155 二組の親子
数日前、雪華の宮廷を震わせた刃と叫びは、今や遠い記憶となりつつあった。
だが、それを知らぬ城下は、今日も変わらず賑わっている。
広場には子どもたちの笑い声が響き、露店の賑わいも戻り、雪原に新たな足跡が刻まれていく。
まるで、あの日の嵐など最初から存在しなかったかのように。
――けれど、その賑わいは、宮廷の奥深くまでは届かない。
広場の喧噪と、宮廷を包む沈黙。
外と内の間には、越えられぬ隔たりがあった。
笑顔と涙。希望と不安。城の中と外で、あたかも異なる時を刻んでいるかのようだった。
「……そろそろ、戻るべき時かもしれない。」
凛音の言葉に、誰もが声を発することなく頷いた。
その表情には、ほっとした安堵と、拭いきれない寂しさが入り混じっている。
円卓を囲むのは、蓮、霄寒、そして天鏡国の女王。
この数日、誰もがなんとなく感じていた思いが、ようやく形になった瞬間だった。
敵は討たれ、雪華国を覆っていた闇は払われた。今なら、きっと歴史も変わり始めているだろう――誰もが、そう信じたかった。
もはや宰相はこの世になく、清遥を苦しめる者もいない。
穏やかさを取り戻した宮廷に、彼らが留まる理由は、もうないのかもしれない。
沈黙の中、ぽつりと蓮が呟く。
「……でも、千雪ちゃんのことは、やっぱり気になる。」
彼は窓の外、雲の切れ間から顔を覗かせた淡い空をじっと見つめていた。
その横顔には、わずかな迷いと静かな決意が滲んでいる。
この時代に長く留まることは、やはり危うい。
未来から来た凛音と、この時代に生きる幼い千雪――
同じ存在が共にあり続けることが、いつか大きな矛盾を生むかもしれない。
誰もがその不安を胸に抱きながら、あえて口にしないできたのだった。
「……凛音、あなたもわかっているはずです。」
女王が、真剣な声で言葉を継いだ。
「このままここに留まれば……たとえ未来が変わったとしても、その先を見届けることは、もう叶わないかもしれません。」
それは優しく、けれど否応なく現実を突きつける言葉だった。
霄寒は黙ったまま、じっと凛音を見つめていた。
その瞳が語るものは、誰よりも深く、そして重かった。
それは、王としてではなく、父親としての無言の想いだった。
凛音は小さく息を吐き、皆の顔をゆっくりと見渡した。
そして、静かに微笑みながら、頷いた。
「……うん。たぶん、今がその時なんだと思う。」
今こそ、すべての答えを胸に、未来へ帰るべき時。
凛音たちは、それぞれの想いを抱きながら、決意を新たにした。
その時――
「……あら、みんな、こんなところで何を話してるの?」
ぱたぱたと軽やかな足音と共に、清遥がにこやかに現れた。
「いや、少し……これからのことをね。洛白たちはまた旅に出るし、女王陛下も天鏡に戻られることになって。」
霄寒が柔らかく、やや曖昧に説明する。
「えっ、もう行っちゃうの? せっかく皆が集まったばかりなのに……」
清遥はほんの少し残念そうに目を丸くしたが、すぐに手を打ってぱっと表情を明るくした。
「だったら送別会をしましょうよ! あと……そういえば――洛白さんと凛音ちゃん、結婚式、まだだったわよね?」
唐突な言葉に、一同は思わず目を瞬かせた。
しかし、清遥はそんな空気など気にも留めず、楽しげに続ける。
「じゃあ、一緒にうちでやればいいじゃない! 雪華での結婚式、きっと素敵になるわよ〜!」
あまりにも自然で無邪気で唐突な提案に、凛音も蓮も一瞬言葉を失った。
「……いや、でも……」
蓮は言葉を濁し、困ったように凛音の方をちらりと見た。
その耳はほんのり赤く、普段の冷静さはどこかへ消えている。
だが、その迷いを断ち切るように、霄寒も突然口を開いた。
「……この先、また顔を合わせる機会は……もう、そう多くはないかもしれない。」
その声音は、淡々としていながら、どこか寂しげだった。
王としてではなく、ただ一人の父親として――この時間を少しでも形に残してほしい、そんな想いが滲んでいた。
清遥と霄寒、二人の思わぬ後押しに、凛音と蓮は顔を見合わせた。
――本気、というわけじゃない。けれど……
大切な人々の記憶に、「終わりではなく、幸せな思い出」を刻むために。
そんな理由なら……悪くない、かもしれない。
「……うん、そうだね。それも……いいかも。」
凛音は、どこか照れくさそうに微笑みながら、そっと頷いた。
「……ああ、まあ……その……仕方ない、かな。」
蓮も観念したように小さく息を吐き、耳まで真っ赤にしながら、目を逸らすように呟いた。
こうして、思いがけず――雪華での結婚式が決まった。
翌朝、宮中はまさにお祭り騒ぎだった。清遥の「全力モード」が発動したのだ。
「いい?これは国を挙げてのお祝いよ!みんな、気合い入れて!」
命じられた女官たちも文官たちも、てんてこ舞いであちこちを走り回る。
式の段取り、装飾、料理、招待状――その全てに清遥自らが目を光らせていた。
そして当然、凛音もその渦中に巻き込まれることになる。
「さあ凛音ちゃん、こっちよ!まずは衣装合わせから!」
抵抗する間もなく引きずられるようにして、彼女は宮中の一室へと連れて行かれた。そこには豪奢な婚礼衣装の数々が並び、侍女たちが忙しなく動き回っている。
「……ま、待って、ちょっと準備ってレベルじゃない……」
凛音は苦笑いを浮かべながらも、清遥と侍女たちの勢いに押され、あれよあれよという間に着替えさせられた。白と青を基調にした雪華国の正装。それはどこか神秘的で、凛音の姿を一層引き立てていた。
清遥は目を輝かせながら、凛音の周囲をくるくると回って見上げる。
「……わあ、ほんとに綺麗!」
感嘆の声と共に、思わず口をついて出た言葉は――
「凛音ちゃん、本当に綺麗……あなたの母親も、きっとすごく美しかったんでしょうね!」
その言葉に、凛音は一瞬だけ息を呑んだ。
母親――その響きが、胸の奥に二つの想いを同時に呼び起こす。
ふと、遠い日々がよみがえる。
かつての世界で、林夫人が優しく撫でながら、何気なく微笑んで言ってくれたあの言葉。
「うちの子は本当に綺麗……これからきっと素敵なお嫁さんになるわ。」
……その温もりは、もう戻らない。
けれど今、目の前にいる清遥もまた、間違いなく「母」だった。
血のつながりがあるこの人は、無邪気に笑いながら、同じように凛音を優しく見つめている。
その何気ない言葉と仕草が、今の凛音にはどうしようもなく愛おしく、胸に沁みた。
……そうだよ。私は――この人にも、ずっとこんな風に言ってほしかったんだ。
懐かしさと、まだ言葉にできない幸福とがないまぜになり、凛音はそっと微笑んだ。
「……うん。すごく綺麗な人だったよ。」
凛音は、柔らかく、けれどどこか嬉しそうに微笑んで答えた。
その瞳の奥には、懐かしさと今だけの幸せが、ゆったり重なっていた。
養母と、そして今こうして隣にいる親生母。
凛音の心は、二つの大切な母への想いで満たされていた。
「でしょ〜やっぱり似てるもの!凛音ちゃんは本当に、お嫁さんって感じがするわ!」
清遥は悪戯っぽく笑い、楽しそうに凛音の髪に手を伸ばして整える。
まるで、愛する娘のために最良の一日を準備する母親のように――
凛音は、その指先のぬくもりを感じながら、心の中で小さく呟いた。
……本当は、あなたがその「母親」なんだよ。だけど……それでも、今はこのままでいい。
微笑みは、少しだけ潤んで見えた。
その時、勢いよく部屋の扉が開いた。
「お姉ちゃんーっ!凛音姉ちゃん!」
元気な声と共に、小さな影が駆け込んでくる。
千雪だった。
凛音の姿を見るなり、ぱあっと顔を輝かせ、まっすぐに駆け寄ってくる。
「わあ……すっごく綺麗!ほんとにお姫様みたい!」
無邪気な賛美を口にしながら、千雪は凛音のドレスの裾をぎゅっと掴んで離さない。その小さな手の感触が、くすぐったくも愛おしい。
凛音は思わず微笑み、そっとしゃがんで目線を合わせた。
「ありがとう、千雪。」
けれど、次の瞬間だった。
「……けほっ、けほっ!」
千雪が突然咳き込み、顔をしかめた。
凛音が驚く間もなく、すぐそばにいた清遥が素早く駆け寄り、千雪を抱き寄せる。
「千雪、大丈夫? 無理しないでね……」
彼女はやさしく背中を撫で、あやすように微笑んだ。
「凛音ちゃんが綺麗すぎて、びっくりしちゃったのよね? ね?」
そう言いながら、千雪の顔を覗き込む清遥の目元は、ほんの僅かに曇っていた。
凛音も、そのわずかな表情を見逃さなかった。
いつも元気いっぱいの千雪。その彼女が見せた、少し青ざめた顔と止まらぬ咳―― そして、それを誰よりも気遣い、愛おしそうに抱きしめる清遥の姿。
その瞬間、凛音の胸の中で、何かがそっと疼いた。
……うん、大丈夫。すぐよくなるよね。
未来へ帰れば、千雪も、清遥も、そして未来の自分も――
きっとすべてが、良い方向へ進んでいくはずだ。
そう信じて疑わない凛音は、改めてしっかりと千雪の手を握り返した。
千雪は嬉しそうに笑いながらも、清遥の腕の中で少しだけ甘えるように身を寄せた。
――目の前には、愛する母と幼い娘。
そして、自分もまた「娘」であり、「未来の千雪」。
寄り添うように、重なり合う二組の親子の姿。
凛音は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
……このまま、もう少しだけ――
この幸せが、少しでも長く続きますように。
林夫人(養母)と凛音――
すでにこの世を去ったが、その温もりは今も凛音の心の中に生き続けている。
清遥(生母)と凛音――
まさに今、出会い、絆を紡ぎ始めた、血の繋がった親子。
清遥と千雪――
過去の中で寄り添い、今この時を生きる母と娘。未来へと続く、小さな命。
――確かに、ここには三組の親子が存在している。
けれど、この世界で同時に並び立つことができるのは、いつも「二組」だけ。
失われたものと、今ここにあるもの。
そして、これから先も続いていくもの。
重なり、入れ替わり、手を伸ばしながら――
それでも彼女たちは、優しく微笑んでいる。




