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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十四章:鏡の光に別れを、未来の空に願いを
157/183

157 願い、届かず

 朝霧は重く、王城全体を包み込んでいた。

 昨夜の祝福と喧騒は跡形もなく消え、散らされた花弁も灯りの残滓も、今はただ虚ろにそこにあった。


 そんな中――


「……清遥様?」

 最初に駆けつけたのは凛音だった。

 彼女の声は、あまりにも静かな室内に、不釣り合いなほど震えて響く。


 窓辺に佇む清遥は、降り積もる雪の静けさに包まれ、ただ穏やかに時を止めているようだった。

 けれど、その指先は既に冷たく、

 その胸元は、どこまでも静かに――二度と上下することはなかった。


「……嘘、だよね。」


 後を追うように現れた蓮も、思わず言葉を失った。


 けれど、誰よりもそれを理解していたのは凛音だった。

 ――どれほど過去を変えても、この結末だけは覆らないのか。


 彼女は一歩近づき、そっと清遥の頬に手を伸ばす。

 ひんやりとした感触が、逃れようのない現実を突きつけてきた。


「母上……」


 沈黙は、あまりにも残酷だった。

 ようやく口にできた、心からのその呼び名さえ――

 応える者など、もうどこにもいない。

 こんなにも滑稽で、涙さえ無意味に思えるほどだった。


 凛音は、膝をつき、力なく瞳を閉じた。

 昨日、笑い合った時間が、あまりにも遠く思えた。


 ――こうして雪華国は、王妃の喪失という「朝」を迎えた。


 その数日前。


 夜も更け、王城はひっそりと静まり返っていた。

 すべての灯りが落ちた中、ただ一箇所、ほのかに光が漏れている場所があった。王妃専用の厨房だ。


 清遥は炉の前で薬湯を煎じていた。くすんだ薬草の香りが漂う中、慎重に火加減を見極めている。

「……もう少し。これで千雪の容体も、きっと……」

 自分に言い聞かせるように呟き、彼女は薬の色が変わるのをじっと見守った。


 だが、そんな穏やかな時間は、突然破られる。

 背後で気配が揺れた。


 振り向いた清遥の視線の先、そこにはいつの間にか黒いフードと覆面を身につけた男が立っていた。どこから入り込んだのか、まるで闇そのもののように無言で佇んでいる。


「……その薬、無駄だよ。」


 低く抑えた声が空気を裂く。清遥は思わず身を強ばらせ、即座に声を上げた。

「誰――!?誰か! 誰か、助けて――!」


 だが、男は微動だにせず、静かに首を振る。

「呼ぶのか? いいだろう。ただ、忘れるな。お前の娘を救えるのは、私だけだ。」


 その言葉に、清遥の動きは止まった。驚きと戸惑いが交錯する中、彼女は眉をひそめて問い返す。

「……どういう意味?」


 男は冷然と続ける。

「おかしいと思わなかったか? どれほど名医が薬を尽くしても、彼女の病状は一向に良くならない。むしろ、悪化している。」


 清遥は息を呑み、思わず煎じていた薬に視線を落とす。

 男は一歩踏み込み、まるで決定打を放つかのように断言した。


「病ではない。あれは毒だ――すでに体は内側から蝕まれている。」


 言葉は容赦なく、重くのしかかった。

 清遥は唇を強く噛みしめ、鍋の縁を握る手に力がこもる。


「……あなたは、誰なの。」

「名乗る必要はない。ただ、取引をしよう。」


 男は淡々とした口調で言い放つ。

「私と手を組めば、彼女を救う術を授けよう。」


 その声は甘い囁きにも似ていたが、選択の余地などないことは明白だった。

 清遥は数瞬の沈黙の末、重く息を吐き出す。


「……内容は?」


 だが男は、それ以上は語らず、わずかに口元を歪めた。

「――決めるのはお前だ。いずれ、選ぶ時が来る。」


 その言葉だけを残し、闇の中へと音もなく消えていった。

 取り残された清遥の耳に、不気味な余韻だけが、いつまでもこびりついて離れなかった。


 現在――


「……どうしてだ……っ!」


 霄寒は崩れ落ちるように膝をつき、清遥の冷たい身体を抱きしめた。

 その腕は震え、堪えきれない嗚咽が、広間にむなしく響く。


「これほど尽くしたのに……何度も、何度も救おうとしたのに……なぜだ、なぜ清遥は……」


 叫びは次第に悲痛さを増し、やがて彼の声は掠れていく。

 それでも霄寒は、清遥の頬に何度も頬を寄せ、まるで彼女がまだ息をしているかのように囁き続けた。


「……目を開けてくれ、頼む……一度でいい……もう一度だけ、『霄寒』を呼んでくれ……」


 呼びかけは当然、虚空へと消えていくだけだった。

 それでも彼は止められなかった。


 愛した者を、この腕の中で失ったという現実が、あまりにも受け入れがたかった。

 どうしても認めることができない。ただただ、戻らない彼女に縋るように、霄寒は泣き続けた。


 広間は、誰もが言葉を失ったまま、静まり返る。

 昨日までの祝福と笑顔は、今やすべてが遠い幻と化していた。


 ――その時だった。


 扉の外から、慌ただしい足音が響き、重く沈んだ空気を切り裂くようにして、近衛の兵が駆け込んできた。


「報告!国境で異常事態発生!原因不明の疫病が……人々が次々と倒れています!」


 その言葉に、場の空気が凍りついた。

 霄寒も、凛音も、蓮も、顔を見合わせた一瞬で、すべてを悟っていた。


 ――やはり、終わりは避けられなかったのか。


 凛音は唇を強く噛み、震える声で言葉を絞り出す。

「……疫病じゃない。これは――毒だ。」

 彼女の声は、まるで絶望を確定させる宣告のように、広間に響き渡った。


 こうして、祝福の夜が明けたその朝、雪華国は滅びへと歩み始めたのだった。


 夕陽が西の空に沈みかけ、あたり一面の雪原をやわらかな紅に染め上げていた。

 まるで清遥の好きな三角梅が、一斉に咲き誇ったかのように。


 そんな景色を眺めながら、清遥は霄寒の腕の中にそっと身を寄せた。


「ねえ、霄寒。私たちの娘、名前は何がいいと思う?」

 膨らみはじめたお腹を撫でながら、彼女は嬉しそうに問いかける。


 霄寒は苦笑しつつ、優しく清遥の髪を指で梳いた。

「まだ生まれてないのに、どうして女の子だって決めつけるんだ?」


 問い返す彼に、清遥は自信たっぷりに微笑む。

「そんなの、もうわかってるもん。」


 その言葉に霄寒は少し照れたように笑い、ふと思いついたように言った。

「じゃあ……『念遥ネンヨウ』はどうだ?お前を想う気持ちを、そのまま名前に込めて。」


「ふふっ、なんだかちょっとベタすぎない?」

 清遥はそう言いつつも、むしろ嬉しそうに霄寒の腕をぎゅっと抱きしめる。


「じゃあ、私の案も聞いて。『千雪』って、どうかな。」


 霄寒は不思議そうに眉をひそめる。

「千雪?どうして?」


 清遥は雪原を見つめ、少し照れくさそうに微笑んだ。

「だって、あなたは雪華国の王様でしょう?私はこの国に来て、この真っ白な雪が大好きになったの。雪は澄んでいて、優しくて、まっすぐで……まるであなたみたい。」


「だから、この子には千重の雪のように、純粋で、美しく、そしてこの大地を心から愛せる子になってほしい。ここが、彼女にとって一番幸せな場所でありますように――そんな願いを込めて。」

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