146 嘘を斬る刃
空気が、音を失った。
天幕の帷が大きく膨らむと同時に、地を這う銀砂が渦を描き、星紋を飲み込むように蠢き出す。
白虎が一歩、重々しく地を踏みしめる。
その瞬間、銀砂が爆ぜるように跳ね、星図の線は音もなくねじれた。
紋様は崩れ、重力が狂い、庭の空間そのものが軋む。
対する青龍は、凛音の背後にそっと首をもたげる。
その身は風に溶け、水面に映る月のように揺れながら、気配だけを残して天を仰ぐ。瞳はただ、白虎を映し、白虎だけを見ていた。
目を合わせた刹那、何かが崩れ落ちた。
庭の中心に浮かぶようにして、二柱の神威が交わる。
火でも雷でもない。ただ圧。神と神の、在ることそのものが空間を侵し合うような、存在の干渉。
白虎の声が、風に乗って響き渡る。
「記されぬものは、存在しない。記されぬままであること――それこそが、この世界を守る形だ!」
星が揺れ、空の色が変わる。
白は蒼を裂かず、蒼も白を討たず。だが、それは慈悲でも友誼でもなかった。
ただ、まだ互いを見極めているだけ。そんなひやりとした緊張が、庭のすべてを貫いた。
青龍はひときわ高く、天を仰いだ。
「踏みにじられた命が、今も語られぬままなら――その秩序は、果たして正しきものと言えるだろうか。」
白虎と青龍の対峙がもたらした緊張はまだ消え去っておらず、空気には微かな震えが残っていた。
その刹那、帳の奥から一条の影が疾風のように飛び出し、二人の間に割って入る。
次の瞬間、矢のような鋭い破空音が耳を裂いた。
銀白の鞭が凄まじい勢いで振り下ろされ、冷たい殺気と風が奔る。
凛音は思わず左腕を突き上げた。ほぼ反射に近い動きで、その一撃をまともに受け止める。
「——あっ……」
鞭の重さは想像以上だった。骨に響く音とともに、彼女の体は一歩分後ろへと押しやられる。腕は痺れ、袖が裂け、皮膚には鋭い一筋の裂傷。滲み出た鮮血が、すぐに布を染めていく。
焼けるような痛みに顔を歪めるも、膝は折れなかった。
深く息を吸い、歯を食いしばり、凛音は視線を落とす。震える指先を見つめたあと、素早く袖の包帯を解いて腕に巻き直す。一巻き、二巻き……きっちりと固定。
「……もう一度来ても、今度はただじゃ済まさない。」
顔を上げた彼女の瞳は冷たく澄んでいた。指先から滴る血すら、彼女の気迫を削ぐことはなかった。
言い終わらぬうちに、鞭が銀蛇のように宙を走り、再び凛音の喉元を狙ってくる。
彼女は身をひねって反応し、包帯を巻いた腕でそれを受け止めた。今度は見事にその一撃を制する。
「チッ……」
鞭が痙攣するように震える。腕に鈍痛が走るが、凛音は退かなかった。
逆に、鞭の尾をそのまま掴み、一気に引き寄せる。
女王が鞭を引き戻しながら、一歩前に出る。
夜色の衣が静かに揺れ、面紗の奥に、薄く笑う唇が浮かんだ。
彼女は片腕を構え、手首の一振りで鞭を巻き戻し、すぐさま反転させて凛音の腰を狙って打ちつけてくる。
凛音は鞭を手放し、そのまま身を屈めて滑るように後退。
すかさず剣を抜き、逆手に構えたまま斜めに振り上げて女王の喉元へと斬りかかる。
女王は軽やかに後方へ翻り、身に巻き付けた鞭で剣撃を受け止める。
「その剣、見せかけだけじゃないでしょうね?」
「抜いたからには、無事に収めるつもりはないよ。」
凛音はすでに踏み出していた。剣閃が女王の肩口を貫かんと走る。
その刹那、側面から一閃の光が飛び込む。
蓮だった。飛ぶように地を蹴り、旋回するように跳躍。鋭く横一文字に斬り込む!
女王は鞭尾を操って応戦。尾のごとく揺れる鞭が蓮の腰を狙う。
だが彼はそれを読んでいた。剣を地に突き立て、反動を使って鞭の上に飛び乗り、そのまま跳ね上がると、鞭を踏み台にして女王の顔面めがけて肘を振り下ろす!
鞭柄が肘打ちを弾き、女王は膝蹴りを反射的に繰り出す。
蓮の腹部に命中。彼は息を詰まらせながらも、着地の体勢を崩さず、しっかりと足を地に踏み締めた。
女王の動きは止まらない。鞭尾を素手で捉え、まるで鞭鎗のように一直線に放つ。
その速度は凄まじく、蓮が身を屈めて避けたにもかかわらず、頬に裂傷を受け、血が散る。
「……本気すぎるっての……」
彼は唇を歪めて笑い、手を地に滑らせると、鞘に戻していた剣を抜き上げて反撃。砂塵を巻き上げる勢いで、女王の顔面へ斬りかかる!
刃は届かず、だが女王は反射的に鞭柄で顔を庇う。その隙——
左側の死角が空いた。
凛音が飛び出す。肘の下に忍ばせた短剣が閃き、女王の脇腹を狙って振るわれた。
だが女王も一枚上手だった。足元の小石を蹴り上げ、凛音の足元を乱す。
その直後、回転させた鞭柄が逆流するように飛び、凛音の小臂を打ち据える!
「……ッ!」
痛みが閃光のように走り、剣を握る手が一瞬緩む。だが、凛音は退かない。
鞭が舞い上がる。今度は首元を締め上げるように襲いかかってくる!
——その時だった。
「カッ。」
骨の砕けるような音。それとも、地脈が断ち切れるような……そんな、重く響く音が空気を裂いた。
全員の動きが、一瞬で凍りつく。
次の瞬間。
銀鞭は空中で二つに裂け、断面はまるで鏡のように滑らかだった。
落ちた鞭の一端は、白く鋭い爪に踏み潰される。
白虎。
戦場の外、悠然と立つその獣は、ただ一度、爪を振り下ろしただけだった。
一歩も動かぬまま、淡々とその爪を引き戻す。
「やめろ。」
怒りのない、だが空気すら重くさせるような声。
凛音も、蓮も、女王も、一斉にその方を見た。
そこには、誰にも逆らえない気配があった。
風すらも、止まった。
女王はその場に立ち尽くし、目を閉じる。砂の音も消え、時だけが流れ続けていた。
——二十二年前の夜。まだ幼かった彼女は、玉座の影でそれを見た。
父が王宮の禁書庫から、封印された術式を奪い去った瞬間を。
その手には迷いがなかった。ただ、それが「何かを終わらせる行為」だということを、少女の彼女でも理解できた。
そしてその夜、女王——彼女の母は死んだ。
毒か、刃か、それとも術か。方法は伏せられ、誰も語ろうとはしなかった。
父は、何も残さず、翌朝には姿を消していた。
混乱の王宮。王の血を引くただ一人として、彼女はそのまま王位に就かされた。
政は続いた。国も続いた。ただ、心の奥に、ひとつだけ続かなかったものがある。
「……あれを盗んだのは、私の父。そして、母を殺した男。」
その語り口は、あまりに淡々としていた。
青龍が伏し目になり、白虎が振りかけた爪を止める。
蓮も、凛音も、その場から動けなかった。
女王はゆっくりと面紗を取り、はじめて凛音の方をまっすぐに見た。
彼女の声は、どこか寂しげで、それでも揺るぎはなかった。
「あなたなら……この国の『嘘』の続きを、見抜けるかもしれない。」
凛音は目を伏せ、そして剣に手をかける。
この刃は、誰のために振るうのか。
女王は、私と同じものを背負っているのかもしれない。
……いいえ、私はまだ途中だ。
だからこそ、私は選ぶ。自分の、本当の気持ちと向き合う道を。
ゆっくりと、しかしはっきりと顔を上げて、凛音は言った。
「では今夜、秩序の名のもとに沈んだ嘘を、わたしたちが斬りましょう。」




