149 立ち上がり、背負う夜
女王の言葉が、静寂の間に吸い込まれるように消えた。
しかし、誰も、すぐには返事をしなかった。
琉璃の灯が、かすかに揺れ、銀砂の光が円卓に微かな影を描く。
南宮洵は、肘をついたまま、無造作に指先で頬を叩いていた。
一見、気だるげな仕草だが、その指はわずかに震えている。
霄寒は真っ直ぐに座ったまま、唇を引き結び、女王の顔を見つめていた。
その眉間には、葛藤と怒りと悲しみが絡み合った影が落ちている。
ルシアンはと言えば——
彼だけが、ひとり時の流れから取り残されたかのように、ただ天井の水晶の星空を見上げていた。
その老いた瞳には、何も映っていないようでいて、それでもどこか、底知れぬものが沈んでいる。
呼吸ひとつさえ、重く感じる。
誰もが、誰よりも先に動くことを恐れていた。
何かを言えば、均衡が壊れる。
何かを問えば、剣が抜かれる。
そして、凛音は——
女王の背に控えていたその場所から、一歩、前へと踏み出した。
誰も声を発しない円卓の前。
たったひとり、月光をその身に受けながら、凛音は迷いなく顔を上げた。
「ルシアン陛下。」
その呼びかけに、老人が、ゆっくりと瞳を動かす。
「私は、林凛音と申します。」
声は震えていない。
「この場には、四国の王たち、そして私しかいない。もう、お気づきでしょう。」
凛音は、真正面からルシアンを射抜くように見据えた。
「デイモンを斬ったのは、私です。」
円卓の空気が、ぴたりと張りつめた。
霄寒も洵も、何か言いかけたが、結局、言葉を飲み込む。
凛音は続けた。
「私は、かつて彼に、大切な友人──クリスを奪われました。そして、渊礼を、再び失うことを恐れたのです。」
一度、深く息を吸い込む。
「……陛下は、ご存じでしょうか。」
凛音はほんの一瞬だけ目を伏せ、それから、まっすぐ顔を上げた。
低く、しかし澄んだ声で、語りはじめる。
「昔、ある村に、叩かれても叩かれても、ただじっと耐える子どもがいました。
誰に何を奪われても、泣くことも、怒ることもできなかった。
けれどある日、その子は気づいたのです。
このままでは、心も、大切なものも、何ひとつ残らない、と。」
そして、凛音はゆっくりと目を開き、拳をぎゅっと握りしめた。
「だからその子は、震える腕で拳を握り、立ち上がった。恐れながらも、痛みに耐えながらも、それでも奪わせないと、心に決めたのです。」
凛音の声音は決して大きくない。
だがその一言一言は、刀より鋭く、胸に深く突き刺さった。
「私も、そうありたいと思いました。」
真っ直ぐに、誰にも隠れず、自らの意志で。
「だから──私は、あの男を斬った。」
再び、重く深い沈黙が、場を支配した。
霄寒は、静かに瞼を伏せ、膝の上で手をきつく握りしめる。顔を伏せることはしなかったが、その指先には、堪えきれない感情が滲んでいた。
洵は、気怠げな仕草で首筋を軽く揉みながら、口元に曖昧な笑みを浮かべる。だが、その目は笑っていなかった。
女王は、ひとり静かに玉座に座り続けた。睫毛の影に隠れた双眸は、油断なく、鋭く、周囲のすべてを見据えている。
誰もが、次に誰が言葉を発するかを、固唾を呑んで待っていた。
ルシアンは、深く沈黙したまま、やがてその瞳を凛音に向けた。
「……禁術が、漏れたのだな。」
低く、重たい声だった。責めるでも、悲しむでもない。ただ、事実だけを受け止めるような声音。
「技が世に出たなら——やがて、世界は争いに飲み込まれる。」
天井の星影を仰ぎ見ながら、ルシアンは静かに言葉を落とす。
「たとえ、意志が清らかであったとしても、力は必ず、血を呼ぶ。」
その言葉に、誰も返せなかった。
洵は指を鳴らし、霄寒は拳を握ったまま微動だにせず、女王はひたとルシアンを見据える。
しばしの沈黙ののち、女王は、毅然と口を開いた。
「凛音は言った。禁術が生まれたのは人の貪欲からだと。私もそう思う。禁術が生まれ、奪われたのは、天鏡国の不徳と不治。でも、進むしかない。」
この瞬間、円卓の上に、見えない刃が交錯した。空気が、確実に冷たく尖っていく。
——そして、まだ誰も気づいていなかった。
この夜、剣ではない別の「刃」が、すでに彼らに迫りつつあることを。
シュン。
乾いた裂け音が、夜の静寂を切り裂いた。
何かが、閃光のように女王めがけて飛来する。
瞬間、凛音が動いた。
迷いも、戸惑いもない。
「陛下!」
叫びと同時に、凛音は女王の肩を押し、力任せに突き飛ばす。
女王の身体が横へと転がった、その直後。
銀光がかすめるように、女王の椅子を貫いた。
暗器だった。
ゴッ。
鋭い衝撃音とともに、天井の水晶にひびが走った。
次の瞬間、暗い影が、高みからまっすぐに落ちてくる。
南宮洵が即座に反応する。
椅子を蹴り飛ばして跳ね上がり、空中で体を捻る。
「チッ……」
飛び出してきた黒影を、洵は容赦なく蹴り叩き、床へ叩きつけた。
鈍い音と共に、刺客が床に転がる。
それでも、なお動こうとする刺客に対し、洵は短剣を抜き、喉元に突きつけた。
霄寒も遅れて腰を浮かせ、鋭く周囲を見渡す。
だが、刺客は一人だけだった。
荒い呼吸を繰り返しながら、刺客はそれでも、何かを叫ぼうとした。
「……神の血は、俺たちのものだ!」
呻くような声と共に、刺客の手が緩み、ぱたりと動かなくなる。
洵が眉をひそめ、刺客の衣服をまさぐる。
「……これを見ろ。」
洵が取り出したのは、くすんだ銀糸の刺繍が施された、古びた雪華国の徽章だった。
それを見た瞬間、霄寒の顔色がさっと変わる。
そして、凛音は悟る。
——これは、罠だ。
四国の間に、さらなる不信と混乱を撒き散らすために、誰かが仕組んだのだ。
いつだってそうだ。
本物の「刃」は、見えない場所から、人へと迫ってくる。
実は、前回のお話で、霄寒と洵は凛音を守るために、自らデイモンを斬ったと名乗り出てくれました。
でも、私にとって、それだけでは十分ではありませんでした。
私が描きたかったのは、卑屈にも傲慢にもならず、まっすぐに立つ凛音の姿です。
善と悪は、時に紙一重。
私は、殺すことそのものを「正しい」と描きたいわけではありません。
けれど、どうしても守りたいものがあり、どうしても譲れない想いがあるとき。
追いつめられ、それでもなお立ち向かわなければならないとき。
やむを得ず、その手を汚すことになっても、貫かねばならない「正義」も、確かに存在します。
だからこそ、殺し屋になった凛音には、自ら選び取ったすべての決断を、自らの手で背負わせたいと思いました。
この小さな想いが、物語のどこかで、少しでも伝わっていれば幸いです。




