151 過去の未来へ
蓮の手は、大きくて、あたたかくて、強い。
私は、ちゃんとわかってる……そのくらい、ちゃんと。
林のお父様も、凛律お兄様も、亡くなったお母様も。
そして、蓮もずっと、私のそばにいてくれたこと。
だけど、それでも、私は欲張りで、足りなかったんだ。
夢の中で、何度も何度も、
父上が母上の胸から剣を引き抜いて、自ら命を絶つ光景を見た。
誰かの笑い声が響く中で、
私の故国は、まるで最初から存在しなかったかのように扱われた。
存在したとしても――それは、滅びを招いた「罪の国」として。
私が守りたいと願った「正義」の中に、
私自身の祖国も、自分の民も守るための正義なんて、どこにもなかった。
部屋の中には、まるで誰も口を開けないかのような、張りつめた空気が漂っていた。
だが、凛音の言葉が途切れてから、ほんの数秒後――
洵が、にへらっと笑いながら、ぽりぽりと頭を掻き、凛音の後ろから前へと、ひょいと歩み出てきた。
「へえ、そうなんだ?未来の朕、そんなにイキってるんだ……想像できないなぁ~」
とびきり甘ったるい声色。
そう言いながら、洵は伸ばした右手で、凛音の頬をそっと拭った。
「まあ、想像できないって言っても、もともと朕、昔から相当な目立ちたがりだったしね。」
そう続けると、ふわりと凛音を抱き寄せた。
「未来の朕が、我が愛しの雪ちゃんを泣かせたんなら。
今の朕、どれだけでも償う覚悟、あるからね。」
不意を突かれて、凛音は息を呑んだ。
霄寒が伸ばしかけた手も、宙に止まったままだった。
そのとき。
「おい、アンタさあ!なんでそんなに軽薄なの!?見てるだけでムカつくんだけど!」
蓮が、めちゃくちゃ大声でツッコミを入れた。
洵はわざとらしくため息をつき、ぺしんと軽く蓮の頭を叩きながら、片眉を上げて返す。
「――お前にだけは言われたくない。」
凛音と霄寒は、そっと顔を上げ、目の前に立つふたりの男たちを見つめた。
わかっていた。
彼らが、場を和ませようとしていることを。
彼らが、救おうとしていることを。
彼女を。そして、彼を。
この空気を、あまりにも重くしないために。
これ以上、誰かが悔やむ未来を作らないために。
――優しいんだ。
ふたりとも、本当に。
――悔いているんだ。
ふたりとも、心のどこかで。
霄寒は、伸ばしかけていた手をゆっくりと下ろし、深く凛音を見つめた。
そして、まるで、自分に言い聞かせるように、低く声を落とした。
「……教えてくれるか。君が、見てきた未来を。」
凛音は、はっと小さく息を呑み、それから、まっすぐに顔を上げた。
「はい。全部、話します。」
言葉を重ねるごとに、
その場の空気は、目に見えるように、変わっていった。
驚き。
痛み。
怒り。
悲しみ。
それぞれの表情が、静かに揺れていた。
けれど誰も、彼女の声を遮ろうとはしなかった。
苦しくても、誰ひとり、耳を背けることはなかった。
ルシアンが、ゆっくりと口を開いた。
「……つまり、雪華国は、あと一年で滅びる、ということか。」
彼はふと霄寒へと視線を向ける。
「お前は、私の大事な孫だ。だがそれ以上に、雪華国の王だ。無能のまま、幕を下ろすな。」
声音には、重みとともに、確かな厳しさが滲んでいた。
「……もっとも、すべては私の無能ゆえだ。デイモンがすでに死んだ以上、私も帰還後、奴の周辺を徹底的に洗い出す。そして、淵礼のことも、責任を持って育てよう。」
女王陛下が、すっと話を引き継いだ。
「……ルシアン殿だけじゃないわ。蒼霖国に限らず、私たち四国すべて、官僚の中に明らかに繋がっている連中が潜んでいた――誰も気づかなかったほど、巧妙にね。この機に、内側の膿はすべて洗い流す必要があるわ。」
そう言うと、ちらりと洵に鋭い視線を向ける。
「……もしかしたら、あなたの母上と、私の父上にも、何か裏で繋がりがあったかもしれないわね。」
洵は肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「それで?今のあなたは、この一件の黒幕が自分の父親だとでも思ってるわけ?」
女王は軽く目を伏せ、そして静かに言った。
「……少なくとも、白瀾国の太后よりは、ずっと怪しいわ。」
部屋の空気が、再び重たく沈んだ。
霄寒は、何も言わなかった。
ただ、拳を固く握りしめたまま、微動だにしない。
そんな彼に、洵が歩み寄り、ぽん、と肩を軽く叩いた。
「……何か言えよ。」
促すような声。
霄寒は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、まっすぐに凛音を捉えていた。
そして、低く、しかし確かに告げた。
「――千雪、雪華国に、一緒に帰ろうか。」
突然、部屋の片隅で、ふわりと青白い光が瞬いた。
次の瞬間、ふよふよと浮かび上がったのは――
小さな、小さな、龍の姿だった。
浮遊は、ひょいと凛音の肩に乗ると、足をぶらぶらさせながら、きらきらと光を放った。
「……わしも、発言したい。」
「ええええええ!?」 洵が目を丸くして叫び、勢いよく駆け寄る。「これ、まさか、あの堂々たる青龍様!?嘘だろ、こんなにちっちゃくなっちゃって!」
浮遊は、洵の伸ばした手をぴしゃりと尻尾ではじき飛ばした。
「……空気があまりにも重すぎるからな。そして、我が姫が、この姿を好きだから、だ。」
ちらりと、凛音を一瞥する。その視線には、微かな照れくさささえにじんでいた。
「いいなあ~。青龍って、こんなに優しいやつだったんだな!朱雀、お前も少しは見習えよ!」
洵がにやにやしながら言うと、どこからともなく飛び出してきた朱雀が、ぷんすか怒りながら、勢いよく洵の頭をくちばしでつつき始めた。
「でしょ。未来でも、朱雀はよく私の頭をつついてた。でも、浮遊は、ずっと変わらず優しかったんだ。」
蓮が、肩越しに小さく笑って答えた。
どうしてだろう。
あんな深くて痛ましい未来の話をしていたはずなのに――
それでも、この部屋には、確かに、温かな希望が満ちていた。
凛音は、そっと浮遊の頭を撫でながら、優しく問いかける。
「浮遊……言いたいことは、何?」
浮遊は、しばし躊躇うように尾を揺らしたあと、まっすぐに、凛音を見上げて言った。
「……凛音。もう、あまり時間は残されていない。」
「……え?」
「君が未来へ帰還せねば、この世界における『千雪』の存在は、間もなく消え失せる。君自身もまた、この時の流れから、消え去る定めにある。」
『過去の未来へ』というタイトルは、単に未来の時間軸に戻るという意味ではありません。過去に立ちながらも、新しい未来へ歩き出す――そんな想いを込めました。




