159 ただ一人のために
凛音は馬を駆り、雪を蹴立てて走っていた。
しかし、目的地が見えてきたその時、不意に手綱を強く引き、馬を止める。
凛とした冷気の中、凛音は顔を上げ、まっすぐ空を見据える。
「……浮遊、出てきて。」
すると、雲間から一筋の光が差し、青白の龍が姿を現した。
だが、凛音は顔を伏せたまま、なかなか目を合わせようとはしなかった。
「……どうした、凛音。」
心配そうに問う浮遊に、彼女はかすかに震える声で答える。
「……ごめん。結局、水源が毒に侵される過去を、変えられなかった。たぶん……母上はきっと、雪蓮に毒をかけてしまったはず。」
悔しさに滲む言葉。しかし沈黙は、ほんの一瞬で破られた。
凛音は、ぐっと顔を上げ、まっすぐ浮遊の瞳を見据える。
「でも、悲しんでいる時間はもう終わり。まだ救える。人も、水も、そして雪蓮も。私は——絶対に、あなたを『信仰を失う神様』にはさせない。」
決然としたその声に、浮遊はふっと笑みを浮かべた。
「……やっぱり、諦めないんだな。」
凛音はふっと笑った。その笑みは、どこまでも清らかで、力強い。
「当然よ。今度は浮遊だけじゃない。私も一人じゃない。一緒に行こう、私の神様。」
応じるように、浮遊は滑らかに体を翻し、凛音の隣へ寄り添った。
そして、二人は再び雪原を駆け出す――
今度こそ、この手で過去を変え、未来を掴む。
凛音は記憶を頼りに、水源の上流にある湖へとたどり着いた。
そこは、思わず足を止めるほど穏やかで美しい場所だった。
雪解け水が満ちた湖は静かに波紋を広げ、どこか安らぎさえ感じさせる。
枯れ木などはなく、空も澄み渡り、風も心地よく吹き抜けていく。
「こんな場所が、あの未来の毒の源になるなんて。」
凛音はわずかに首を傾げ、記憶との違いに戸惑いを覚えた。
その時だった。
湖畔に降り立った小鳥が、首を傾けながら水を啄ばみ、数度羽ばたこうとした瞬間——
突然、力なくそのまま水面に崩れ落ちた。
水面に浮かぶ小さな亡骸。
さっきまでの穏やかさが、嘘のように色を変える。
凛音は息を呑んだ。
間違いない。ここが、あの未来へと繋がる「毒のはじまり」なのだ。
凛音は深く息を吸い、思いつめたように呟いた。
「浮遊……どうすればいいの?この水の毒、完全に突き止める方法なんて……」
けれど、浮遊が答えるより先に、彼女は自分で考え込んでしまう。
「未来では、何年も毒が蓄積して、動物や人の亡骸も混ざって……湖そのものが毒の塊だった。あのときは、潜れば原因がすぐ分かった。でも今は……違う。」
凛音は唇をかみしめ、さらに続ける。
「まだ毒の成分すら分からない。木炭や草木灰、甘草を使うなんて……それは一時しのぎにしかならないよ。井戸なら封印して新しく掘れば済むけど……これは湖だよ?こんな広い場所、どうすれば……」
そのとき、不意に浮遊がくすりと笑った。
「はは……わしの力を、忘れたのか?」
凛音は一瞬きょとんとして、すぐに気づく。
「……浄化。そっか、浮遊なら!」
しかし、すぐに眉をひそめ、不安そうに言葉を続ける。
「でも……本当に大丈夫なの?これほど大きな湖を浄化するなんて、あなたに害はないの?」
浮遊はわずかに優しく、それでもどこか不安そうに微笑み、こう告げた。
「心配いらんよ。ただ……そのあと何があっても、わしはお前を守ってやれんかもしれん。たとえば――時に消される存在になる千雪を、な。」
凛音は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げ、強く、そして優しく微笑んだ。
「そんなの、気にしてないよ。ただ、もしそうなったら……浮遊、悲しまないで。ちゃんとまた、誰かと出会って、もう一度――世界を見て。」
「……やはり、お前と鳳華は似てるな。」
そう呟くと、浮遊は湖の中心へと舞い降りた。
その身を緩やかに翻し、悠然と宙を漂い、すれすれに水面へと近づく。
次の瞬間、彼の全身から青白い光があふれ出した。
光は風もなく、ただ静かに、しかし確かに湖へと染み渡っていく。
優しく、それでいて確固たる意志を宿したその輝きは、毒の気配を包み込み、穏やかに押し流していく。
やがて湖面は徐々に澄み、波ひとつない鏡のような静けさを取り戻していった。
それは誰が見ても言葉を失うほどの光景で、まるで世界そのものが祝福を受けているかのようだった。
浄化の只中、浮遊はふと凛音の方へ目を向けた。
その青白い輝きの中で、彼はほんのわずかに、けれどこの上なく優しい笑みを浮かべる。
それが本当に笑顔なのか、自分でもよくわからない。
――ただ、鳳華は言っていた。
「悲しい時こそ笑うんだ。辛い時ほど、誰かのために笑ってあげるんだ」と。
だから、わしは笑う。
凛音が心配してくれる。だから、彼女の前では笑っていたい。
かつて、わしは誓ったはずだった。
くだらん争いに、もう二度と関わらないと。
欲望と憎しみで命を奪い合う彼らに、うんざりしていたから。
それでも――わしは、またこうしている。
彼女の願いを無視できなかった。
いや、きっと彼女が大切にしている命までも、見捨てたくなかったのだ。
じゃあ、誰がわしの代わりに彼女を守る?
なぜ、救うためには、たった一人の彼女を犠牲にしなければならない?
青白い光は湖の隅々にまで広がり、毒は完全に消え去った。
その中で浮遊は凛音を見つめ、どこまでも優しく、どこまでも深く微笑み続けていた。
不問塵寰几許情,
惟憐一念繫浮生。
卿心所願皆吾誓,
與汝同存護世清。
かつて考えたことがある。
「皆を救うために皆を救う神」と、「たった一人を愛しているから、その人が大切にする命と世界もすべて守る神」、どちらが本物なのか、と。
たぶん、前者のほうが「神様らしい」のかもしれない。博愛で、誰にも平等で。
けれど——
凛音と、そして私と。
この百三十話以上を共に歩んできた浮遊には、やっぱり後者であってほしいと思った。
誰よりも身近にいて、誰よりも凛音を想ってくれる存在であってほしい。
そう、私は——浮遊が、浮遊であることを望んでいるのだ。
今回の漢詩、その訓読・発音・意味の解説は、こちらにまとめています。
https://kakuyomu.jp/works/16818622171416398754/episodes/16818622174532735579
また、今回の詩に合わせたイラストはこちらになります。
https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818622174534956577




