152 小さな精と、壊れた城
一行は、銀砂を踏みしめながら、それぞれの道へと別れていった。
朝陽が、地平線からゆっくりと顔を覗かせる。
赤金色の光が、世界を淡く染め上げていた。
洵が、馬上から身を乗り出すようにして、凛音に問いかけた。
「雪ちゃん、本当に、未来に帰らなくていいのかい?私たち大人は確かにポンコツだけど――そこまで無能じゃないよ?」
凛音は迷いなく首を振った。
「ごめんなさい。私は、まだ帰れない。私は――戦う。雪華国を、見捨てたくない。」
霄寒は、何も言わなかった。
ただ、うつむいたまま、拳をきつく握りしめる。
けれど、その背中は、言葉以上にすべてを物語っていた。
洵は、くいっと馬の手綱を引くと、霄寒の隣へと並び、ぽん、と音を立てて、彼の頭を乱暴に叩いた。
「いい娘だろ。ありがたく思え、それで良い。」
少し間を置いて、蓮が小さく笑った。
「父上、ごめんなさい。私、凛音を置いてなんて行けない。たぶん、小さい頃の私を蔵経閣に閉じ込めても無駄だったよ。彼女が消えるなら、私も――きっと、生きられない。」
ルシアンは、誰にも聞こえないような低さで、それでもはっきりと、祈るように言った。
「……ならば、せめて、道中の無事を願おう。」
一行は、雪華国へと帰還した。
女王も、馬を走らせてそのまま国境を越えたが、白虎だけは天鏡国に残り、アイを護ることにした。
国境を越えた途端、凛音は思わず息を呑んだ。
――街が、光にあふれていた。
夜空には、赤、青、白の灯りが無数に揺れている。
城門には雪華細工の灯籠がずらりと飾られ、銀世界に温かな色彩を添えていた。
広場には雪を削って作った小さな氷の家々、その屋根にも灯りがともされ、まるで精霊たちの街のようだった。
雪華国の元宵節は、雪と氷の中で祝うもの。
人々は毛皮のマントを羽織り、雪靴で音を立てながら、手作りの灯りを持って練り歩く。
湯気を立てる屋台がずらりと並び、餡入りの湯圓、肉たっぷりの餃子、蒸したての年糕が香ばしい匂いを漂わせていた。
雪の中でも、子供たちは年糕を頬張りながら、雪原を駆け回り、大人たちも屈託なく笑い合っていた。
彼らは、この国の未来が密やかに脅かされていることなど、知る由もなかった。
そして、何事もなかったかのように、当たり前の顔で、雪の夜を祝福していた。
「わあ……」
馬から降りた凛音は、無意識に声を漏らした。
そのとき――
上品な、けれどどこか懐かしい声が彼女を呼んだ。
「……凛音さま?」
振り返れば、そこにいたのは、薄桃色の裳を纏った一人の女性。
高貴な気配を纏い、雪明かりの下で静かに微笑んでいる。
「――あれっ、洛白さまも!?どうしていらっしゃるのですか?」
清遥は柔らかく一礼した。
「天鏡国で、偶然な。」
霄寒が肩を竦め、にやりと口元を歪めた。
「もうすぐお祭りだろう。賑やかすぎても困るまい?」
清遥は一瞬驚いたものの、すぐに心から笑った。
「それは、嬉しいこと。どうぞ今宵は、心ゆくまで……雪華の夜を楽しんでくださいね。」
柔らかな声音に、思わず心がほどけそうになる。
凛音も思わず、膝を折りかけたが、清遥がそっと手を添えて制した。
「そんなことは……今日は元宵節。お客さまに、堅苦しい礼など要りません。」
優しく、どこか母が子を見るような、温かな眼差し。
けれど、清遥は知らない。
自分が、凛音の「母」であることを。
そして――
霄寒も、蓮も、凛音も。
誰一人として、その真実を告げるつもりはなかった。
誰かがまた、誰にも聞こえぬように小さくため息をついた。
清らかな雪灯りの中に、小さな不吉の影が、そっと落ちていた。
広場の一角では、即席の「雪だるま大会」が始まっていた。
小さな子供から大人まで、思い思いに雪を丸め、大きな雪玉を転がしている。
中には、耳をつけたり、顔を彫ったり、動物の形に仕上げる猛者もいて、会場は笑い声に包まれていた。
「……清遥、せっかくだ。たまには、こういうのも悪くないだろう。」
雪を踏みしめながら、霄寒がぽつりと言った。
普段なら遠慮するところだが、今日だけは――せめて、こんな小さな時間でも、凛音と過ごしてほしかった。
清遥は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「ふふ……では、凛音さま。手加減はしていただけますか?」
凛音も微笑んで言った。
「……負けないつもりですけどね。」
清遥がやる気満々で雪を掻き集め、凛音と蓮も、それぞれ小さな雪玉を作り始めた。
冷たい雪を丸める手が、痛いくらいに冷たいはずなのに――心の奥は、不思議と温かかった。
霄寒は無言で横から手を伸ばしかけたが、凛音にそっと制される。
「大丈夫、自分で作るよ。」
笑いながら、凛音は両手で雪をぎゅっと固めた。
だが――誰よりも本気を出していたのは、まさかの蓮だった。
「……なぜ、そこまで全力で?」
呆れたように霄寒が尋ねると、蓮は涼しい顔でさらりと答えた。
「勝負だからな。勝負は、全力でこそ意味がある。」
そんな中、凛音がそっと作っていたのは、誰よりも小さな雪像だった。
耳をぴんと立てた、ふわふわの小さな獣のかたち。
――そう、それは、浮遊を模した、小さな精霊の姿だった。
「……ふふっ、凛音、それ、何だ?」
雪玉を抱えながら覗き込んだ蓮に、凛音は慌てて後ろ手に隠した。
「な、なんでもないよ!」
耳まで真っ赤にしながら、しどろもどろに答える。
けれど、すでに霄寒も清遥も気づいていて、二人は目を合わせると、ふっと穏やかに笑った。
「可愛いじゃないか。」
「ええ、とても素敵です。」
恥ずかしさにうつむいた凛音の頭上に、ふわりと粉雪が舞い降りた。
それは、まさに、小さな精霊が雪の中に舞い降りたようだった。
その傍らで、霄寒がふと雪を積んでいた清遥に声をかけた。
「そういえば、千雪はどうした?一緒じゃないのか?」
清遥は手を止め、少しだけ眉を下げる。
「ええ……また、少し熱を出してしまって。」
それから、照れたように笑った。
「頼まれたんです。お祭りの彩灯と、氷糖林檎を、買ってきてって。」
「そうか……」
霄寒は短く答えたが、その声には微かな翳りが滲んでいた。
そして結果――
誰よりも巨大な、まるで城砦のような雪だるま(というより雪の要塞)を作り上げた蓮が、文句なしの優勝をさらった。
だが、その「雪の城」は、夜半の吹雪にあっけなく崩れ去り、儚い幻のように消えてしまった。
翌朝、崩れた雪を見上げながら、清遥がぽつりとつぶやいた。
「……なんだか、少し怖いですね。せっかく頑張って作ったのに、こんなに簡単に――」
「大丈夫だよ、清遥さま。」
隣で、凛音がそっと彼女の肩に手を添えた。
「崩れたら、また作ればいいんだよ。」
――そう。もし、雪華国が壊れてしまったら……私たちは、また作り直せる。
凛音の手の中で、拾い上げた雪のかけらが、きらきらと光っていた。




