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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十三章:時の淵に立ちて、還る道にも月の導きあり
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147 月の盃、真実の舞

 天鏡国の四方は、果てしない銀砂に覆われている。昼も夜も、その砂は蒼白の光を反射し、空と地を溶かすように揺れていた。だが、ただ一箇所だけ——王城の北、星宮のさらに奥にある石崖の深い窪地に、静かに湛えられた水面が広がっていた。


 まるで天から零れ落ちた満月のような、ほぼ完璧な円を描く水面。月影を抱いたその水面は、今宵の風に揺れ、音もなく波紋を重ねていく。誰の耳にも届かぬ楽の音が、水面に浮かんでいるかのようだった。


 その水辺に、ふたりの影が向かい合っていた。どちらも、宮廷の礼装を脱いでいた。


 凛音は淡い月白の衣をまとい、裾には銀鈴がついている。歩くたびに鳴る音は、風よりもかすかだった。剣は持たず、腕には薄絹で包帯を巻いている。黒髪は一本の玉簪でゆるくまとめられ、月明かりに淡く照らされていた。


 そして女王——いつもの黒衣を脱ぎ捨て、銀糸を織り込んだ薄衣に身を包んでいた。袖は広く、腰には細紐を結び、長く伸びた銀の髪はゆるやかにまとめられている。面紗はなく、月の光を受けてその横顔が水面に滲むように浮かび上がっていた。


 侍女も、楽士もいない。


 だが、不思議なことに、そこには音楽があった。風が砂を撫で、夜がそれに応じる。誰が奏でるでもなく、自然がこの夜の調べを紡いでいた。


 風は楽師、月は燈台、そして水面が——ふたりのために用意された舞台だった。


 女王が口を開く。風のように柔らかく、しかし凛とした声だった。

「この場所、月のさかずきとも呼ばれているの。月を映す祈りの器——天鏡の心臓。」


 そう言うと、彼女は一歩、水に足を踏み入れた。けれど、波紋ひとつ立たない。

「天鏡の舞は……想いの流れであり、願いのかたち。ときに、それは剣より雄弁な言葉になるの。」


 凛音は答えず、ただその姿を見つめていた。


 女王がくるりと回る。袖が広がり、砂が舞い上がる。その動きには型も飾りもない。ただ、ひとつの思いが宿っているだけだった。

 風が吹き抜ける。舞と呼ぶにはあまりに静かで、祈りと呼ぶにはあまりに鋭い。それは、女王という存在の深奥から絞り出された、ある種の「問い」だった。


 そして、凛音もまた、一歩を踏み出す。舞の型は知らない。足運びもおぼつかない。

 だが、彼女にはわかっていた——これは、語るための舞だと。言葉では届かない想いを、身体と呼吸で伝えるためのもの。今宵の対話は、声ではなく舞によって紡がれる。


 女王が見せるもの。女王が抱えるもの。

 それを、凛音は全身で受け止める覚悟を決めた。


「……未来の私、どんな人だった?」


「そうですね。今よりずっと感情を隠して、アイを守るために――閉じ込めた人でした。」


 女王の足が、水面を滑るように進む。

 右手が、左の肩から頬へと撫でるように流れ、そのまま一瞬、動きを止めた。


「未来の神獣の均衡と、四国の秩序は守られているの?」


「そうですね。雪華国は滅び、玄武は封じられ、蒼霖の一城は死に絶え、白澜の国境は焼かれ、毒に染まりました。——天鏡だけが無傷でいられると思いますか?」


 静かに交差する旋律の中、凛音は一歩深く踏み込み、斜めに腕を振り下ろす。

 水面が低く波を打ち、裾がひときわ鋭く翻る。しなやかな軌道のなかに、言葉にはできない怒りと悲しみが滲んでいた。


「……禁術、どこまで知っているの?」


「そうですね。知ったわけじゃないんです。見たんです。歪んで咲いた雪蓮の下に、どれだけの血が流れていたかを。」


 一拍ごとに、水と空気が張り詰めていく。

 女王は片脚を大きく振り抜き、水面を裂いて、一閃の弧を描いた。

 憂いを滲ませた瞳のまま、舞の形が空に描かれる。


「陛下、このあと、どうするおつもりですか?」


「……あなたが、私に『嘘を斬る』勇気をくれた。だから私は……四国に向けて、真実を明かす場を開く——四国会議を。」


 凛音は水面を強く踏みしめ、ふわりと一度、跳ねるように舞い上がる。

 銀鈴が空気を震わせ、着地とともに水が小さく弾けた。

 その音は、夜の静寂を裂き、まっすぐ女王の胸元へと届く問いとなった。


「陛下、その『真実』とは、どこまで含まれるのですか?」


「……あなたが未来から来たことは、語れない。それは、私たちだけの記憶。」


 女王は両腕を広げ、円を描くようにひとまわり回転する。銀糸の衣が風を抱いて広がり、水面に月の光が舞い落ちる。ひとつの決意が、その輪の中に結ばれていた。


「陛下、その後……お父上には、お会いになりましたか?」


「……いいえ。二度と。」


 凛音は静かに頷き、水面に向かって一歩踏み出す。その拍に合わせて腕が宙を撫でるように旋回し、身体ごと月光に溶ける。鈴の音が、水に、小さく波紋を残した。


「凛音、天鏡があの禁術を生み出した理由、あなたはどう思う?」


「そうですね。人の欲です。終わりなく渇いた心が、神の力を求めた結果です。」


 女王は胸元にそっと手を当て、そのまま斜めに腕を払う。水面に細やかなしぶきが広がる。 その一歩は、強さと儚さを纏いながら、まるで過去との訣別を舞に刻むようだった。


「凛音、神獣たちの均衡は、もう一度、取り戻せると思いますか?」


「そうですね。私は、彼らが私たちを愛していると信じてる。私が浮遊を信じているように、陛下が白虎を信じているように。」


 凛音は水面にそっと足を踏み出し、両腕を開いて、ゆるやかに弧を描く。銀の鈴がひとつ、静かに響き、水と月の音が共鳴する。

 その舞は問いであり、答えであり、夜を越える意志そのものだった。


「凛音、もし今、あなたが『嘘』を斬ったことで……もう、未来に戻れなくなったとしたら?」


「——それでも、かまいません。私は最初から、『誰にも記されていない未来』を、望んでいたのだから。」

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