148 壊れゆく秩序
「凛音どの……どうして、ここに?」
そう声をかけてきたのは、雪華国の王・霄寒だった。
面紗の奥に隠された顔を、彼は一目で見抜いたように、迷いなく近づいてくる。
「まさか、あなたがここにいるとは……そうと知っていれば、清遥も連れてきたのに。あの日の別れから、ずっと会いたがっていたんだ。」
返す言葉に迷った凛音は、一瞬、別人だと否定しようかと考えた。だが——
「ああ、それね。ソーちゃんに頼まれて、凛音ちゃんの星官としての適性、ちょっと見てただけだから。」
軽い口調で横から割り込んできたのは、白瀾国の皇帝・南宮洵だった。
笑顔のまま、ずいっと凛音の肩を抱き寄せる。
「洵、その手を離せ。」
霄寒の声音が、わずかに低くなる。
「なに、いいじゃないか。なにせ私は、凛音ちゃんのおじさんなんだから。」
「おじさん、ですか? てっきり、またお兄さんと名乗るかと思いました。」
霄寒が冷たく返すと、洵は一瞬だけ口元を引きつらせたが、すぐにいたずらっぽく目を細めた。
「叔父ですよ、叔父。可愛い姪っ子が心配で、ついね〜」
霄寒は少し混乱した様子で、二人の間に漂う空気を読みかねているようだった。
そのとき——
「その手、どうかお引きください。」
鋭く差し入った声とともに、洵の手を押しのけたのは、蓮だった。
彼は霄寒と目を合わせず、冷静な口調でぴたりと前に立つ。
洵はそのまま凛音の背後にすっと身を引き、声を潜めて蓮に耳打ちする。
「まったく……まだここにいたのか。もう帰れと言ったはずだろう?」
蓮もまた、静かに返す。
口元には、笑っていない微笑が浮かぶ。
「彼女が帰らない限り、私だけ帰るわけにはいきませんから。」
ふたりの会話を背後で聞いた凛音は、苦笑しながら一歩前に出る。
霄寒の隣に進み、軽く頭を下げた。
「陛下……ご無沙汰しております。いえ、そこまで久しぶりでもない、でしょうか……」
少しだけ言葉に迷いながら、丁寧に礼をする。
「ご縁あって、今は女王陛下のもとで、天鏡の教えを学ばせていただいております。どうか、ご案内させてください。」
凛音は彼らを伴い、星宮の奥、静寂の間へと足を踏み入れた。
そこは、天井一面が透き通る水晶で覆われており、夜空の星々がまるで手に届くように輝いていた。壁には一つの窓もなく、厚い石で外界と隔てられた空間には、時さえも凍てついたかのような静けさが満ちている。
灯りは、部屋の四隅と円卓の中央にそっと置かれた琉璃の灯のみ。中には銀砂が湛えられ、わずかな揺らぎの中で柔らかく光を放っていた。
高くそびえる天井には、星のかたちを模した無数の透かし彫りが施されており、そこからごくわずかな風だけが、音もなく流れ込んでくる。
——つまり、この場所で語られる言葉は、誰の耳にも届かない。
ここは、すべてが「秘められる」ために在る場所だった。
「霄寒、おまえの外祖父って、相変わらずのんびり屋さんだよなあ。」
南宮洵はテーブルに顎を乗せ、頬を指でトントンとつつきながら不機嫌そうに言った。
「……このまま来ないんじゃないか? もうだいぶお歳だしさ。」
霄寒は苦笑して、気まずそうに目をそらした。
「来られるそうです。ルシアン閣下は、本日中に必ずと仰っていました。」
女王が洵に鋭い視線を送る。——「黙りなさい」、そう語る目だった。
やがて、部屋の奥から一人の老人がゆっくりと現れた。
深い藍の制服。装飾は一切なく、髪も髭も雪のように白い。
その姿を見て、南宮洵も霄寒も思わず背筋を伸ばした。
老人は、ゆっくり、実にゆっくりと席に腰を下ろした——かと思った次の瞬間。
ゴンッ。
鈍い音が部屋の静けさを裂いた。
老人の頭が、そのまま机に激突したのだった。
響き渡る鈍い音に、三人の国主は凍りついた。
誰も声を発せず、誰も動かない。まるで時が止まったかのようだった。
しばらくして——
老人はゆっくりと、またゆっくりと顔を上げた。
「……うちの、愚かな外孫が……皆さまに、多大なるご迷惑を……」
ルシアンは目元に滲む涙を拭おうともせず、静かに言葉を紡いだ。
「デイモンがまだ幼いころから……あの子の中に暴と悪が宿っていることは、わかっていました。ただ……祖父として、目を背けていたのです。」
彼は霄寒の方を向き、深く頭を下げる。
「霄寒……お前にも、淵礼にも……本当に、すまなかった。」
そして、ゆっくりと顔を上げてから——声の調子を少しだけ変えて、低く問いかけるように続けた。
「……それで。あの子を……あのデイモンを、一太刀で斬ったのは……いったい、誰だったのでしょうね。」
凛音は、女王の背後に控えながら、黙って目の前の老人を見上げていた。
——この人が、私の曾祖父なんだ。
なぜだろう、このゆったりとした雰囲気、どこか玄武に似ている気がする。
凛音が口を開こうとした、まさにその瞬間だった——
「私だ。」
霄寒と洵が、まるで打ち合わせでもしていたかのように、ぴったりと声を重ねた。
凛音は呆然としながら、思わず口を閉じる。
洵は我に返るように目を見開き、慌てて付け加える。
「……いや、正確には、霄寒と二人で。一人一刀ずつってことで……」
「——理由は? 本当に、淵礼と玄武を奪おうとしたから、それだけですか?」
静寂を切るように、女王が立ち上がった。
「その問いには、私から答えるのが筋でしょう。」
彼女はゆっくりと円卓の前に進み、三人の王に向かって、深々と頭を下げた。
「我が天鏡国には、禁術があります。契約者でなくとも、神獣の力を奪える術です
……そして、その術は盗まれました。誰の手を経たのかはわかりませんが、デイモンは、その術を知っていました。」
洵は無言のまま霄寒のもとへ歩み寄り、ためらうことなくその腕をつかんだ。
そして、乱暴に袖をまくり上げる。
「……これが証拠だ。」
女王は、それを一瞥しただけで視線を逸らさず、冷ややかに、そして鋭く言い放った。
「禁術には、『神獣の器物』が必要。そして、デイモンは長年にわたり雪蓮を狙い——玄武に選ばれし者の血さえ、手に入れていました。」
霄寒は思わず、自分の祖父の皺深い横顔に目をやる。その老いた横顔にわずかな痛みを覚えた彼は、そっと袖を引き下ろした。
女王はルシアンを真っ直ぐに見据えた。
「私はこれまで、神獣の均衡を守るなどと口にしてきました。でも……全部、嘘でした。」
声が震えたわけではない。けれど、その静けさがむしろ重かった。
「四国の均衡は、もうとっくに壊れていた。未来は……すでに血に染まっている。」
一呼吸、置いて——
「ルシアン閣下。デイモン一人を斬ったところで、何も変わりません。本当に斬るべきなのは……神獣を、国家を、民を食い物にしてきた者たち。そして——私の父です!」




