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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十三章:時の淵に立ちて、還る道にも月の導きあり
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145 偽りを守る宴

 星曳せいえいの庭には、夜の香が漂っていた。

 砂に描かれた銀の紋は星のかたちを取り、天幕に吊された星燈は、風に揺れるたび赤と金の光をちらちらと落とす。

 帳の内には、珠を織り込んだ絹と精緻な刺繍がふんだんに施された長席が広がっていた。


 天鏡国の女王は、上座に静かに座していた。

 顔には薄布の面紗をかけ、黒銀の夜衣をまとうその姿は、どこか月影のように柔らかく、同時に、手が届かぬ冷たさを纏っていた。


「星の下で語らうのも、悪くはありませんわよ……こうして風を感じながらの宴も、久しぶりですもの。」


 その声には穏やかな微笑が乗っていたが、どこか「よそよそしさ」が残っていた。

 凛音と蓮は向かいの席に並びながら、互いに目を合わせる。無言のまま、杯を手に取るが、その警戒は解けていない。


 女王の側には、一人の少年が座っていた。

 幼いアイである。彼は蓮たちにまったく警戒心を見せず、筆を動かしながら夢中で絵を描いていた。

 紙には、青く長い龍と、その背に乗る小さな人影――凛音の姿があった。


「できた!」

 彼は嬉しそうに凛音の袖を引いた。「見て、お姉ちゃん!これ、凛音お姉ちゃんと浮遊!」


 凛音は目を見開き、すぐにふっと笑んだ。

「うん、そっくり。ありがとう、アイくん」


 しゃがみ込んで頭を撫でると、アイはくすぐったそうに笑い、言った。

「これ、帰るときにあげるね!」


「……じゃあ、その日まで、大事に持っててくれる?」

 その声に、アイは真剣にうなずいた。


 そのやり取りを横目に見ながら、蓮が一杯のミルクティーを彼の前にそっと置いた。甘い果実とナツメ、そして星砂で香りづけされた、天鏡独特の夜の飲み物。


「いっぱい描いたんだから、ご褒美だ……これを飲んだら、きっと、星の中で一番いい夢が見られるよ!」


「ほんと?」

 アイは目を輝かせながら、両手で杯を持ち、一口、また一口。

 やがてまぶたが重くなり、ふらりと凛音の膝にもたれかかる。


「……眠くなっちゃった……」


「じゃあ、おやすみなさい……いい夢、見てね!」

 凛音はそっと抱き上げると、額に優しく口づけを落とした。


「……この夜は、もう目覚めなくていいかもしれないから。」


 微笑みと共にその言葉を呟きながら、彼女はアイを侍女に預けた。

 誰も言葉を挟まず、ただその小さな背中を見送る。


 そして――


「そういえば」

 女王はグラスを揺らし、夜の帳を眺めるように言葉をこぼした。

「……二十二年前の祭儀の夜。今でも、星官たちの中には、ときおり語り継ぐ者がいるのですよ──『あの夜から、星図は歪み始めたのだ』と。記録には、何ひとつ残されていないはずなのにね。」


 その瞬間、宴の空気が、わずかに冷えた。


 張られた天幕の外から、風が一筋、香を散らす。

 琵琶の音が途切れ、侍女たちの所作もほんの少しだけ、遅れた。


 凛音はゆっくりと顔を上げた。


「失われた夜の代わりに、舞と香で蓋い隠すつもりなのですか?」


 その声は穏やかだったが、瞳には一片の揺らぎもない。

 女王は杯を、音もなく卓に置いた。


「……あなたたちは、『記録』を取り戻しに来たのかしら?」


「いいえ。」

 先に答えたのは蓮だった。

 彼は杯を手放し、ゆったりと立ち上がる。

「記録なんて、書き換える者の都合ひとつでどうにでもなる。私たちが取り戻したいのは……『歪められた夜』そのものです。」


 女王の視線が、一瞬だけ、細くなった。


「……王に必要なのは、『真実』ではなく『秩序』。それこそが、天鏡に平和をもたらす唯一のスベなのですから。」


 楽の音が、ぴたりと止んだ。

 風が、帳のすき間から入り込み、銀の砂紋を揺らした。


「目的はもう十分伝わりました。でも、『あの夜』に触れる者がどうなるか……ご存知かしら?」

 女王の声はあくまで穏やかだった。けれど、その瞳には、もはや笑みはなかった。


 凛音は立ち上がった。目は、まっすぐに女王を見据えている。

「……その前に、一つ、お願いがございます。」

 その声には、場の空気を静かに塗り替える力があった。

「この場に控える侍女と奏者方、すべて、下がっていただけますか。」


 女王の眉が、わずかに動いた。

「……理由は?」


「これから話すことは、誰かが側で記録すべきことではありません。そして、これから起きることは――誰かが見ていていいことでもありません。」


 一瞬の沈黙。

 女王は扇を口元に当て、小さく笑った。


「ふふ……そうね、確かに。星の記録からさえ消されるようなことなら、目撃者は少ないほうがいいわ。」


 指をひとつ鳴らす。

 すべての侍女、楽士、給仕が静かに、迷いも見せずに退出した。


 蓮がゆっくりと立ち上がり、杯を卓に戻す。

 その動作は優雅で、あまりにも自然で――けれど、次の言葉で空気が張り詰めた。


「『殺し』に来たんです……嘘を、ですけど。」


 瞬間、四方から数名の侍衛が飛び出す。

 砂を蹴り、刃が光る。


 ――しかし、蓮の動きには、一片の乱れもなかった。

 右に一歩、左へ一転、踵を返し、掌で柄を押し戻す。

 刀を抜かぬまま、三歩、三人。

 音もなく地に膝をつく侍衛の間に、ただ砂の波紋が広がっていた。


 女王は唇をわずかに歪め、微笑を浮かべた。

「……『殺し屋』とは、ずいぶん皮肉な名乗りね。」


 蓮は首をかしげ、笑う。

「そうでしょう? でも一度だけ、やってみたかったんです。こういう登場。」


 その時、庭の地面が、低く震えた。

 空気の流れが、変わる。


 女王の背後、銀砂の紋様が光を帯びる。

 白虎の紋章が、浮かび上がった。


トキの流れは、黙して進む。忘却こそが、秩序の形をなすこともある。」

 白虎の声は低く、威厳に満ちていた。


 凛音は、一歩前に出た。

 その背に、風が集まり、空気が揺れる。


 「……記録を守るのが、あなたたちの務めなら。記録を歪めた罪もまた――あなたたちのもの、でしょう?」


 青龍の気配が、凛音の後ろに現れる。

 優美で、どこか哀しげで、それでも確かな光を宿した瞳。


 「浮遊。準備はいい?」


 青龍は小さくうなずいた。


 白虎が、低く身を構える。

 青龍が、天に首を振り上げる。


 ――二柱の神威が、交錯する刹那。

 だが、地上で剣を構える人間の瞳もまた、光を失ってはいなかった。


 蓮が静かに刀を抜く。

 その切っ先は、誰でもなく、宙に掲げられた「この夜そのもの」へ向けられていた。

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