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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十四章:鏡の光に別れを、未来の空に願いを
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154 静かに、ただ静かに

 夜は静かだった。

 いや、静かすぎた。まるで世界全体が、これから訪れる一瞬のために息を潜めているかのように。


 凛音と蓮は、屋根の上に身を伏せていた。

 瓦の隙間から這い上がる夜気は冷たく、頬を撫でる風は、昼間の宴の名残などどこ吹く風とばかりに冷え込んでいた。


 じっと耳を澄ませていると、いつの間にか――ぽつ、と何かが頬に触れた。

 次いで、また一つ。細く、淡い雨が、空から降り始めていた。


 それは雨というより、霧のようだった。

 音もなく、ただしっとりと夜を湿らせ、髪を、衣を、ひそやかに重くしていく。

 瓦の上に落ちた雫が、静かに弾けた音だけが、妙に耳に残った。


「……降ってきたね。」

 凛音が呟いた。声は小さく、それでいて確かな緊張を帯びていた。


「雨か……いや、嫌な予感の方だろう。」

 蓮は隣で、冗談めかした声を漏らした。けれど、その横顔は冗談とは裏腹に真剣そのものだった。


 凛音は少しだけ体勢を変え、蓮の方を見やる。

 互いの顔が近い。夜のしっとりとした冷気の中で、二人だけが温度を持っているようだった。


「凛凛、本当に来ると思う?」

 ぽつりと、蓮が問うた。


「来るよ。」

 凛音は迷いなく答えた。

「天鏡国で彼らが動いたのは、本当の狙いじゃない。ただの陽動。でもそれが失敗して、女王がこちらに協力し始めた今――彼女はもう、敵にとって厄介な『証人』でしかない。標的は間違いなく、今夜、ここにいる。」


 蓮は少し目を細め、ぽつ、と小さく笑った。

「……だろうな。でも、私から言うと、凛凛も的のど真ん中にいる。」


 その言葉に、凛音も応じず、ただ夜の闇を見据えた。

 細雨が、なおもふわりと、降り続けていた。


 矢はすでに番えられ、いつでも放てる状態だった。

 「……来た。」

 隣で蓮が目を細め、闇の先を見つめる。ほとんど呟きのような声だった。


 その言葉と同時に、陰から黒い影が二つ、いや三つ――音もなく躍り出た。

 彼らは見事な連携で警護の兵を制し、殺さずに黙らせていく。ただの刺客とは思えない動きだった。


 凛音は息をひそめ、最も奥にいる――指示を送るような仕草をしていた男に狙いを定めた。

 矢羽がわずかに震えた次の瞬間、弦が切り裂くような音を立て、矢が宙を走った。


 突き刺さる。

 男は即座に避けたが、腕を貫かれ、動きが一瞬鈍る。


「……弓か。」


 低く漏れた声に、蓮がすかさず地上から駆け込む。

「逃がさないよ!」


 蓮の刀が、雨を弾きながら黒衣の者たちと交錯した。

 その頃には、細かった雨脚はいつしか少しずつ強まり、屋根と石畳を打つ音が徐々に耳に重くのしかかっていた。

 凛音はすぐに次の矢をつがえ、援護射撃を続ける。

 迂回を狙う敵を、まるで降りしきる雨とともに矢が阻む。完全な挟撃だった。


 激しい刃の応酬。

 そのわずか数合のうちに、蓮が最も奥の男と正面から切り結ぶ形となる。


 雨はさらに強さを増し、もう「細雨」とは呼べないほどに屋根を叩きつけ始めていた。

 空気は重く、湿り気が剣の動きすら鈍らせるほどだった。


 凛音はその隙を突き、鋭く狙いを定める。


 放たれた矢は、男の仮面の端をかすめ、ぱきりと音を立てて砕いた。


 ――その瞬間だった。


 夜空を裂くように、淡い閃光が遠くで走った。

 続けて、低く唸るような雷鳴が、剣戟と雨音の入り交じる喧騒に重くのしかかる。

 強まり続ける雨粒が、仮面の下から露わになった顔を容赦なく打ちつける。

 半分だけ崩れた面の下――そこには、見覚えのある顔があった。


「……あれは……」

 凛音は矢を収め、屋根の上から身を翻すと、一気に跳び降りた。

 着地と同時に手を伸ばし、腰の刃を引き抜く。


 蓮が押さえ込むその男――否、宰相は、片目を細め、わずかに口元を歪めた。

「やはり……お前か。」


 その刹那、駕の方から、抑えきれない叫びが響く。

「……父上――!」


 女王の悲痛な声が、雨音をも突き抜けた。

 雷は鳴らずとも、夜空は重く沈み、雨はさらに勢いを増して戦場を覆い尽くす。

 凛音は迷いなく、最後の一閃へと踏み込んだ。

 もはや雨粒は鋭く、容赦なく全身を打ちつけてくる。

 その冷たさは、体温すらも奪うようだった。


 見覚えのある顔を睨み据え、刃は確実にその命を奪わんとする。

 ……だが、宰相の眼は、怯えるどころか、逆にわずかに細められていた。


「だが、これで終わるとでも?」

 男の低く冷たい声と共に、突如、鋭い閃きが横薙ぎに走った。


 次の瞬間、男は手にしていた短剣を投げつけ、蓮を弾き飛ばそうとする。

 凛音が即座に間に入り、刃で弾き返すが、そのわずかな隙を突き、男は庭の奥へと駆け出した。


 しかし――


「止めろ。」


 蓮の低く鋭い声と同時に、別の方向から重く鋭い命令が飛ぶ。


「封鎖しろ!」


 霄寒だった。

 その声と共に、庭の四方に近衛兵たちが次々と姿を現す。

 すでに、逃げ道はどこにも残されていなかった。


 霄寒は剣を抜き、ゆっくりと男へと歩み寄る。


「……裏切り者。もはや、貴様に退路はない。」


 男は舌打ちし、なおも最後の抵抗を試みた。

 だが、それすらも叶わない。

 蓮、凛音、そして霄寒――三方向からの攻撃が、一瞬の間をも与えずに襲いかかる。

 雨はなおも絶え間なく降り注ぎ、刃と刃の交錯に混じって、しぶきのように弾けていた。

 切先が、腕を裂き、矢が脚を貫き、霄寒の鋭い一閃が胸元を断つ。

 雨さえも、その命運を拒むかのように、冷たく容赦なく叩きつけていた。


 息をする間もなく、宰相は血飛沫と共に崩れ落ちた。

 打ちつける雨粒が、その亡骸さえも無情に濡らしていく。


 霄寒はその亡骸を無言で見下ろし、低く命じた。

「……片付けろ。雪が、すべてを覆い隠してくれる。」


 宰相が倒れた直後、遅れて駆けつけた女王が、震える声で問いかけた。

「……父上……」


 凛音は、雨に濡れた髪を払いながら、静かに尋ねた。

「陛下。この男……本当に、あなたの父親なのですか?」


 女王は俯き、そして、わずかに唇を噛み締めると――

「……はい」と短く答えた。


 その一言に、場の空気が一変した。


 雪華国の宰相として潜み、その後は白瀾国で皇太后の側近となり、暗躍し続けてきた影。その正体が、まさか天鏡国の女王の父だったとは。

 誰もが息を飲み、言葉を失った。


 雨は止むことなく、血と泥をじわりと――いや、容赦なく押し流していく。

 地面を這うように広がる赤い水は、夜の闇と混ざり合い、足元に重く沈んでいた。


 凛音は、剣を収め、ぼんやりとその光景を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「……これで、本当に終わったのかな……」


 返事はなかった。

 ただ雨だけが、音もなく、すべてを覆い隠していく。


 気がつけば、凛音の頬を何かが伝っていた。

 それが雨か涙か、自分でもわからない。


 それでも、彼女は願わずにはいられなかった。


 ――これで、雪華国は救われるのだろうか。


 降り続く雨は、まだ止む気配を見せなかった。静かに、ただ静かに、この夜を覆い続けていた。


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