかもしれないよ?」
「どうかな。」
蓮は視線を逸らしながら、ぼそりと呟いた。
まるで、その可能性を否定したいような、でも信じたくもあるような——
そんな曖昧な声音だった。
そのとき、清樹はずっと饒舌もせず、妙に興味深げな表情で、凛音と蓮を交互に眺めていたが、いつの間にか、完全に凛音だけを見つめていた。
視線が、あからさまに逸れない。
「……清樹君、どうかした?」
凛音が問いかけると、清樹はぴしっと姿勢を正し、どこか芝居がかった丁寧な口調で訊ねた。
「凛音さま。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん。」
凛音は優しく笑みを浮かべてうなずいた。
「凛音さまと蓮殿下って……ご結婚、されたんですか?」
その瞬間——
凛音は飲んでいた薬を思わず噴き出しかけた。
だがなんとか体裁を保とうと、慌ててそれを飲み込み……そして見事に喉に詰まった。
「けほっ、けほっ……!」
ひどく咳き込み始めた凛音の背を、蓮は静かに、だが妙に丁寧にぽんぽんと叩いた。その手つきは、明らかに「見せつけ」を含んでいるような気さえした。
ようやく咳がおさまった凛音は、仕方なさそうに苦笑いを浮かべた。
「……まあ、そう……言えなくもない……かな?」
そのとき——
「……なっ、凛音!今、何と言った!?」
奥の間から、ひときわ低く、鋭い声が響いた。
林将軍の声だった。滅多に聞かないほどの、厳しい調子で。
「……どういうことですか!」
凛音は口を開きかけたものの、どう説明していいか分からず、言葉に詰まった。
代わりに、蓮がすぐに笑顔で口を挟んだ。
「冗談ですって、師匠。」
「冗談……?殿下、そんなことが冗談で済むとでも?」
林将軍の声音はさらに硬くなった。
これまでどんな時も泰然としていた彼が、こんなふうに声を荒げるのは、凛音にとっても初めてのことだった。
蓮もさすがに表情を引き締め、軽口を封じた。
が、次の瞬間——
「殿下、本日はこれでお帰りください……お見送りも、差し控えさせていただきます。」
明確に告げられたその言葉に、室内の空気がひやりと凍った。
蓮は凛音に一度視線を向け、それから林将軍を見た。
自分の軽口が、あまりにも不適切だったことをようやく悟り、何も言わずにその場を後にした。
林将軍はちらりと清樹を見てから、短く告げた。
「……清樹、お前も下がれ。」
「……お父様?」
清樹が戸惑いの声を上げると、将軍は凛音の反応を待つことなく、重い口を開いた。
「——普段はあまり多くを言わぬつもりだったが、これは別だ。終身のことを、軽々しく扱ってはならん。」
凛音が何か言おうとした瞬間、それを遮るように、彼の声が続いた。
「私は白瀾国に忠誠を誓っている。だが——お前まで、そうである必要はない。
皇家に嫁ぐということが、どれほど過酷なことか……男の私ですら知っている。
ましてや、お前の正体が露見したらどうする?命を狙われることだってある。」
「……お父様。蓮は、すでに私の正体を知っています。」
それでも将軍の視線は鋭く、言葉は揺るがなかった。
「わかっている。だが、王宮の者すべてが蓮と同じではない。
お前を脅威と見て、抹消しようとする者がいないとは限らん。」
凛音は、そのまま黙り込んだ。父の言葉の一つひとつが、胸の奥に刺さる。
「……凛音。」
林将軍の声が、ふと柔らかくなった。
「……これ以上、お前が傷ついていくのを、黙って見ていることはできん。」
林将軍は——その生涯を、ただ一振りの剣に懸けてきた。
戦場に立ち続けた歳月は、幾多の命を救い、不義を討ち、国を守るためにあった。
威風堂々としたその姿は、正義の体現であり、白瀾にとってひとつの誇りでもあった。
息子・凛律をも国家に捧げ、家よりも民を、自分よりも大義を選び続けたその背中は、いつも強く、揺るぎなかった。
——だが。
そんな彼が、老いを意識したのは、ほんの半年ほど前のことだった。
愛した妻は、あの夜、炎の中で帰らぬ人となった。
娘はそれより遥か昔——十二年前、理不尽な毒に倒れ、幼くして命を奪われた。
そして——我が子のように大切にしてきた凛音までもが、何度も傷つき、血を流し……
今回はついに、昏く、長い眠りへと堕ちていった。
目覚めるかどうかも分からない凛音を前に、
林将軍は、かつてないほどの孤独と後悔を味わった。
……気づけば、髪には、いつの間にか、見慣れぬ白が混じっていた。
背は変わらず大きいのに、不思議と、その輪郭は寂しく見えた。
——あのとき、もっと違う選択ができていれば。
——自分がただの父親でいられたなら。
そんな想いを、林将軍は決して言葉にはしない。
けれど、その静かなまなざしの奥には、
どんな敵よりも深く、冷たい「後悔」の影が、確かに彼の瞳に宿っていた。
凛音の心が、ぎゅっと締めつけられた。父がどれほど疲れていたのか——凛音には、このときようやく分かった。そして、彼女はゆっくりとうなずいた。
「……わかりました。お父様。」
実は、カクヨムで新しい作品を始めました〜!
タイトルは、
『もう人間に戻らなくていいかも?異世界で猫になったら毎日が天国でした!』です
今連載している『雪の刃』とは全然違う雰囲気で、
この作品は、ちょっと疲れた自分を癒すために書き始めたもので……
書いてるうちにすごく楽しくなって、「ああ、小説ってやっぱりいいなあ」と思わせてくれた、大切な作品です。
今回はカクヨムのコンテストに参加している関係で、こちらにはアップしていませんが、
どうしても……ちょっとだけでも……気になった方がいたら!
ぜひ、遊びに来ていただけたら嬉しいです〜
ちなみに、毎話に自分で撮った猫の写真や動画もつけています!
第4話からは動画も登場!にゃんとも可愛いので、見てほしいな〜!
https://kakuyomu.jp/works/16818622174619917874/episodes/16818622174622514266
ふわふわの猫たちと一緒に、癒しと笑いとちょっぴり冒険の「異世界ねこライフ」、あなたも始めてみませんか?




