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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十五章:過ぎし夢を胸に、還るべき場所へ
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161 ひとりひとりの「よかった」

 歴史は――変わらなかった。

 雪華国は、滅びた。

 王・凌霄寒とその妻・陶清遥は、既にこの世を去っている。

 息子の淵礼と、娘の千雪も、幼くして国も家族も失ったまま。

 すべては記されている通り、変わることのない過去だ。


 けれど――歴史は、確かに変わっていた。


 雪華国と白瀾国の辺境は、血の海とはならず、犠牲は最小限に留まった。

 国は滅びたが、民は生きた。

 そして、凌霄寒は最後に、生き残った人々そのものを、洵に託して逝ったのだ。


 滅亡と生存。

 変わらぬものと、確かに変わったもの。


 歴史は、交錯し、重なり合って、ひとつの「今」へと続いている――


 朝陽が、透かし彫りの窓格子を静かに抜け、斜めに寝所へと差し込んでいた。

 外では竹がそよぎ、微風に揺れる影が室内の光とともに優しく踊る。

 淡い金色の輝きは、水色の絹で織られた錦の上に広がり、美しく柔らかな波紋を描いていた。


 寝台の脇に置かれた小さな几の上では、昨夜焚かれていた銀絲の香炉がすでに火を落とし、ほのかな煙だけが残っている。薄く漂う檀の香りは、開け放たれた窓から流れ込む草花の匂いと溶け合い、生命の気配を絶妙に織り成していた。


 そして――

 その寝台の少女は、ゆっくりと瞼を開けた。

「……ここは、どこ?」


 掠れるような小さな声だったが、それでも隣に控えていた侍女は涙を滲ませ、飛び込むように凛音の傍に駆け寄った。

「凛音様!お目覚めになられたのですね……本当に、よかった……」


「翠羽?どうして、あなたが……」

 戸惑いながら、凛音は両手で寝台を支え、ゆっくりと身を起こそうとする。

 慌てた翠羽はすぐに座布団を手に取り、凛音の背にそっと当てた。


「ここは……林家のお屋敷です。もっとも、今は――再建された新しい林府ですけれど。このお部屋も、凛律様が凛音様のために、一つひとつ心を込めて整えたものなのですよ。」


 凛音はゆっくりと辺りを見渡した。

 確かに、ここは林府――けれど、記憶の中のあの屋敷とは、まるで別の場所のようだった。

 燃え尽きた過去の影はもうなく、見知らぬ新しさばかりがそこにある。

 懐かしさも温もりも、ほんの少し遠い。

 それでも、ここが「帰るべき場所」であることに、変わりはなかった。


 凛音は、胸元に鈍い痛みを感じた。思わず手を当て、そっと肩のあたりまで衣をずらしてみる。

 ――だが、そこに傷はなかった。

「……そんな、はず……」


 たしかに、自分はあの時、鋭く突き立てられた刃の感触も、身体を貫いた痛みも、鮮明に覚えている。そして、ここは十二年後の――林府?


 凛音の思考は混乱したまま、答えを探しきれずに宙を彷徨う。

 気づけば、彼女は慌てて寝台から身を起こし、ふらつく足で立ち上がっていた。

 しかし――


「……っ」

 足元から力が抜け、そのまま床へ崩れ落ちる。


「凛音様、ずっと眠ってばかりで……お薬しか口にしてないんですから、もう体が動くわけないですよ!」

 咄嗟に駆け寄った翠羽が、しっかりと凛音を支えた。

「ほら、じっとしててください。すぐに何か食べられるものを持ってきますから!」

 彼女は困ったように微笑み、そっと凛音を寝台へ戻そうとする。


「……翠羽、蓮は……」

 凛音は息も絶え絶えに、かすれた声で尋ねた。

「蓮はどこにいるの……呼んでくれない?」


「はい! すぐに! 蓮殿下と凛律様に、凛音様が目を覚まされたとお伝えしてきます!」

 翠羽は嬉しそうに何度も頷き、ぱたぱたと小走りで部屋を後にした。


 残された凛音は、まだ現実味のないこの部屋の中で、再び目を閉じた。


 片刻後、蓮も慌ただしく駆けつけた。

 彼は白地に淡い藤紫を差した長衣を纏い、そこには金糸で蓮の文様が繊細に織り込まれている。

 髪をまとめた冠には、鍍金の蓮が幾重にも重ねられ、中央には清らかな白玉がひと雫――露のように静かに光を宿していた。

 耳元で揺れる数本の青黒い髪は、端正な顔立ちに洒脱さと気品を添えている。


「凛凛、目を覚ましてくれたんだね!」

 蓮はすぐさま凛音のそばに腰を下ろし、そっと彼女の肩を支えた。

 その眼差しは、言葉にできないほど優しく、安堵に満ちていた。

「……よかった……本当に……」


 凛音は、ふと首を傾げながら問いかけた。

「蓮、これは……一体、どういうこと……?」


 だが、蓮はすぐには答えなかった。

 ただ、苦しげに唇を噛み、静かに目を伏せた――


 しばらくして、ようやく蓮は口を開いた。

 ……これは、凛凛には、私の口から伝えなければならないことだ。


「……凛凛は……叛逆を企んだ宰相を、斬った。だから、辺境の人々は……ほとんど、生き延びたよ。ほんの少し、年老いた人たちや、病にあった人たちは……そのまま……だけど。」


「本当に?それなら……よかった!それなら、雪華国は――」


 凛音は、安堵のあまり、ほっと笑みを浮かべた。

 だが、蓮は……その笑顔を、真正面から受け止めることができなかった。


「……凛凛。」

 呼びかける声は、ひどくかすれていた。


「私は、傷を負っていたはずなのに!どうして……どうして、こんなにも何もないの?私たちは……どうやって戻ってきたの?」


 凛音の問いに、蓮は小さく息を飲み、そっと目をそらした。

 肩が震え、堪えきれず、涙が頬を伝う。


 凛音は震える手で蓮の顔をやさしく掴み、強く見つめた。

「……言って……ください。」


「凛凛の父上と天鏡国の女王陛下は……命と、契約の力のすべてを……差し出した。

 それが、私たちを、この今へ……返してくれた。」


 蓮の声は、まるで凛音に届かないように――届いてほしくないように――囁くように淡かった。

 けれど、凛音の耳には、そのひとつひとつが鋭く突き刺さるように響いていた。


 凛音は、言葉を失ったまま、震える手で蓮の顔を掴んだ。

「……それじゃ……」


「雪華国は……」

 蓮は、最後まで言葉を詰まらせた。

 けれど、それでも逃げずに、凛音をまっすぐに見据えた。

「……滅びたんだ。霄寒陛下が最後に託したのは……国ではない。ただ、生き残った人々だけだった。彼は……すべてを抱いて、そのまま、逝ったんだよ。」


 蓮の顔に触れていた凛音の手は、ふっと力を失い、そのまま重く落ちた。

 指先はかすかに震え、彼女の眼差しも、どこか遠くを見つめるようにぼんやりと沈んでいく。


 やがて――

 凛音の目尻から、一粒、また一粒と涙が静かにこぼれ落ちた。

 それは、嗚咽もなく、ただただ静かな涙だった。


 次の瞬間。

 凛音は、糸の切れた人形のように蓮の胸元へと力なく身を預け、そのまま意識を手放した。


「凛凛!」

 蓮が思わず抱きとめた時、凛音はすでに深い眠りの中に落ちていた。

 しかし、その閉じられた瞳の端からは――なお、止まることなく涙が流れ続けていた。


 ……そうか……これが、私たちが「変えた」結果なんだ。

 国はなくても、人は生きた。父上は……最後まで、そう選んだんだ……


 第五部、はじまりの一話へようこそ。

 昨日の物語では、あえて語りきらなかった「変わったもの」と「変わらなかったもの」。

 その答えを、今日、そっと綴りました。

 ちなみに、新たに現れた「雪の刃」と女王の犠牲――実は第140話ですでに予告していましたよ。気づいていましたか?


 改めて思います。なぜ、あのような第四部の結末を書いたのか――

 きっと私は、心のどこかでこう信じているのでしょう。

 現実は、いつも残酷で、決して全てが美しい幻想に塗り替えられるものではないと。

 過ぎ去った日々の良し悪しも、すべてがかけがえのない「歩んできた道」なのだと。


 だからこそ。

 凛音が選んだ未来は、完全に変わったわけではない。

 けれど、確かに変わった未来でもある。


 ――私たちにできることは、ただ、悔いなく努力し、歩み続けることだけ。

 そう信じて、物語の続きを紡いでいきます。


 本日も読んでくださり、ありがとうございました。

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