161 ひとりひとりの「よかった」
歴史は――変わらなかった。
雪華国は、滅びた。
王・凌霄寒とその妻・陶清遥は、既にこの世を去っている。
息子の淵礼と、娘の千雪も、幼くして国も家族も失ったまま。
すべては記されている通り、変わることのない過去だ。
けれど――歴史は、確かに変わっていた。
雪華国と白瀾国の辺境は、血の海とはならず、犠牲は最小限に留まった。
国は滅びたが、民は生きた。
そして、凌霄寒は最後に、生き残った人々そのものを、洵に託して逝ったのだ。
滅亡と生存。
変わらぬものと、確かに変わったもの。
歴史は、交錯し、重なり合って、ひとつの「今」へと続いている――
朝陽が、透かし彫りの窓格子を静かに抜け、斜めに寝所へと差し込んでいた。
外では竹がそよぎ、微風に揺れる影が室内の光とともに優しく踊る。
淡い金色の輝きは、水色の絹で織られた錦の上に広がり、美しく柔らかな波紋を描いていた。
寝台の脇に置かれた小さな几の上では、昨夜焚かれていた銀絲の香炉がすでに火を落とし、ほのかな煙だけが残っている。薄く漂う檀の香りは、開け放たれた窓から流れ込む草花の匂いと溶け合い、生命の気配を絶妙に織り成していた。
そして――
その寝台の少女は、ゆっくりと瞼を開けた。
「……ここは、どこ?」
掠れるような小さな声だったが、それでも隣に控えていた侍女は涙を滲ませ、飛び込むように凛音の傍に駆け寄った。
「凛音様!お目覚めになられたのですね……本当に、よかった……」
「翠羽?どうして、あなたが……」
戸惑いながら、凛音は両手で寝台を支え、ゆっくりと身を起こそうとする。
慌てた翠羽はすぐに座布団を手に取り、凛音の背にそっと当てた。
「ここは……林家のお屋敷です。もっとも、今は――再建された新しい林府ですけれど。このお部屋も、凛律様が凛音様のために、一つひとつ心を込めて整えたものなのですよ。」
凛音はゆっくりと辺りを見渡した。
確かに、ここは林府――けれど、記憶の中のあの屋敷とは、まるで別の場所のようだった。
燃え尽きた過去の影はもうなく、見知らぬ新しさばかりがそこにある。
懐かしさも温もりも、ほんの少し遠い。
それでも、ここが「帰るべき場所」であることに、変わりはなかった。
凛音は、胸元に鈍い痛みを感じた。思わず手を当て、そっと肩のあたりまで衣をずらしてみる。
――だが、そこに傷はなかった。
「……そんな、はず……」
たしかに、自分はあの時、鋭く突き立てられた刃の感触も、身体を貫いた痛みも、鮮明に覚えている。そして、ここは十二年後の――林府?
凛音の思考は混乱したまま、答えを探しきれずに宙を彷徨う。
気づけば、彼女は慌てて寝台から身を起こし、ふらつく足で立ち上がっていた。
しかし――
「……っ」
足元から力が抜け、そのまま床へ崩れ落ちる。
「凛音様、ずっと眠ってばかりで……お薬しか口にしてないんですから、もう体が動くわけないですよ!」
咄嗟に駆け寄った翠羽が、しっかりと凛音を支えた。
「ほら、じっとしててください。すぐに何か食べられるものを持ってきますから!」
彼女は困ったように微笑み、そっと凛音を寝台へ戻そうとする。
「……翠羽、蓮は……」
凛音は息も絶え絶えに、かすれた声で尋ねた。
「蓮はどこにいるの……呼んでくれない?」
「はい! すぐに! 蓮殿下と凛律様に、凛音様が目を覚まされたとお伝えしてきます!」
翠羽は嬉しそうに何度も頷き、ぱたぱたと小走りで部屋を後にした。
残された凛音は、まだ現実味のないこの部屋の中で、再び目を閉じた。
片刻後、蓮も慌ただしく駆けつけた。
彼は白地に淡い藤紫を差した長衣を纏い、そこには金糸で蓮の文様が繊細に織り込まれている。
髪をまとめた冠には、鍍金の蓮が幾重にも重ねられ、中央には清らかな白玉がひと雫――露のように静かに光を宿していた。
耳元で揺れる数本の青黒い髪は、端正な顔立ちに洒脱さと気品を添えている。
「凛凛、目を覚ましてくれたんだね!」
蓮はすぐさま凛音のそばに腰を下ろし、そっと彼女の肩を支えた。
その眼差しは、言葉にできないほど優しく、安堵に満ちていた。
「……よかった……本当に……」
凛音は、ふと首を傾げながら問いかけた。
「蓮、これは……一体、どういうこと……?」
だが、蓮はすぐには答えなかった。
ただ、苦しげに唇を噛み、静かに目を伏せた――
しばらくして、ようやく蓮は口を開いた。
……これは、凛凛には、私の口から伝えなければならないことだ。
「……凛凛は……叛逆を企んだ宰相を、斬った。だから、辺境の人々は……ほとんど、生き延びたよ。ほんの少し、年老いた人たちや、病にあった人たちは……そのまま……だけど。」
「本当に?それなら……よかった!それなら、雪華国は――」
凛音は、安堵のあまり、ほっと笑みを浮かべた。
だが、蓮は……その笑顔を、真正面から受け止めることができなかった。
「……凛凛。」
呼びかける声は、ひどくかすれていた。
「私は、傷を負っていたはずなのに!どうして……どうして、こんなにも何もないの?私たちは……どうやって戻ってきたの?」
凛音の問いに、蓮は小さく息を飲み、そっと目をそらした。
肩が震え、堪えきれず、涙が頬を伝う。
凛音は震える手で蓮の顔をやさしく掴み、強く見つめた。
「……言って……ください。」
「凛凛の父上と天鏡国の女王陛下は……命と、契約の力のすべてを……差し出した。
それが、私たちを、この今へ……返してくれた。」
蓮の声は、まるで凛音に届かないように――届いてほしくないように――囁くように淡かった。
けれど、凛音の耳には、そのひとつひとつが鋭く突き刺さるように響いていた。
凛音は、言葉を失ったまま、震える手で蓮の顔を掴んだ。
「……それじゃ……」
「雪華国は……」
蓮は、最後まで言葉を詰まらせた。
けれど、それでも逃げずに、凛音をまっすぐに見据えた。
「……滅びたんだ。霄寒陛下が最後に託したのは……国ではない。ただ、生き残った人々だけだった。彼は……すべてを抱いて、そのまま、逝ったんだよ。」
蓮の顔に触れていた凛音の手は、ふっと力を失い、そのまま重く落ちた。
指先はかすかに震え、彼女の眼差しも、どこか遠くを見つめるようにぼんやりと沈んでいく。
やがて――
凛音の目尻から、一粒、また一粒と涙が静かにこぼれ落ちた。
それは、嗚咽もなく、ただただ静かな涙だった。
次の瞬間。
凛音は、糸の切れた人形のように蓮の胸元へと力なく身を預け、そのまま意識を手放した。
「凛凛!」
蓮が思わず抱きとめた時、凛音はすでに深い眠りの中に落ちていた。
しかし、その閉じられた瞳の端からは――なお、止まることなく涙が流れ続けていた。
……そうか……これが、私たちが「変えた」結果なんだ。
国はなくても、人は生きた。父上は……最後まで、そう選んだんだ……
第五部、はじまりの一話へようこそ。
昨日の物語では、あえて語りきらなかった「変わったもの」と「変わらなかったもの」。
その答えを、今日、そっと綴りました。
ちなみに、新たに現れた「雪の刃」と女王の犠牲――実は第140話ですでに予告していましたよ。気づいていましたか?
改めて思います。なぜ、あのような第四部の結末を書いたのか――
きっと私は、心のどこかでこう信じているのでしょう。
現実は、いつも残酷で、決して全てが美しい幻想に塗り替えられるものではないと。
過ぎ去った日々の良し悪しも、すべてがかけがえのない「歩んできた道」なのだと。
だからこそ。
凛音が選んだ未来は、完全に変わったわけではない。
けれど、確かに変わった未来でもある。
――私たちにできることは、ただ、悔いなく努力し、歩み続けることだけ。
そう信じて、物語の続きを紡いでいきます。
本日も読んでくださり、ありがとうございました。




