154 静かに、ただ静かに
夜は静かだった。
いや、静かすぎた。まるで世界全体が、これから訪れる一瞬のために息を潜めているかのように。
凛音と蓮は、屋根の上に身を伏せていた。
瓦の隙間から這い上がる夜気は冷たく、頬を撫でる風は、昼間の宴の名残などどこ吹く風とばかりに冷え込んでいた。
じっと耳を澄ませていると、いつの間にか――ぽつ、と何かが頬に触れた。
次いで、また一つ。細く、淡い雨が、空から降り始めていた。
それは雨というより、霧のようだった。
音もなく、ただしっとりと夜を湿らせ、髪を、衣を、ひそやかに重くしていく。
瓦の上に落ちた雫が、静かに弾けた音だけが、妙に耳に残った。
「……降ってきたね。」
凛音が呟いた。声は小さく、それでいて確かな緊張を帯びていた。
「雨か……いや、嫌な予感の方だろう。」
蓮は隣で、冗談めかした声を漏らした。けれど、その横顔は冗談とは裏腹に真剣そのものだった。
凛音は少しだけ体勢を変え、蓮の方を見やる。
互いの顔が近い。夜のしっとりとした冷気の中で、二人だけが温度を持っているようだった。
「凛凛、本当に来ると思う?」
ぽつりと、蓮が問うた。
「来るよ。」
凛音は迷いなく答えた。
「天鏡国で彼らが動いたのは、本当の狙いじゃない。ただの陽動。でもそれが失敗して、女王がこちらに協力し始めた今――彼女はもう、敵にとって厄介な『証人』でしかない。標的は間違いなく、今夜、ここにいる。」
蓮は少し目を細め、ぽつ、と小さく笑った。
「……だろうな。でも、私から言うと、凛凛も的のど真ん中にいる。」
その言葉に、凛音も応じず、ただ夜の闇を見据えた。
細雨が、なおもふわりと、降り続けていた。
矢はすでに番えられ、いつでも放てる状態だった。
「……来た。」
隣で蓮が目を細め、闇の先を見つめる。ほとんど呟きのような声だった。
その言葉と同時に、陰から黒い影が二つ、いや三つ――音もなく躍り出た。
彼らは見事な連携で警護の兵を制し、殺さずに黙らせていく。ただの刺客とは思えない動きだった。
凛音は息をひそめ、最も奥にいる――指示を送るような仕草をしていた男に狙いを定めた。
矢羽がわずかに震えた次の瞬間、弦が切り裂くような音を立て、矢が宙を走った。
突き刺さる。
男は即座に避けたが、腕を貫かれ、動きが一瞬鈍る。
「……弓か。」
低く漏れた声に、蓮がすかさず地上から駆け込む。
「逃がさないよ!」
蓮の刀が、雨を弾きながら黒衣の者たちと交錯した。
その頃には、細かった雨脚はいつしか少しずつ強まり、屋根と石畳を打つ音が徐々に耳に重くのしかかっていた。
凛音はすぐに次の矢をつがえ、援護射撃を続ける。
迂回を狙う敵を、まるで降りしきる雨とともに矢が阻む。完全な挟撃だった。
激しい刃の応酬。
そのわずか数合のうちに、蓮が最も奥の男と正面から切り結ぶ形となる。
雨はさらに強さを増し、もう「細雨」とは呼べないほどに屋根を叩きつけ始めていた。
空気は重く、湿り気が剣の動きすら鈍らせるほどだった。
凛音はその隙を突き、鋭く狙いを定める。
放たれた矢は、男の仮面の端をかすめ、ぱきりと音を立てて砕いた。
――その瞬間だった。
夜空を裂くように、淡い閃光が遠くで走った。
続けて、低く唸るような雷鳴が、剣戟と雨音の入り交じる喧騒に重くのしかかる。
強まり続ける雨粒が、仮面の下から露わになった顔を容赦なく打ちつける。
半分だけ崩れた面の下――そこには、見覚えのある顔があった。
「……あれは……」
凛音は矢を収め、屋根の上から身を翻すと、一気に跳び降りた。
着地と同時に手を伸ばし、腰の刃を引き抜く。
蓮が押さえ込むその男――否、宰相は、片目を細め、わずかに口元を歪めた。
「やはり……お前か。」
その刹那、駕の方から、抑えきれない叫びが響く。
「……父上――!」
女王の悲痛な声が、雨音をも突き抜けた。
雷は鳴らずとも、夜空は重く沈み、雨はさらに勢いを増して戦場を覆い尽くす。
凛音は迷いなく、最後の一閃へと踏み込んだ。
もはや雨粒は鋭く、容赦なく全身を打ちつけてくる。
その冷たさは、体温すらも奪うようだった。
見覚えのある顔を睨み据え、刃は確実にその命を奪わんとする。
……だが、宰相の眼は、怯えるどころか、逆にわずかに細められていた。
「だが、これで終わるとでも?」
男の低く冷たい声と共に、突如、鋭い閃きが横薙ぎに走った。
次の瞬間、男は手にしていた短剣を投げつけ、蓮を弾き飛ばそうとする。
凛音が即座に間に入り、刃で弾き返すが、そのわずかな隙を突き、男は庭の奥へと駆け出した。
しかし――
「止めろ。」
蓮の低く鋭い声と同時に、別の方向から重く鋭い命令が飛ぶ。
「封鎖しろ!」
霄寒だった。
その声と共に、庭の四方に近衛兵たちが次々と姿を現す。
すでに、逃げ道はどこにも残されていなかった。
霄寒は剣を抜き、ゆっくりと男へと歩み寄る。
「……裏切り者。もはや、貴様に退路はない。」
男は舌打ちし、なおも最後の抵抗を試みた。
だが、それすらも叶わない。
蓮、凛音、そして霄寒――三方向からの攻撃が、一瞬の間をも与えずに襲いかかる。
雨はなおも絶え間なく降り注ぎ、刃と刃の交錯に混じって、しぶきのように弾けていた。
切先が、腕を裂き、矢が脚を貫き、霄寒の鋭い一閃が胸元を断つ。
雨さえも、その命運を拒むかのように、冷たく容赦なく叩きつけていた。
息をする間もなく、宰相は血飛沫と共に崩れ落ちた。
打ちつける雨粒が、その亡骸さえも無情に濡らしていく。
霄寒はその亡骸を無言で見下ろし、低く命じた。
「……片付けろ。雪が、すべてを覆い隠してくれる。」
宰相が倒れた直後、遅れて駆けつけた女王が、震える声で問いかけた。
「……父上……」
凛音は、雨に濡れた髪を払いながら、静かに尋ねた。
「陛下。この男……本当に、あなたの父親なのですか?」
女王は俯き、そして、わずかに唇を噛み締めると――
「……はい」と短く答えた。
その一言に、場の空気が一変した。
雪華国の宰相として潜み、その後は白瀾国で皇太后の側近となり、暗躍し続けてきた影。その正体が、まさか天鏡国の女王の父だったとは。
誰もが息を飲み、言葉を失った。
雨は止むことなく、血と泥をじわりと――いや、容赦なく押し流していく。
地面を這うように広がる赤い水は、夜の闇と混ざり合い、足元に重く沈んでいた。
凛音は、剣を収め、ぼんやりとその光景を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……これで、本当に終わったのかな……」
返事はなかった。
ただ雨だけが、音もなく、すべてを覆い隠していく。
気がつけば、凛音の頬を何かが伝っていた。
それが雨か涙か、自分でもわからない。
それでも、彼女は願わずにはいられなかった。
――これで、雪華国は救われるのだろうか。
降り続く雨は、まだ止む気配を見せなかった。静かに、ただ静かに、この夜を覆い続けていた。




